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(一)コンクール編 ③

 現代社会は出版不況と言われているように、活字社会ではなく映像社会ですから、メジャーなシナリオコンクールともなると、小説コンクールのように数百人の応募数ではなく、千人を超える活況です。賞金額も小説だと、せいぜい50万円から100万円ですが、フジテレビのヤングシナリオ大賞などは300万円です。
 当然、それを勝ち抜いて頂点である大賞を獲得するのは、並大抵のことではありません。
 今や、シナリオコンクールで入選するのは、応募数の多さからしてもハイレベルで、小説の世界で、芥川賞、直木賞を受賞するよりも難しいかもしれません。
 現在、シナリオコンクールも乱立気味で、話題作りのための単なるイベントになっていて、本気でプロのシナリオライターを育てようというコンクールは少ないようです。
 制作会社のプロデューサーに聞いた話では、数あるコンクールの中では、一番面倒見がいいのは、フジテレビのヤングシナリオ大賞だそうです。  
 そのコンクールで大賞を獲得すれば、いきなりゴールデンタイムの連続ドラマを書かせてくれます。そこから出てきたのが、テレビドラマで一時代を築いた、野島伸司(『高校教師』『愛という名のもとに』)、坂元裕二(『東京ラブストーリー』『カルテット』)さんたちでしょう。
 このことが、フジテレビのドラマが好調だった原因でもありました。他局もそのことに気づき、自局でシナリオコンクールを実施したのはいいのですが、フジテレビのように“人材発掘”というコンセプトが希薄で、コンクール自体がうまく機能せず、新人シナリオコンクールという名のイベントに終わってしまったのは、テレビ業界の大きな損失と言わざるを得ません。
 その点、フジテレビはコンクール自体が、“人探し”というコンセプトで、コンクールに入選しない人でも、一次審査に通っただけで、この人はプロで十分やっていける人だと思ったら、プロデューサーがフライング覚悟で、声をかけてくれるそうです。
 そのくらいの冒険心がなければ、なかなか人は育たないものです。
 業界の人の中には、
「えーッ、育ててもらいたいの?(甘ったれるんじゃない)」
 と、さも小馬鹿にしたような言い方をする人もいました。
 しかし、日本映画草創期、全盛期には、各映画会社で俳優のニューフェイス公募とか、助監督、脚本家を募集して独自で人材を育てていました。
 戦後、第一回東宝映画のニューフェイス採用試験で、一旦は不採用になって、電停で電車が来るのを待っていた若者がいました。何故か彼は、来た電車に乗らず、次に来る電車を待っていました。そこに、試験会場から助監督が彼を呼び戻しに来て、採用されたそうです。
 その若者を呼び戻しに行くように指示したのは、後の巨匠・黒澤明助監督(当時)でした。何故、黒澤さんは、その若者を呼び戻しに行くように言ったのか? (審査会の司会をしていた、本木荘二郎プロデューサーだという説もあります)
 たまたま審査を見ていた女優の高峰秀子さんが、その若者の野性的な演技を見て、
「クロちゃん、面白い人がいるわよ。見に来て!!」
 と、黒澤さんを呼びに行きました。それを見た黒澤さんは、その若者が不採用になったと聞いて、
「これからの日本の映画界には、彼のような俳優こそ必要です」
 と、審査員を説得して呼び戻しに行かせました。その若者こそ、後の三船敏郎さんです。
 当の黒澤監督も助監督採用試験で、たまたま面接の審査員だったのが、名匠・山本嘉次郎監督で、音楽好きの黒澤さんと意気投合し、500人の応募者の中の5人に採用されました。
 な、なんと、他の採用者は、東京大学、京都大学、慶応大学、早稲田大学卒業という超エリートの中で、黒澤さんは中卒(今でいう高等学校)でした。
 もし、そのとき審査員が山本嘉次郎さんでなかったら、もし、たまたま高峰秀子さんが、演技審査を見ていなかったら、もし、黒澤さんがロケで撮影所にいなかったら、もし、三船敏郎さんが、最初に来た電車に乗っていたら、後の世界のクロサワ、ミフネは、誕生しなかったことでしょう。
 運命とはそうしたものです──。
 昭和30年頃の映画界でも、倒産寸前だった日活映画の上層部が、松竹映画で、上がつかえてなかなか監督に昇進させてもらえなかった助監督連中に、
「うちに来たら、すぐに監督として一本撮らせてやるぞ」
 と声をかけ、まだ海のものとも山のものとも分からない、石原裕次郎をいきなり主役に大抜擢して、
「お前らの好きなようにやっていいぞ」
 と言って、起死回生を果たしました。
 そこから出たのが、中平康(『狂った果実』『変奏曲』)、今村昌平(『にあんちゃん』『楢山節考』)、浦山桐郎(『キューポラのある街』『非行少女』)といった監督たちです。

 さらに、意外と思われるかもしれませんが、プロのシナリオライターで活躍している人は、コンクール出身者より、別の方法でデビューした人の方が多いのも事実です。
