イヤイヤ期は人間としての尊厳の表れではないか  ※追記あり


※私は「子どもは大人を敬うべき」みたいな考え方がよくわかりません。今回の記事はそういう考え方の方が読むと違和感あると思います。

※末尾に追記があります。

長女の壮絶なイヤイヤ期

うちの長女のイヤイヤ期はすごかった。

一度崩れると、絶対に立て直すことができない。30分くらいは手も足もでないということがよくあった。そういうときは抱っこして落ち着かせる、とかいうけど、抱っこはできない。叫びながら暴れて、私の腕から全身で逃れようとしていた。

長女4歳の頃、キッザニアに行こうと通勤時間帯真っ只中に電車移動したことを今でも思い出す。大江戸線の新宿駅の改札の目の前で、手が付けられない状態になり、泣き叫びながら寝転がってしまったのだ。

次女を抱っこしながら、どうにもできないから、引きずって場所を移動するんだけど、また改札前に走って戻っていく。

びっくりするくらい多くの人が通り過ぎるその場で、通りすがりの女性に

「ここ改札前ですよ」「迷惑ですよ」

と言われたときは、本当に泣いたな。

怒りが止められなくて、でも人目がたくさんあって声をあげられないし(と思っていた)、頭がおかしくなりそうになったのを覚えてる。二人きりだったら確実に手をあげていたと思う。

なぜこんなことをするのか。その時の私にはよくわからなかった。今思うのは、長女はこの時、私が困ることを必死にやっていたんじゃないかということだ。

怒ってきく子ときかない子

イヤイヤ期は、赤ちゃんとして生まれ、自分の意志を持って行動するようになった人間が、社会に適応する中で多かれ少なかれ現れるものらしい。

今まで否定を一切されなかった人間が、このときから急に否定されることが増える。その衝突をうまく消化できずに、泣き叫んだり、暴れたりする。

それを聞いたとき私は思った。イヤイヤ期の子供たちは人間としての尊厳を爆発させているのではないか。

長女はあの時、人間としての尊厳のすべてをもって、私を困らせることで必死に抗議していたのだと思う。

もちろんすべての子がそのような表現をするわけではない。

次女も今この時期で、保育園に行きたくないというんだけど、長女とは全く違う。切り替えも早い。自転車に乗せてしまえば、行きたくないなんて言っていたことはすぐに忘れてしまう。

一番驚くのが、この子は私が怒るということを聞くことだ。

例えば先日こんなことがあった。保育園に行きたくない次女になんとか着替えをさせ、私は玄関で次女に「はやくいこう」と声をかけた。

すると次女は着替えたものを全部脱ぎ、行かなーい!と怒っている。

あれだけ苦労して着替えさせたのに脱ぎやがって…私は怒りをおさえられず、「いい加減にしなさい!」(こういうとき旧時代の説教言葉が出てきてしまう)と叫んでしまった。

こういう場面で長女だったらさらに泣き叫び、事態は一向に進まなかった。こう着状態が続くだけだ。最終的に私がもう一度むりやり着替えさせ抱え上げて登園していた。「ママ、あっち行ってー!」「こないでー!」顔を真っ赤にして泣き叫んでいた。

でも次女は「ごめんなさーい」と泣きながら、自分で着替えをして、玄関までくる。「元気になってよー(怒らないでの意)」、「抱っこしてー」といって、登園することができる。

で、この方法がいいとは全く思わない。大人の事情にあわせているだけだし、怒りでコントロールできることなんてたかが知れている。

私という同じ親から生まれた姉妹に同じ対処法をしても全く反応が違う。怒ってなんとかなる子もいるけど、悪化する子もいる。もしこれが長女と次女がうまれる順番が逆だったらと思うとぞっとする。

躾ができていないから暴れる、は全く逆だと思う

私も精神的に余裕があるから、次女にはいろいろと試した(なんて親)。

そこでわかったことは

①くずれたときは早めに対処するだけで持ち直しの可能性がぐっとあがる
②注意するときは、落ち着いてそっと
③ちょっとでもいいところがあったら「ありがとう」の視点から振り返る

要するに尊厳を守りながら注意する方法だ。もちろん、感情にまかせてぶちまけることは私にもある。その感情を否定しなくていいとおもう。でもそれはやはりマイナスなものしか生み出さない。それは意識したほうがいいと思う。

↓そのあたりのことがスイスイさんの記事に書いてあるのでお時間ある方はぜひ

次女がくずれたときに、「ありがとう」を多用すると、持ち直しが早い。(長女にやってみても効果はなかったかもしれないが)

着替え終わったあとに目を見て「着替えてくれたんだ、ありがとう、助かる」というだけで、その後は笑顔で登園してくれる。

躾をしないから暴れるという考え方には賛同できない。人間としての尊厳が危ういから、暴れて抗議している。今のままのあなたでいいのだと伝えたあとで、ルールを教えるのでも遅くないのではないか。

思い通りにいかないことを教えなくてはいけないってなんぞや

よく、「思い通りにいくことばかりではないことを、子どもに教えなくてはいけない」という人がいるんだけど、私には納得ができない。

教育哲学者・苫野一徳さんのこのエッセイをぜひ読んでほしい。

だれもが「生きたいように生きたい」と願っています。学校は、そんな子どもたち一人ひとりの「生きたい人生」を共に考え、それを実現するための力を育む使命を持っているのです。
その一方で、それぞれがそれぞれの〈自由〉をただ主張し合うだけだと、激しい争いになってしまいます。その結果、自分自身の〈自由〉もまた失ってしまうことになるでしょう。
だから私たちは、他者の〈自由〉もまた認め、尊重できるようになる必要があります。
これを〈自由の相互承認〉と言います。この感度をしっかりと育むこともまた、学校教育の大事な使命です。

順番があるのだと思う。

自分を認め、そのうえで自分と他者の自由を認め、尊重しあう。それが人間が生きる本来の道なのではないか。


尊厳を爆発させているのだから、社会的ルールをおかしていいということにはならない。

でも練習中なのだ。

うるさいと思うだろう、迷惑だと思うだろう。私たち親はその100倍、うるさいし迷惑だと思ってる。

少しだけ、温かい目で見ていただけたらうれしい。どうかよろしくお願いします。

[追記]

ゆっかさんとやっている ハッシュタグ #親を救えば子も救える の活動も、私のこの考え方に基づくものです。

共感していただいたら、こちらも読んでいただき、ハッシュタグに参加していただけたらうれしいです。

[今日のうえいく]※昨日です
テープ起こし:2時間
企画出しのための資料読み(まんが):1時間
長女の保護者会:2時間


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