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居間のいまを振り返る②

 前回は、2013年の居間 theaterの立ち上げから2017年〜2018年始めころまでの活動の流れをご紹介しました。今回の②では、それらのさまざまな活動がどういったことをやってきたのか、2018年の創作を踏まえつつ、2019年現在どのようなことを考えながら活動しているかをお話します。未読の方はぜひ、①からお読みください
(※この記事は2018年7月に居間 theater WEBサイトで公開したものをベースに後半を加筆したものです)
(top画像 photo by bozzo)

◆接続面・フィクション・生成

 前回、居間 theaterの主な活動を振り返ってきました。それらの活動は一体なんだったのだろうか。居間 theaterはどういうものなのか、と客観的に考えてみます。

 ひとつには、「接続面」をつくる、ということが挙げられます。格好良く言いましたが、つまりは「出会い方をつくる」ことのように思います。
 「人」と「場所」であったり、「人」と何かの「概念」(アートステーションような)であったり、まだ出会っていない何かと何かを繋ぐための「接続面」。
 例えば、架空の窓口をつくることで区民の方とアートステーション構想を出会わせたり、カフェという場所に来た人びとにパフォーマンスを出会わせたり。そういった接続をつくる、謎の技師のような。そして居間 theaterがつくる接続面は、なんともわかりにくく、へんてこりんなのです。架空の課の窓口を名乗っていたり、あたかもただの待合室のような装いだったり。「Fiction」では音声だけだったり。そういう意味では、限りなく薄い接着剤のような、透明のボンドのようなイメージかもしれません。

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(↑偶然区役所に来たら、見知らぬ窓口でアートステーションについて話を聞ける。でも、誰しも「窓口」というもの自体は知っているので、ふるまいが自然とわかっている。)(写真:冨田了平)


 そして重要なのは、その接続のために「フィクション=嘘」を多用するということです。
 アートステーション推進課という課は実際にはありませんし、待合室も本当はありません。そのフィクションを「場」に落とし込むことによって、来る人がスムーズにその場所に入ったりできますし、フィクションだからつくれる出来事や時間があります。または、フィクションだからその場所に居られる、ということもあると思います。

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(↑通常は「アートステーション構想」の拠点。待合室になる(名乗る)ことで、普段は用がない人でもふらっと入ってくる。)(写真:冨田了平)

 もうひとつの特徴として、何かと何かを掛け合わせたり出会わせた結果、「へんなものになる」ということが挙げられます。
 とてもよい例を思いつきました。以前ピコ太郎さんが、アップルとペンをくっつけてアッポーペンにし、パイナップルとペンをくっつけてパイナッポーペンとし、最終的にペンパイナッポーアッポーペンというとてもキャッチーなフレーズを生み出し大ヒットしました。これは敢えて真面目にいうなら、既存の語を組み合わせて生成した結果、本来の語の持つ意味を越えた別の何か(ペンパイナッポーアッポーペン)をつくり出しているということです。
 居間 theaterの活動はこれに近いと(勝手に)思うのです。大事なのは、ペンパイナッポーアッポーペンはすごいふざけた音であり、言葉としてはまだ意味のない語である。いうことです。われわれのつくり出す場や時間も、基本的にはヘンでオモロいほうがよいと思っています。「パフォーマンス窓口」は、やはり普通の区役所の窓口とは違いますし、「パフォーマンス待合室」はただの待合室だと思ったらへんな放送が流れてきたりします。
 場所や、ある機能や、フィクションを掛け合わせることで、別の空間や時間、本来はなかった居場所、なんかよくわからんオモロいもん、をつくり出せるのだと考えています。

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(写真:冨田了平  ダンサー:京極朋彦)

 居間 theaterのつくる作品は、基本的にはこれらの特徴をもっています。 人が集まり時間や出来事を共にする「居間」的な、そして「劇場」的でもある場所のことを考えながら活動してきた結果、われわれは恐らく、居間とtheaterのあいだの「 」(半角スペース)をやっているんだと思います。
 そのようなことを、ときにふざけ、ときに真面目にやっています。
 


◆「公共」を考える

 そして、次第に私たちは「公共」のことに興味を持ち始めました。公共というと言葉としては堅苦しい感じがしますが、居間 theaterがあつかう公共はとても広義だと思います。他者がつどい、時間をともにする場所。「としまアートステーション構想」の企画で使わせてもらった区役所はまさに行政が運営する公共施設ですが、待合室は一般的に交通機関の企業などが管理していたり、「空想型芸術祭Fiction」では広く〝都市〟をあつかおうとしています。つまり公共的な空間・場所(と、そこに生まれるパーソナルな時間)、は今現在の私たちの関心に繋がっています。(公共的な空間・場所には「劇場」も含まれます。)
 ふつうは、不特定多数の人が集まり、誰でも利用できるような場所が公共的な機能をもつと思いますが、時に、個人的な・パーソナルな空間が公共的な場所になることもあります。

