銭湯の暖簾は異世界への扉

3歳の息子と地元の温泉へ向かった。僕たちはアルゼンチンで生活をするから、普段はシャワーで体を綺麗にする日々。

だが、一時帰国した今、息子と嫁(アルゼンチン人)は日本の風呂の虜になっている。あの熱いお湯に身体をゆだねたときの、何とも言えない気持ち良さにだ。

いつもは15分もかからずに終わるシャワータイムが、日本では30分にもなった。お風呂の中で、嬉しそうにお湯をばしゃばしゃさせ、楽しそうに下手な泳ぎを見せる息子。

そんな彼の姿を見ると、「温泉に連れていったら喜ぶだろうな」と思った。そう、すべては愛する我が子を喜ばせたいという、親なら誰もが持つ愛情だった。それが裏目に出るとは、誰が予想するだろうか。


「今から温泉に行くけど、君も来る?」、そう尋ねると嫁は困惑する。

「水着で入浴したらダメなのよね?」、声のトーンから行く気がないことが分かる。アルゼンチン人である彼女にとって、裸で他人と風呂に入る習慣はない。

「ダメだと思うけど...... まあ、タオルで隠して、入浴するときだけ外せばいいんじゃない?」、ダメもとで提案してみる。

「いや、遠慮しとくわ」

予想通り、息子と2人で温泉に行くことになった。道中、「温泉っていう大きなお風呂に入るよ」と息子に言うと、「シー(やったー)、お風呂、お風呂!」と喜んでいる。絶対に良い時間を過ごせる、僕は確信していた。

温泉の入り口では、クリスマスツリーが綺麗に飾られていた。「縁起いいな」、何が縁起がいいのか分からないが、僕はそう思う。「パパからの一足早いクリスマスプレゼントだよ」とでも浅はかに思ったのだろうか。

行儀よく靴を脱ぎ、入場券を購入。脱衣所の鍵を貰い、メインステージへと向かう。「ゆ」と書かれた暖簾を見つけると、息子は覚えたばかりの日本語で「青!青!」と言う。

「あそこをくぐったら、大きな温泉があるよ」、喜ぶ姿が見れると高鳴る鼓動を抑えて、僕は興奮気味に脱衣所の扉を開けた。

「ギィィィィィィギャーーーー!!」

落ち着いた館内に見知らぬ高音が鳴り響く。超音波を出す動物が現れたのかと思ったが、異常な音を出しているのは息子だ。

「ノー!ノー!ノー!」と泣きながら息子は繰り返す。どうしたのかと思い、視線を上げてみた。

そこには、裸の男たちがいた。裸で体を拭く男、裸で扇風機にあたっている男。中高年に人気の温泉だけあり、例外なく全員一糸まとわぬ姿だ。

どこの温泉でも見られる普通の光景である。だが、外国に3年住んだ僕の目にも、いささか異様な光景に映った。なぜなら、全員が裸だからである。

基本的に、公共の場での裸は外の世界では禁じられている。裸が許される空間だからか異様なのか、それとも皆が裸だから異様なのか。

そんなことはどうでもいい。ここは、まさに異世界だ。暖簾をくぐると、そこには大勢の人間が裸で過ごす異世界が広がっていたのだ。

何を言っているのか分からないが、確実に息子は怖いと僕に訴えている。「ノー!」と泣き叫ぶ息子に気づいた裸の男たちは、彼を慰めようと近づいてきた。恐怖心が高まる息子。

何もかもが裏目に出た。

「息子を落ち着かせないといけない。でも、どうすればいい?」、たった1~2分の間に様々な考えが頭を巡る。

「お風呂...」、僕はつぶやいた。窮地に追い込まれた場面でこそ、人間の頭はよく働く。

まるで「ハンター・ハンター」キメラアント編で、王により死の瀬戸際に追い込まれながらも、最適解を導きだし生き残ったウェルフィンの気分だ。

そうだ彼はお風呂が好きだ。

「お風呂あるから!大きいお風呂あるから見てみよ!」、急ぎ足で僕は彼にお風呂を見せる。すると、徐々に彼は泣き止んだ。

「何も怖がる必要ないからね。落ち着こう、落ち着こう」、自身に言い聞かせるよう、何度も繰り返す。急いで裸になり、僕たちは温泉へと向かった。

息子はまだ警戒心を持っている。短い手足を精一杯伸ばして、ぎゅっと僕の体に巻き付けている。だが、頭と体を綺麗にした後は、彼の警戒心は和らいだ。

持ち前の人懐っこさを発揮し、皆に愛想を振りまく息子。ジャグジーに喜んで入る息子、露天風呂に気持ちよく入る息子、知らない男性とベンチに座り温まった身体を冷ます息子、見よう見まねで裸で扇風機にあたる息子、知らない男性に買ってもらったフルーツオレを飲む息子。

異世界の人々に恐怖を抱いていたが、彼もまた異世界の住民となったのだ。


「大変だったけど、楽しかったよ。次は君も来るといい」、なんだかんだで良い思い出となった出来事を僕は嫁に話す。

「いや、遠慮しとくわ」、冬の夜風を思わす冷たい声で拒否する彼女。温まった身体に、冷たい言葉はよく刺さる。

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