傷口から広がる社会を肯定したい

「人に迷惑をかけるな」

この言葉が嫌いだ。というか嫌いになった。

先日の乙武さんのツイートには共感しかない。


そもそも、人に迷惑をかけずに生きることができるだろうか。

私は人に迷惑をかけないで生きているという人がいたら…「一度見てみたい」と書こうと思ったけど、そう言う人たくさんいるだろうな。

じゃあ今はいい。あなたが誰にも迷惑をかけていないと認めよう。でもその「迷惑かけない自分」を基準に考えたとして、40年後はどうする?自分一人で歩けなくなって、何もできなくなってしまったら?どうやって人に迷惑をかけずに生きるんだろう。人生100年時代に、自立して生きていられるのは20代~70代の50年くらいではないか?子どもの頃は親に経済的負担をかけるだろうし、老後は身体的に介助してもらうことも必要になるだろう。

こういうことを言うと、結果的に迷惑をかけることになってしまうのはしょうがないけど、最初から迷惑をかけるつもりで利己的にふるまうのはだめ、みたいな話になる。

逆だろ!と私は思う。

人に迷惑をかけてもいい、どんな自分でもいいと肯定されてきた人間は、そもそも人に攻撃をしようとか、人を困らせてやろうなどと思うはずがない。みんな自分の人生に夢中だから。迷惑をかける人間代表、おでんツンツン男が現れるはずもない(多分)。

じゃあ電車で騒ぐ子どもは?と聞いてくる人がいたら、子どもが公共のルールを守れないのは、それが大人用に作られているからなわけで、ルールを教えて自分ができるようになるまでは、少し時間がかかる。少し長い目で見てもらえたらうれしい。それに電車で騒ぐのは子どもだけじゃない。大学生くらいになったら自我が肥大し、騒いだりする。飲んだくれた社会人だって人に迷惑をかける。いいじゃないか、人間らしくて。

私は普段人に迷惑をかけまくっているから、人の迷惑をほとんどなんとも思わなくなってしまった。

Photo by Jeremy Bishop on Unsplash


育児の壁にぶつかり、降参した

以前は私も、とにかく「人には迷惑をかけてはいけない」と思っていた。

ある時まで私は、成果こそ残せていないけれど、人には迷惑をかけていないという自負があった。

なぜそのタガが外れて超絶ゆるゆる人間になったのか。

それは私が育児の壁に完全にぶつかったからだ。

このnoteでも何度か書いてきたけれど、私は当時2歳だった娘のことをだめな人間だと思っていた。
この子を立派な人間に育てなければ、と。

しかしどうやってもうまくいかない。私も娘も追い詰められていた。

その時、育児を「人に助けてもらわなければできない」という、認めたくない状況に陥った。

でもその状況になったことで、私は初めて人生に降参し、人を信じて迷惑をかけられるようになった。(3年くらいかかったけど)

世の中には、その状況になっても、最後まで自分でなんとかしないといけないとふんばり続ける人がいる。ふんばる人のことはどうやっても助けることができない。

私は世の中の犯罪や悲劇の多くは、だめな自分を隠すために起きていると思っている。(このことは、長くなるのでまた次の機会に書きたい)

今からでも遅くはないし、そういう人を助けたいと思っている人、助けること喜びを感じる人はたくさんいるから、安心して手放してほしいと思う。

Photo by kazuend on Unsplash

子どもを一度でも殺してしまいたいと思ってしまった呪いが、まだ消えない

この前友人と話していて、今の私の考え方は、とにかく自分を満たすことが最優先だから「眠かったら会議に出なくてもいいと思ってる」と言ったら

会議は出なくちゃだめ、信用を失うし、みんなそこに時間をあわせているのだから、と。

まあその通りなんだけど、それは社会にいる人間が完全体だという前提で作られているような気がしている。

例えば一度でも鬱になったことがあるような人だったら、眠かったら会議に出なくていい、を肯定してくれるのではないか。眠いとかだるいというのは体からのサインで、もっとそこに敏感でいいと私は思っている。「眠いから行きません」と言うのは許されないかもしれないけど、そこは…うまくやろう。うん。それに自分が心身をささげられる仕事を適量にできていれば、会議に出たくないなどという状態になるはずもない。

その友人は私が子育てに挫折し、子どもに黒い感情を抱いたことを肯定してくれた。それは彼女の中に似た傷があったからだろう。でも私のその黒い感情を否定する人もいるはずだ。そういう人は、自分がうまく子育てをできている、もしくはできたと思っている人だ。そういう人達で社会はまわっているし、否定はしない。

でも私は傷口から広がる社会を肯定したいし、傷口があることで社会とつながることができると信じている。社会はありとあらゆる、人々の事情でできている。自分の傷口から想像できる事情なら人は許容できる。ジャッジして線引きする世の中ではなくて、許容できる社会になってほしい。

なぜ私は人の生きづらさとそれを許容してくれる社会にここまで固執しているのだろうと、ここ最近考えていた。

そして、自分の子どもを一度でも殺してしまいたいと思った呪いが、まだ消えていないからだと気付いた。

私が救ってもらった分を誰かに返したいというと聞こえはいいけど、自分と同じように生きづらさを感じる人を解放することで、子どもに許してもらいたいと考えているのだろうと思う。

都合のいい考えだ。でも、こういう消そうとしても消せない呪いが、私が社会とかかわる意味、書く意味を与えたのだと思う。

過去の意味付けはいくらでも変えられる。そうすると今起きている出来事が良いことだとか悪いことだとか、ジャッジしようとも思わなくなる。すべては未来の一歩のために起きていると私は信じている。


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コメント5件

人に迷惑をかけてはいけないって美しい精神のようでお互いに息苦しいですよね😣上野さんのnoteを読んで改めて自分にも人にも寛容でありたいと思いました。
Yokoさんコメントありがとうございます!なぜこんなに息苦しいのでしょう、ほんとに。私もお互い様、と言えるような関係をたくさん築いていきたいです!
「人に迷惑をかけるな」という第一文で引き寄せられてきました。インドでは、そもそも人間は不完全な生態系だから、迷惑をかけてもお互い様だよね〜という文化があるので、僕もそっち派です。
新井さんコメントありがとうございます!インド素晴らしいですね!それは宗教の教えなんでしょうか?お互い様な世の中になるといいですね(^_^)
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