 以前、ゴールデンタイムのシナリオを書いているシナリオライターで、コンクール出身者は何人いるかをチェックしたところ、2割しかいませんでした。
 昭和40年、50年代のテレビドラマ全盛期に“御三家”と言われたシナリオライター、倉本聰、山田太一、早坂暁氏は、ともにコンクール出身ではありません。橋田壽賀子、向田邦子氏も、コンクール出身ではありません。
 山田太一、橋田壽賀子氏は、ともに松竹大船撮影所脚本部の出身ですし、倉本聰氏もニッポン放送出身です。
 山田、橋田両氏の場合は、我々のように、カネを払ってシナリオを習いに行くのではなくて、逆に松竹から給料を貰ってシナリオの書き方を教えて貰えたのですから、羨ましいと言うか恵まれていると言うか、映画全盛時代の良き時代でした。
(この時代のことは、元松竹映画プロデューサーで江戸川乱歩賞受賞作家、小林久三氏の『雨の日の動物園』という名著に詳しい)
 倉本氏の場合は、ニッポン放送でディレクターをやっていて、レギュラーのシナリオライターの原稿が間に合わないときに、倉本聰のペンネームで、自ら放送原稿を書いていました。
 ある日、上司に呼ばれ、
「君は、いつもベテラン脚本家に書かせているが、最近、若手で倉本聰っていうのが出てきたから、一度会って来い」
 と言われ、会社に内緒で書いていたことがバレたと思い、会社を辞めて、シナリオライターとして独立しました。
 早坂暁氏に至っては、それまで勤めていた会社が倒産し、家でゴロゴロしていたら、NHKにいる友人から電話がかかってきて、シナリオを書いてみないかと誘われたのが、デビューのきっかけでした。
 何故、こういう現象が起きるのでしょう-----?
 それは、小説は書きたいものを書けばいいが、シナリオは注文仕事で、発注者の要望に応えなくてはいけないからです。
 つまり、コンクールは書きたいものを書けばいいが、プロのシナリオライターになったら、発注者に合わせなくてはいけないのです。
 家の設計図のことを考えれば、分かりやすいと思います。自分が住みたい家の設計図を書くのではなく、住む人の要望に合わせなくてはいけないのです。
 それが不得手(ふえて)な人は、シナリオライターには向いていないでしょう。そういう人は、いつまでもシナリオという表現形式にこだわっていないで、誰に遠慮せず、書きたいものを伸び伸びと書ける、小説という表現形式に転向することをお勧めします。
 テレビドラマでは、スポンサーが自動車会社なら、車の事故は扱えませんし、宗教、人種問題もなかなか難しいものがあります。
 つまり、足枷(あしかせ)が多いので、順応性がなくては、プロのシナリオライターにはなれません。しかし、小説にはそういう制約がなく、何を書いてもノープロブレムです。
 コンクールに入選しても、人に合わせることができない人、順応性がない人は、シナリオライターには向かないでしょう。私の知っている人にも、何人かそういう人がいます。そういう人は、書く才能があるのだから、シナリオという表現形式にこだわらないで、さっさと自分が書きたいものが書ける、小説に転向した方が得策かと思われます。
 小説家になって、ベストセラーを書いて、プロデューサーがその原作を、テレビドラマや映画にしたいと言ってきたら、自分にシナリオを書かせてくれるという条件を出せばいいのです。
 一度マスターしたシナリオ執筆の技術は、そうそう容易(たやす)く忘れるものではありません。ましてや、シナリオコンクールに入選するぐらいの才能があるのですから-----。
 逆に私の場合は、シナリオより先に、小説の新人コンクールに応募しようと書き始めたのですが、文章と文章の間に隙間風が吹いているようで、
「こりゃいかん。小説家になるには思いつきだけではなく、ある程度の文章力、人生経験がないと書けないな」
 と、自分の未熟さを痛感し、一度は断念してしまいました。
 そこで、シナリオの方が簡単に書けるのではと方向転換し、シナリオの書き方の本を読んで、見よう見まねで一本のシナリオを書きあげ、シナリオの新人コンクールに応募しました。
「やった、オレはとうとう日本映画界を変える、とんでもない傑作を書いてしまった」
 と思って、コンクール入選の連絡を、入選後のバラ色の人生を勝手に思い描きながら、今か今かと首を長くして待っていたのですが、そんなおいしい連絡は来るはずもなく、書いては出し、書いては出しの繰り返しで、誰もが味わう落胆、挫折の連続でした。
 あとで知ったことですが、小説と違って、シナリオは一見簡単そうなので、初めてシナリオを書くと、誰もがそんな大それたことを考えるようです。
 今でもそのとき書いたシナリオを保管していますが、今読み返すと、これじゃあ、一次も通らないし、私がコンクールの審査員だったら、2、3ページ読んだら、「最後まで読む価値なし」と、即断即決し、落選の判断をする代物です。
 セリフは、説明ゼリフのオンパレード、ト書きは映像になりそうもないことまでダラダラと書いてあり、とてもシナリオの体をなしていません。よく、恥ずかしくもなく、こんな代物を書いて、コンクールに応募して、その後のバラ色の人生を思い描いていたものだと恥ずかしいかぎりです。
