映画「マダム・イン・ニューヨーク」 失われた肯定感を取り戻せ

 先日友人とディズニーシーに行くはずが仕事終わりに高熱を出してしまい、行けなくなった。幸運なことに2連休を取っていた為、ゆっくりしながらネトフリで「マダムインニューヨーク」を見た。いや~、だるい体で見る昼下がりの映画は格別だなぁ!(ヤケクソ)


雑なあらすじ

インドの専業主婦がNYの語学学校に通い、本来の自信を取り戻す話

ちゃんとしたあらすじはココからどうぞ……


感想

 まず映像そのものが美しい。シャシの日常として描かれる朝の光景や、色とりどりのサリー、鮮やかな黄色のラドゥ、盛大に祝われる結婚式の風景…。シャシの目に映るものがきれいに見えるのか、シャシが無価値かもしれないと感じている風景にも価値があるんだよっていう事の現れなのか。なんかキレイで後味がいい映画を見たい人にお勧めできる。

 シャシは英語を話せない事を理由に周囲(主に家族)から見下され、どんどん自信をなくしていく。こういうことは私にの日常にも容易にあることで、結局このように失われた自信は、自分の努力を伴う肯定感を得ないと取り戻せない。彼女は自己否定のどん底にいたが語学学校の教師によって「インドの古風な専業主婦」から「実業家」になった時に、変われたんだろう。

 私自身英語を話せないし、仕事上英語を使わざるを得ない状況になっても話せず苦労する場面が多い。逆に日本語が不自由な人と接することも多い。人の事を話し方で判断することはおおよそ一般的な判断基準だと思う。「マジ ヤバーイ」と言う人より「大変ですね」と言う方がしっかりしているように見るだろうし見られるだろう。知性が足りていないから話し方が上等でないと考えがちだ。ただ語学力、語彙が追い付いていない為に話し方が幼稚になる場合もある。職場の外国籍の人々が片言で話す様は、私から見れば少しかわいらしい話し方に見えることもある。しかし彼らは本当は母国語でどのように話すのか、時々考えることもあった。この問いのひとつの答えが本作にあるのかもしれない。

 人間の本来の尊厳、人を人としてみる難しさはどんどん上がっているように思う。駅ですれ違う他人はピクトグラムのような存在で、いるけどいない記号のような存在だ。そこに人間性を見出すのは難しい。結局発露されない限り記号から人間にはなれない(認識できない)のかもしれない。道ですれ違う人々、その役割を演じている人にも、自分と同じように(あるいはもっと高度に)思考して生きているんだという認識を改めて持ちたい。

余談:ラドゥというたびに『トリニティブラッド』がちらついて途中から集中できなかった


2019/6/24 視聴


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