久しぶりに ばあちゃんの事とあの頃の私。
バリ島発オリジナルバッグsisiの生島です。
まずはまだご覧になってらっしゃらない方は是非この動画を🙏↓
そう、皆さんにはそれぞれ「おばあちゃん」と言えば2人居るわけですが、私は縁がとっても深かったのは母方の祖母。(父方の祖母のこともしっかり覚えてるけれど、あんまりおしゃべりしたりした覚えは無くて。でも、以前そっちのおばあちゃんが寂しがってるから、しっかり思い出してあげて、と「ちょっと視える人に言われた」)
「10年続けて初めてホンマモン、と言えるんやで」
「商売は牛のよだれや、途切れそうになりながらもずっとたらたら流し続ける。続けることが大事なんやで」
「あんたは何屋や?それを忘れたらあかんで」(これは母にも言われてきました)
等々、色々な商売に対する格言名言を私に残してくれ、生き様で見せてくれたおばあちゃん。
本当に日々思い出します。
おばあちゃんから遺してもらったレシピも私の中にあります。(母はもちろん姉たちにもあるんじゃないかな)
満洲に暮らしていたことのある祖母、中華料理の影響も大きく、特別な時に作ってくれる「中華チマキ」や春雨たっぷりの「中華鍋」、衣に素麺を使った天ぷらなど本当に美味しかったし新鮮でした。
上の方でも紹介しましたが大衆食堂「ふじや」。
私が小学3年生の時に大阪市内で祖母と祖父がやっていた食堂が私たち家族との同居によって堺に。
3階建ての新築の家(その時に隣の隣の町ぐらいから私たち5人家族は引っ越してきた)2階は「ふじや」で2階3階が住居でした。
私は奈良の大学に入って家を出るまで、その家に住んでいました。
日曜日の定休日以外、昼間は家の同じ空間(階は違えど)が商いをしていて、外からの人がいる環境。
小学校高学年ぐらいからは土曜日に早く帰ってきてお店が忙しければ
「尚さん、手伝って!」と声をかけられ小学生なりに出来ることを手伝っていました。
それはお客さんが来たら冷水機からお水をくんで運んだり、洗い物を運んだり。中学生ぐらいになると中華鍋を振ってチャーハンを作ってました😂
うどん、そば、中華麺(黄そば、と呼んでいた)の麺物。
ある程度のメニューは全て作れました。
中でも、ずっと褒められたのが私が編み出した新メニューの「中華そば」。
これは確か、私が賄いに作っていたものが採用されたはず。もやしやなんかのお野菜そして豚バラの細切れを炒めたかさっと湯がいてか、中華麺とうどん・そばのダシ(カツオと昆布。祖母が朝一から毎日しっかり取っていた)に合わせて最後に香ばしいごま油を回しかける。
中華麺は焼きそばにしかその時は使われてなかったのかな? 麺類はうどん、そばのメニューは一般的な「きつね」「たぬき」「月見」「たまごとじ」「木の葉」などしかなかったのに、ごま油と豚バラでパンチの効いたラーメンよりはあっさり、でもちょっと当時は「ハイカラ」なメニューが出来て人気の定番メニューにあっという間に仲間入り。
ちなみに関西以外の方は「木の葉?」となりそうなので参考リンクを。
祖母に母に、何度も褒められたのをこの前「ふと」思い出しました。
花形メニューの「とんかつ定食」のとんかつを揚げられるようになった時は「私も一人前やな」と思ったものでした。「ふじや」ではラードを使ってたから絶対美味しいんですよね。
塩胡椒、そして「ガーリック」と祖母が呼んでたガーリックパウダーを擦り込んだロース肉をざっくざくに揚げて一気にザクザクっと包丁で切って千切りキャベツの上に並べて行く。
どんな時も「とんかつ定食」が私の最上のご馳走だったように思います。
あぁ、こんな事を書いてたら、そりゃぁ私の子供たちは私のお手伝いを頼まれるわね。
それは、まさに私と同じだったんだ!!
別に私が突然斬新な教育法を編み出したんじゃ無かったんだった😂
友達らのお母さんが違う立場で家に居て、お家のことをしてくれて子供たちのことを最優先でやってくれてる…夜も家にいる。(我が家は謎の「会議」というのでよく両親とも夜に家を空けていた。祖父が同居してからあっという間に膵臓癌で亡くなって、祖母がいつも一緒に居てくれた。)
4歳と5歳年上のしっかりした怖いほどの姉2人と一緒に共稼ぎの尚ちゃんは堺でNO GAME(ゲーム一切させてもらえなかった)NO塾(塾も絶対に行かせてもらえなかった)で家業の食堂を手伝い大きくなったのでした。
姉たちは看護士に。
血が怖く、算数の域からいつまでも出られなかった私(数学からっきしダメ)は姉たちにもちろん続ける訳もなく、考えた訳もなく、完全にサラブレッド?として「商売人」の道に進みました。
商売を始め苦難する、そして喜びを語る私に母は当初は困惑し(すぐに応援にかわりましたが)、祖母は最初からずっと喜び応援し、支えてくれました。バリと日本で離れても、亡くなってからも「存在の大きい」祖母、おばあちゃん。 今でもたまに夢枕に立ち「尚さん、頑張ってるな!」とギュッと抱きしめてくれる。
早く亡くなった祖父が私についてるのは知ってたけれど、亡くなってからは更に私の後ろには夫婦でじいちゃんばあちゃんがついていて、ぐっと支えてくれている。
私の商売人としての人生をいつも笑顔で応援してくれている。
そして有難いのは私の両親はもちろんのこと、本当に多くの方が「ナオミさん次に何するかとっても楽しみ」と見守ってくれて「一緒に冒険してる感じ!」なんて言って下さったり。
面白いのが私が色々するのを複雑な思いで見守ってる人も多いという事なんですが、それはそれで、それもスパイス!
こう書いてて、やっぱり私は なるべくしてこの立場に居るんだなと誇りに思います。 天職(何屋さんなんですか?と言われると一応カバン屋さんなんですが、その肩書きで色々させてもらってます。)に巡り会えてとっても幸せ。でも、それは同時に私が「そういう生き方」をしっかり選んで汗と涙で勝ち取ってきた。
先日Youtubeでホストのローランドさんが「どうやったらあなたのように自信が持てますか?」と早稲田の学生さんに聞かれ「1年365日、夢に向かって本当に頑張ったやり切ったという日は何日ぐらいある?」と質問を質問で返していて、
確かその質問者さんは「10日ぐらい」と答えていた。それに対してローランドさんは「俺も毎日は無理だけれど300日ぐらいはそう」と答えた。
もちろん彼は若いから、これからこういう言葉をもらって変わって行くんだろうし、変わっていけば良いと思う。
けれど、私も同時に「私は…350日ぐらいかも」と思いました。それはそれで やり過ぎ!なんだろうけれど、ローランドさんもそうだと思うけれど「やった日を数える」という感覚ではなく「やらなかった日が気になってしょうがない」という状態。
この質問は↑の動画の7:30ぐらいのところです。
「派手」に見える彼の仕事そしてパフォーマンス、ルックスだけれど「これだけ色々やって考えてるけれど、結局は「努力する」って答えしか出てねーんだよね」と。 うんうん、と深く頷いた。
やってる人間は面でも裏でもやってんですね。
「なおさん、続けるんやで」
この言葉が今日も私の中で光っています。
バリ島・ウブドで2000年からオリジナルバッグ のお店しています。
コロナ中に立ち上げた「発酵食」のお店がなかなか元気です!
やっぱり飲食の仕事が好き♡
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?