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(「4人姉妹の家びらき・夏」 写真:冨田了平)

 2018年に、足立区で展開しているアートプロジェクト「音まち千住の縁」さん(以下「音まち」)からお声がけをいただき、築100年以上の由緒ある日本家屋「仲町の家」で上演をおこないました。
 かつて人が住んでいた民家を、アートプロジェクトの拠点として新たにオープンするにあたっての企画でした。家をひらくということは、多少なりとも「公(おおやけ)」にひらくということです。しかも、住んでいた個人ではなく、公共的な事業である「音まち」がひらきます。
 家という本来は超個人的な場所を、公共的な組織が公にひらく。それはいったいどういうことなのだろうか。「ひらく」と「とじる」ことは行き来ができるだろうか。家を「ひらく」ことをテーマに、「4人姉妹の家びらき・夏」という名前の短い上演をつくりました。

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(写真:冨田了平)

 2018年は他に、「建築の葬式 ー5号館を聴くー」や、フェスティバル/トーキョーさんからお声がけをいただき、過去の記録映像を上映する『アジアシリーズvol.5 トランスフィールド「境界を超えて 〜アジアシリーズのこれまでとこれから〜」』、また「空想型芸術祭Fiction 東京/西京」は墨田区でつくるなど、さまざまな場所で活動をおこないました。(それぞれの創作についてはまた別のnoteで個別に書こうと思いますが、)それらはやはり、いずれも共通点がありました。

それは
 他者がつどい、時間をともにする場所(=公共的な空間)で、個人的な・パーソナルな時間も失わずに、どう過ごしたり、作品を体験できるのか。
ということです。
 つまり、先ほど述べたように、居間とtheaterのあいだの「 」(半角スペース)をよりさまざまな場所で、いろいろな角度で深堀りしようとしているのです。

 例えば、劇場ならばそれ自身の機能がはっきり・しっかりしているので、おそらくアプローチがシンプルで強固だと思うのです。ひとつの空間に他者がつどい、目の前でおこなわれている演劇やパフォーマンスをライブで見て、世界や社会を考える・感じる。その行為は、空間や体感としては公共的であり、思考としては個人的な作業でもあると思います。その劇場空間というベースのなかで、作り手によってさまざまな試みがなされています。
 一方で、街や劇場以外の施設などでは、別の方法が必要になります。単純に何かをつくるうえで情報や要素が多すぎるので、どういう角度でアプローチしていくかという選択肢が複雑すぎるのです。また、それぞれの場所にはそれぞれの機能やルールや〝地場〟みたいなものがあって、それを差し置くことは、すでにそこにいる人たちの存在を少なからずスルーすることになります。そこをできるだけ踏まえて、一人一人の居心地が悪くならないように、でもできるだけ変で面白い時間をつくりだすか。私たちはそれを自分たちの創作と考えて、つくっています。

 もちろん、劇場を否定しているわけではなく、また、どこかの場所で上演やイベントをしてその場を一色に染め上げる、みたいなことを否定しているわけでもありません。要は、角度や選択肢の問題で、やりたいこと・コンセプト・目的などに応じてアプローチの仕方がたくさんあり、場所や場合によって効果的な方法があるんだと思います。
 とくに劇場については「境界を超えて 〜アジアシリーズのこれまでとこれから〜」をやったことで「なんて素晴らしい機能を持っていて、それを使いこなす技術者たちがいて、面白い空間なんだろう」と実感しました。大型の祝祭的なイベントや上演も、驚くほど素晴らしい作品をたくさん観てきました。

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(「境界を超えて 〜アジアシリーズのこれまでとこれから〜」 写真:冨田了平)

 こうやって改めて考えてみると、居間とtheaterのあいだの「 」(半角スペース)をやることは、「公共」を考えることにつながるというのは、もしかしたら自然的な流れなのかもしれません。
 そして、公共について興味が強くなってきたと同時に、公共はやはり果てしなく複雑なものだと感じるようになりました。私たちだけでなく、きっとたくさんの作り手が、それぞれの方法で試行錯誤しながら作品をつくっているはずです。

 居間 theaterは2018年から、Tokyo Art Research Lab さんが実施している「東京プロジェクトスタディ」というプログラムにナビゲーターとして参加させていただいています。居間 theaterが担当するスタディは、街のなかにある公共彫刻・パブリックアートなどをリサーチしながら、公共空間・作品との関係性・芸術祭・東京の公共性など、さまざまな要素を考えていくプログラムです。
 「公共」について。明確な答えや確信的な考えはまだまだ見つかりそうにありません。だからこそ面白いです。スタディや「Fiction」などの創作で、少しずつ探りはじめたばかりです。
 スタディについては次回のnoteで改めてお話します。

