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おじさんしか好きになれない

ありもしない理由を探し続けるのに疲れてしまった。

物心ならぬ恋心ついたときからずっと、中年男性しか愛せない。

なぜこんなふうに生まれついてしまったのか、どうすれば清らかで美しい恋愛感情を抱けるようになれるのか、新しい恋が始まるたびに苦しくて、Googleの検索窓に「おじさんしか好きになれない」と打ち込んだ。ヒットする内容はいつも変わり映えのしないもので、大抵の場合すごく的外れで、分かりきったことだがそんなところに答えなんてあるはずがないのだ。
だから、こんなところに思いの丈を綴ったとて、なんの意味もないのだけれど、このまま生きていると自分が透明になって消えていきそうな気がしたので、これを書いてみることにした。

初恋は十二歳の頃で、ませた小学生だった私は、おじさんの先生から乱雑に愛されることを夢見たりなんかした。中学生になっても、高校生になっても、腹の出たような中年の男性に、飽きもせず何度も叶わぬ劣情を抱いた。
自分が感じる執拗なまでの愛着は、きっと皆が恋心と呼ぶものなのだと気づいてはいたが、その言葉から一般的に想起される清らかで美しいなにかと、私の抱く醜い感情を同じ範疇に納めてはならないような気がして、どんなに仲の良い友人の前でも私は私の恋心を口にすることはなかった。同年代の若くて綺麗な男の子にほんのりと心惹かれることはあっても、好きなおじさんのように、馬鹿みたいに毎日その人のことを考えたり、些細なことでとろけそうなくらい幸せになったり、ましてや抱きしめたり口づけをしたいだなんて思わなかった。

中年男性を愛する若者が一定数の割合で存在するという事実は私を慰めてくれる。しかし、インターネットの大海原をまことしやかに流れる情報は、その渦中にいない者にとっては耳障りが良くて納得がしやすいものなのだろうが、恋の渦に飲まれている私にとっては、まったく納得のいかないものが多い。

たとえば、おじさんが好きな人は自身の父親に並ならぬ愛着を持っていたり、反対に強い忌避感や嫌悪感、欠乏感を抱いているという説がある。そのような類型に当てはまる人間もいるのだろうが、私はまったく当てはまらない。父のことは大好きだし暇があれば話もするが、むしろ親密な関係性を築いているのは母のほうである。

若いうちは人生経験が豊富な男性は魅力的に見えたりするもんだよ、なんて言う人がいるが、私は中年男性の「大人」としての側面に恋をしているわけではない。私が恋をするのはいつだって、我を忘れて少年のような顔つきをしたときの中年の男性である。
とはいえ加齢臭も贅肉もあるただのおじさんでしょう、と畳み掛けられても、その加齢臭と贅肉に泣きたくなるくらい惹かれているのだから救いようがない。中年男性なら誰でもいいというわけではないが、好きになった人の年老いた肉体は、私にとって、他の何にも変えがたいほど魅力的だ。それはきっと、世の中の大抵の人にとって、若い肉体が魅力的なのと同じで、絶対に確かな理由なんてないのだ。

若い男から目を背けて「枯れた男」を追いかけることで性的なことから逃れようとしているのだ、と諭す人もいるが、馬鹿を言うんじゃない。私は、むしろ"身体的にしか"相手と結ばれたくないのだ。正直なところ、恋した彼に「あなたのことが大好き」なんて言われたとしても、私は困ってしまうかもしれない。なぜだか世の中の恋物語は、いつも恋に落ちた人が相手に心理的に(その後で肉体的に)愛されることでハッピーエンドを迎える。しかし、私は、恋した相手と心が繋がることを、それほどハッピーに思えない。一人の人間として大切にされないのは嫌だけれど、私の抱く感情の強度と相手の抱く感情の強度が必ずしも釣り合っている必要なんてどこにもないような気がしてしまう。私は「あなたのことが大好き」と思っているけれど、相手は「なんかお前って可愛いやつだな」くらいに思っている。それくらいの心の繋がりで、それでいて肉体的に深く繋がれたら私はそれ以上は何も望まないだろう。

「それでいて肉体的に深く繋がれたら」なんて書いたら、その繋がりを手にしたこともなかった自分に気づいて、なんだか虚しくなってしまった。続きがあるのかないのか、すぐに消してしまうのか永遠に残すのかも分からないが、一度このあたりで筆を置こうと思う。

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