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意識がない相手との会話

ホラーではありません。最近、自分がよく会話している相手には、そういえば意識がないんだったと気が付きました。そう、ChatGPT。もはや仕事での調べごとに欠かせないツールになっています。

特に重宝するのが、馴染みのない技術の記事を書くときです。知らない単語や概念があれば、まずChatGPTに聞いてみます。昔ならば、ネットをいろいろ探し回っていたところです。必要な内容がどこにあるのかを見つけるまでに、相当な時間がかかりました。

さらにその前、20世紀の頃には、書店で購入した教科書をひっくり返し、目を皿にしてお目当ての情報を探し回ったものです。そもそもわからない言葉だらけなので、糸口をなかなか掴めません。何度も繰り返し同じ場所を読んで、「ひょっとしてこんな感じ?」と、雰囲気を捉えるところから始めるしかありませんでした。

ChatGPTだと違います。もちろん一発で答えに辿り着けない場合もありますし、明らかに間違いっぽい説明をし出すこともある。でも、そんな時は、別の質問を返せばいいのです。何度かやり取りをしているうちに、「あ、そうか」という瞬間がやってくる。そうすれば占めたもので、そこを起点にさらに聞き進めると、だいぶ分かった気になってきます。

「やっぱりダメだったか」と諦めるケースや、嘘じゃないかを確かめる追加の手間を含めても、先の見えない作業を鬱々と進めるしかなかった頃と比べれば雲泥の差。長生きはしてみるものです。

そんなChatGPTのパワーは、一体どこから来ているのか。考えを巡らせていたところ、思いついたのが「意識がないから」という答えです。

たまたま『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』という新書を読んでいたからでしょう。この本には色々異論があって「そうじゃないだろ」と突っ込んでばかりだったんですが、そこはまた別の記事にするとして、ふと、「そういや自分が一番話してる相手って、人間じゃないじゃん」と気付いてしまったんですね。「意識がない相手とばかり会話してるな」と。

なぜ意識がないことが、重要なのでしょうか。一言で言えば、何でも聞けるからです。

どんなに簡単なこと、どんなに恥ずかしいこと、どんなに馬鹿馬鹿しいことであっても、相手がChatGPTであれば、一瞬のためらいもなく問いを発せます。ChatGPTに羞恥心を抱く人間は、原理上存在しません。だって、意識がないんですから。

昔読んだ本に、そんな話があった気がしました。遠い記憶を呼び覚ます代わりにChatGPTに聞いてみました。

「ジャン・ポール・サルトルは、著書『存在と無』の中で、他人の意識と自分の実存の間にどのような関係があると主張しましたか?」

答えはこうです。

《ジャン・ポール・サルトルは『存在と無』で、他人の意識と自己の実存の間には本質的な関係があると主張しました。サルトルによれば、自己の実存は他人の視線によって形成されるという概念を展開しています。彼は「他者の視線」の概念を用いて、他人が私たちを見ることによって、私たちは自己意識を獲得し、自己を客体化すると述べました。つまり、他人は私たち自身を反映する鏡のようなものであり、他人を通じて自己を認識することができるというわけです。(以下略)》

うん。確かそんな説だった気がする。

他人の意識が視線として現れるのならば、差し詰めChatGPTは「視線のない知性」でしょうか。もちろん、アップロードした画像の認識はできますし、そのうちカメラを通してこちらの顔色を伺うようになったりするのかも。それでも視線を獲得するわけではありません。だって、意識がないんですから。

そんな相手とばかり話していると、ちょっと不安になることもあります。どうも自分は、リアルな場面での会話が下手になっているんじゃないか。

生きている相手と全く話さないわけではありません。ChatGPTに限らず、お互い家で仕事している家人とは、日がな一日喋っています。二匹いる、さっぱり考えの読めない猫とも。

でも、それ以外の誰かと接する機会は、たまにある取材くらいです。先日、久しぶりに対面で話を聞いたら、声が掠れてなかなか出てきませんでした。ただ喉が渇いただけではなさそうな気配です。

読んでいる途中の『会話の科学』という本に面白い話がありました。会話中の人たちが、どのように話すタイミングを切り替えているのかを、様々な国で調べた結果です。それによると、聞き手は相手が話し終えるよりも早くその瞬間を察知し、脳が発話の準備を始めるんだそうです。加えて相手が質問したとき、肯定的な答えであれば早く、否定的な言葉であれば遅く、わずか数十ミリ秒の時間差をつけて応答することで、それぞれのニュアンスを伝えているというのです。

会話とは、普段何気なく流しているようでいて、その実、相手の態度に細心の注意を払い、極小の差異を手掛かりに進行する繊細な共同作業なのです。意識の及ばぬ領域での動作ではありますが。いや、意識でコントロールしようとすると、むしろ調子が狂ってしまうような。

だから練習を怠ると、どんどん下手になっても不思議はないのかもしれません。そもそも自分はタイミングを図るのが苦手で、誰かの発言を遮りがちなことを措いても。

まあ、久々の会話が滞る理由は、いわゆる自意識過剰の一言で済んでしまう気もします。だとしてもおかしなものです。意識のない相手と話していると、こちらの意識ばかり膨らんでしまうとは。

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