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(スタディ、リサーチのようす 写真:加藤甫)


◆「上演」をつくる

 最後に、2019年現在、居間 theaterの活動をおこなううえで改めて自覚したことがあります。
 それは、私たちは「上演」をつくっているのだということです。

 一般的に、上演というと、演劇やパフォーマンスなど、数十分から3〜4時間くらいの感覚があります。映画だとより長いものだと5時間くらいあるものもありますね。

 居間 theaterの作品(イベント開催時間)は、長いです。「アートステーション構想推進課 パフォーマンス窓口」は区役所の稼働時間に合わせて9時〜17時、「パフォーマンスカフェ」はカフェのオープン時間に合わせてだいたい12時〜21時くらい。これまでにもっとも長かったのは「としまアートステーションW パフォーマンス待合室」で始発(5:09)から終電(0:34)まででした。
 これは普通に考えるとイベントとしてオープンしている時間のように見えますが、実は居間 theaterがつねに裏でずっと気にしています。進行はもちろんですが、つねにその場にいて「どういう時間が流れているか、どういう状況になっているか」を確認し、まわしているのです。
 例えば、待合室なら時間帯や人の状況をみて、演出のひとつである館内放送を入れたり、小さいパフォーマンス(と言ってもささやかなもの)をやったり、料理を出したり。その場にいる人々のなかで話が盛り上がっていたり、自然と居心地の良い時間が流れているならそれを維持するようにしたり。
 「窓口」なら、窓口で話がどう進んでいるか。居心地が悪そうな人はいないか。全体のお客さんの体感の時間はどうか。そして、1日の時間の流れ方はどうか。

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(↑「パフォーマンス待合室」のなかでもっとも盛り上がっていた時間のひとつ。)(写真:冨田了平)

 つまり、フィクションを実行している間は「上演」なのだと考えるようになりました。見え方としてはひとつのイベントではあるけれども、ひとつの長い上演でもあるのです。

 居間 theaterの創作の背景には、やはり演劇の考え方があると思っています。当たり前ではありますが、演劇はライブなので、始まってから終わりの時間があります。どういう風にスタートしてどういう風に締めくくるのか。どういう流れで進んでいき、どういう時間の抑揚があって、お客さんにどういう体験してもらいたいのか。

 そしてそれをおこなう居間 theater側は、演劇で例えるなら演出でもあり舞台監督でもあり、時には役者のように、窓口のスタッフや待合室のスタッフとしてその場にいます。窓口嬢の役を演じているとも言えます。(そもそも全体にフィクションを使っています。ないものをあるように立ち上げる、演劇の根本的で最も重要な仕組みのひとつです。)
 ただ、これらの仕組みが、もともとある場所に擬態した裏でおこなわれているので、ぱっと見でよくわからない、というわけです。

 作品によって、上演の塩梅は異なります。先ほど述べた「4人姉妹の家びらき・夏」では場所に合わせてわかりやすく40分の上演をしましたが、窓口や待合室のように延々と長い場合もあります。「Fiction」などはもっと複雑で、音声を聴くあいだだけの上演とも言えますし、作品自体は終わりを定めず更新されるので、終わらない上演とも言えるかもしれません。

 いずれにせよ、6年の活動のなかでつくってきた作品をそれぞれを並べてみると、自分たちは時間をつくっているんだということが改めて見えてきました。そしてその場所に合わせて、そこに来る人に合わせてつくっているというライブ性があるので、(もちろん再演は可能かもしれませんが)、本質的に同じものがつくれません。
 居間 theaterは、いわゆる演劇作品とは呼べないものをつくっていますが、一方で演劇の要素や、演劇的な考え方を積極的に使っているのだと思います。

 そして上演の時間が変則的であればあるほど、居心地が大事になってきます。ゆるやかな上演の時間をつくるには、人の体感の感覚・居心地の良さは、もっとも大事な要素のひとつです。

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(「建築の葬式−5号館を聴く−」)(写真:鈴木さや香)


◆おわりに

 居間 theaterの活動は、一見まとまりがないようで、興味関心の流れは一貫しているようにも、思います。しかし場所ごとにつくっていくと、結果的なアウトプットが毎回異なり、やはりまとまりがないようにも見えます(苦笑)
 自分たちでもそれは面白い部分であり、正直、困っている部分でもあるのです。これから少しずつこのnoteで、それぞれの創作を振り返り、何を考えてつくっているのか、成功だけでなく失敗も含めて紐解いていければと思います。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

(文:居間 theater 東彩織)

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