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(二)売り込み編 ⑤

 やはり、人に頼るより、自分の事は自分でやった方がいいと思い直し、初心に帰って、個人営業を再開しました。
 某大手映画会社のテレビ部に、以前からつき合いのあるプロデューサーがいたので、その人に企画書を持っていくと、しばらくして電話連絡があり、
「この企画、面白いので、フジテレビの夜10時の連続ドラマの枠に持っていきます」
 と具体的な色よい返事がありました。
 その企画書は、シナリオを習っていた先生にも見せたら、
「この企画、面白いから、どこかに持っていったら通るよ」
 と言われていた自信作でした。
<これで、自分もやっと念願かなって、メジャーデビューだ!!>
 と、大いに期待していたのですが、しばらくして当のプロデューサーから電話がかかってきて、
「いやーッ、悪い。今度、念願かなって、映画部のプロデューサーになることができて、そっちに異動になったんですよ。この前の企画、後輩のプロデューサーに頼んでおいたので、連絡があると思います」とのこと。
 しかし、引き継いだプロデューサーからは、その後、なんの連絡もありませんでした。無理もありません、人から引き継いだ企画など、やりたがる奇特な人はいないのは世の常です。

「連続ドラマ企画書 ラスト・イニングをもう一度」
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 もう一つの自信作であった企画書を、女優のFかEさん主演で、別の大手映画会社に持ち込むと、これまた担当プロデューサーが興味を示してくれました。が、
「面白いので、上の人に見せたのですが、残念ながら通りませんでした」とのことでした。
 この映画は、渥美清さんの『男はつらいよ』のように、シリーズ化できた作品だっただけに、企画が通ってシリーズ化されていれば、この二人の女優さんのどちらかは、渥美清さんのように、国民的俳優になっていたかもしれません。
 しかし、その作品は、捨て置くにはもったいないので、今、最もテレビドラマで視聴率の取れる女優、Aさんのマネージャーに見せたのですが、またしても通りませんでした。
 それではと、NHK朝の連続テレビ小説の主役をやって大人気になった、Nさんの事務所にもアプローチしてみました。しかし、本人が企画書を読んでくれたのですが、承諾を得られなかった残念企画です。
 やはりこういう交渉事は、間にプロデューサーが入らないと、まず無理でしょう。映画会社で企画が通ってからの出演依頼だったら、所属事務所も俳優も本気で検討してくれるのでしょうが、企画も通っていない、一脚本家の持ち込み企画など、まず通る可能性はゼロに近いでしょう。
 企画は、通るまでは時間がかかりますが、通ってしまえばキャスティング、スタッフの選定など、その後の進展は早いものです。
 結局、間に入るプロデューサーの腕次第というところでしょうか。

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  ドラマ制作会社の社長さんの話では、
「企画を通す最終責任者である、テレビ局の上層部の連中は、企画書なんて読んでも分からない人が多い。企画書より、誰が主役をやるかで企画は通る。今、旬の俳優のスケジュールを押さえて、出演の承諾を得られていれば、それだけで企画は通る。一旦企画さえ通れば、もうこっちの物で、その企画書通りやらなくていいんだから」
 と言われたことがあるので、そのことを実践したのですが、またしても負け戦でした。