 それもこれも、すべてシナリオという物をよく理解していなかったからです。家を建てるのに、設計図が必要なように、シナリオも映像の設計図なので、建築の設計図を独学で勉強しないように、シナリオも独学でマスターすることなど、到底無理ということです。
 それに気づいて、シナリオ作家協会主催のシナリオ講座に通いました。その頃は、この業界には疎く、脚本家組合が二つあるとは知らず、黒澤明、新藤兼人さんが所属するシナリオ作家協会だけだと思っていました。
 日本脚本家連盟の方は、テレビドラマの脚本家、バラエティ、ドキュメンタリー分野のいわゆる放送作家が所属し、シナリオ作家協会は、映画の脚本家が所属しているとのことですが、今はあいまいになっていて、両方に所属している作家もいるそうです。
 当然、作家組合が二つあるということは、何かあったとき、ハリウッドの作家組合のように、抗議のストライキができないということです。どちらかがストライキをすれば、ストライキをしていない方に、仕事を発注すればいいだけのことですから。
 余談ではありますが、ベテランのシナリオライターの人に聞いた話では、制作者サイドとシナリオライターの間に、何かトラブルがあった場合、放送作家協会(現・日本脚本家連盟)は相手方に書簡を送るそうですが、シナリオ作家協会の方は、直接制作サイドの担当者を呼んで抗議するそうです。
 しかし、このシナリオ講座は、基礎科はいいとして、研修科になると、現役のシナリオライターの先生が三人いて、一週間ごとに先生が替わり、ベテランの人と中堅の人では言うことが違うので、戸惑ったことを覚えています。
 その後、また独学でシナリオを書いては、コンクールに応募していたのですが、なかなか入選ラインには達せず、同じことの繰り返しかとも危惧したのですが、もう一度勉強しなおそうと、六本木にあった放送作家教室に通いました。
 この教室の基礎科では、シナリオ作家協会と同じシナリオの基本的な書き方を教わりましたが、講師としてくる先生がシナリオ作家協会のときのような映画監督、映画のシナリオライター、映画プロデューサーではなく、リアルタイムで観ているテレビドラマの脚本家やディレクター、プロデューサーの人たちで、大いに参考になりました。
 初めて山田太一氏を見たのもその教室の基礎科でのことで、一番前の席に陣取って、氏の一回きりの講義を緊張感いっぱいで聴いたものです。
 講義の最後の質問タイムで、何度か氏に質問すると、
「あなたばかりじゃ何なので-----」
 と他の人を指名されたことも、今となっては懐かしい思い出です。こういうのが教室の欠点だと思うのですが-----。
 つまりみんな高い授業料を払っているので、均等に扱わなくてはいけないということです。
 山田氏に個人的に教わりたかったのですが、当時、山田氏はバリバリの現役で忙しく、研修科の講師もなさっていなかったですし、この講義のあと、NHKのプロデューサーかディレクターと、近くの喫茶店で次のドラマの打ち合わせがあるのだとおっしゃっていました。
「現役の売れっ子のシナリオライターとは、こういうものか。いつか、自分もこういうセリフを、人前で言ってみたいものだ」
 と、憧れの目で見ながら、うらやましく思ったものです。
 リアルタイムで、そういう業界の空気を吸うことができるのも、こういう教室のいいところかもしれません。
 もし山田氏が、研修科の講師をやっていれば、受講生が殺到して、抽選でないと入れなかったことでしょう。
 早坂暁さんの講義もありましたが、さすがに倉本聰さんの講義はありませんでした。やはり、お住まいが北海道の富良野では、旅費が大変でしょう。
 二ヶ所のシナリオ教室に通った決断が功を奏し、この教室の研修科で、日本映画全盛期に、映画シナリオ123本、テレビドラマ890本を書き、“大プロ”と呼ばれていた直居欽哉氏(鶴田浩二『雲ながるる果てに』、勝新太郎『座頭市』、市川雷蔵『ひとり狼』『忍びの者』、高倉健『人生劇場 飛車角』)と出会い、やっとコンクール入選までたどり着くことができました。
 何故か、私が通っていたシナリオ教室は、シナリオ作家教室、放送作家教室も、たまたま生徒が豊作だったらしく、5人以上プロのシナリオライターになりました。しかし、今現役で書き続けている人は、私の知る限り、1人か2人だけです。
 教室の期によっては、1クラス4、50人いて、一人もプロになる人がいなかった期もあるとかで、まさに狭き門です。
 脅かすわけではありませんが、実は、そのプロのスタートラインにたどり着く前に、大勢のシナリオライター志望者が、その夢を諦め、挫折してしまうという厳しい現実があります。それほど、この業界は厳しい競争社会ですから、致し方のないことかもしれません。
        ④に続く

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