 それではと、今度は、“ドラマのTBS”と言われた全盛期のTBSの中核にいて、今は独立して制作会社をやっている元TBSのプロデューサー&ディレクター(TBSは、両方を兼ねる)の大山勝美さん(山田太一『岸辺のアルバム』『ふぞろいの林檎たち』、倉本聰『あにき』『白い影』)の会社に、得意の飛び込み営業を掛けました。
 私の経験上、大体、営業は電話アポより、タイミングさえ合えば、直接行って交渉した方が確率が高いようです。電話を掛けると、大体が今忙しいのでと言われ、会ってくれない確率が高く、アポ取りの連絡を待っている間に、結局うやむやになる確率が高いようです。
 渋谷区富ヶ谷にある大山さんの事務所、『カズモ』を訪ね、入り口にあるインターホンを押すと、大山さんが出てこられました。
 インターホン越しに、訪問の要件を伝えると、たまたま時間が空いていたらしく、会ってもらえました。
 私が、大山さんの所属していたTBSのシナリオコンクールに入選したことから、親近感を持っていただき、部屋でこちらの話を30分ぐらい聞いてくれました。
 もちろん帰り際に、企画書を渡して帰ったのは言うまでもありません。
 それからしばらくして、大山さんから電話があり、
「今、テレビ局に持ち込むドラマの企画を検討しているところなので、企画会議に来て下さい」
 と言われカズモに行くと、もう一人若いシナリオライター志望者の人が来ていました。
 大山さんの話では、大山さんが関係している菊池寛賞のシナリオ部門の受賞者で、その賞からシナリオライターが育っていないので、何とかしなくてはと、その人を企画会議に呼んだとのことでした。
 その会議には3、4回出席しましたが、テレビ局で企画が通らなかったのか、結局自然消滅してしまいました。
 かつてのテレビ局のトップクラスのプロデューサー&ディレクターですら、なかなか企画が通らないのですから、我々個人が企画を売り込みに行っても通る確率は、“限りなくゼロに近い”と思った方がいいでしょう。

 どうせやるなら、超一流の映画監督にと考え、当時乃木坂にあった黒澤プロダクションに電話をしてみたところ、「そういうことでしたら、直接スタジオの方に企画書を送って下さい」
 という返事でした。声からして、以前テレビで聴いたことのある、黒澤監督の息子さんの久雄さんだと思われました。
 映画の企画書を送ってしばらくして、当時横浜の緑区にあった
黒澤スタジオに電話で問い合わせると、
「黒澤は、自分の書いた物しかやりません」
 と、事務所の女性に一蹴(いっしゅう)されてしまいました。
 しかし、それからしばらくして、当の黒澤明監督からハガキが来ました。その思いやりに、黒澤明氏が何故、“世界のクロサワ”に成り得たか、垣間見たような気がしました。
 その昔、市川雷蔵主演『眠狂四郎』シリーズのシナリオを書いた星川清司氏(後に、小説『小伝抄』で直木賞受賞)も、プロになる前に習作シナリオを黒澤監督に送ったら、
「今は忙しくて読めません。頑張ってください」
 との返事が来たそうです。
 やはり、一個人でも世界的な業績を残す人は、上から目線ではなくて、思いやり、気配りがあるのだなあと感心しました。
 そんな黒澤明監督が、かつてこんなことを言っていました。
「日本の映画界が、欧米に比べて一番劣っているもの、それは俳優でも脚本家でも監督でもない、プロデューサーだ」
 そういう黒澤監督は、本木荘二郎(ブログ『ザ・プロデューサー』2018.9.27参照)、田中友幸という、東宝の両エースプロデューサーに恵まれた幸運な監督でした。
 こうして、私の企画書売り込み作戦は、連戦連敗でした。
 それも、その筈です。この業界には、“センミツ”という業界用語があり、千本企画書を出しても、三本しか通らないということです。驚くべき通過率の低さです。
 電話営業の世界でも、100回電話してそのうち1つアポが取れても、次はそういうのが100回あって、そのうちの1つしか成約につながらないそうです。
 それが、営業というものです。

 これでは、いくら個人で売り込みに行っても通らないわけです。
 この売り込みというやり方も、よほど面倒見のいいプロデューサーに出会わないと、扉は開かないようです。
 しかし、こうして実現しなかった売り込みも、『捨てる神あれば拾う神あり』『人は見ていなくても、神は見ている』と諺(ことわざ)にある通り、諦めなければ意外なことで実現するものです。
 次回からは、いよいよその諺を身をもって示す、私の記念すべきデビューの経緯のご紹介ができる最終章、『依頼・紹介編』です。
 ご期待のほどを-----!!

プロフィール
http://ameblo.jp/ikusy-601/

 

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