見出し画像

『青春を吹かせる渦~社会人2年目がはじまって』

 4月になるといつも新しさを感じていた。冷え冷えした季節が終わって、命が芽吹く天気になる。上を見上げれば桜、下を向いても花々が咲いていて、新しくなった1年を彩り深く過ごそうという、そんな晴れ晴れした気持ちにさせてくれる。
 学年が変わる。卒業を迎える。新しい環境(学校・会社)になる。4月にはいつも新しさがあった。

幼稚園―小学校―中学校―(県立)高校―大学―新卒就職

 ↑の典型的なモラトリアムの中にいた頃は、3月から4月にかけて起こる変化は特別なことじゃなかった。毎年恒例のイベントだった。年月の経過で否応なく発生するイベントだけど、ぼくはそれを自分の力で発生させていると感じている節が、いま思うとあった。受験勉強で希望の学校に入れたり入れなかったり、大学での経験を就活での自己PRに帰結させて会社に入る。それ以外の直接進路に関係しない思い出も、ぼくだけが持ち得ている大切なもので、ぼくの変化を支えてくれたことはたしかだ。でも、いかなる変化の根っこには、体と心の成長と合わせて横たわるモラトリアムがあったんだと、ぼくはこの1か月ほどで強く思った。

 半月前に、市街に向かう電車の中で正装に身を包んだ大学生の5人組を見た。多分、卒業式かなんかだったんだと思う。ぼくの横に座る男の子はスマホでパズルゲームの画面を開いていながら指を動かすことはせず、目線は違うところに向いていた。『卒業』というキーワードが連想されたからか、彼ら・彼女らの浮かべる笑みも口から発せられる他愛のない雑談も、どこか終わりを予感させる憂いがあったように感じてしまった。

 5人の大学生を見て、自分にはもう『卒業』という、誰かが用意してくれる明確な終わりがないんだなと実感した。1年前の卒業式の日(入社前研修の1日前)も同じことを思ったけど、そのときにはまだ実感が湧いてなかった。そしてその実感は今年の4月になって現実となった。
 なにかが劇的に変わることはなくて、来週もそのまた来週も同じ職場に行って似たような仕事を続ける。時季にとらわれる業務ではないから、周りの何気ない光景に目を凝らさないと気付いたころには季節が過ぎ去り過去となり、自分が置いてけぼりな気分になってしまうときがあった。
 新元号が発表されたけど、それで「時代が変わる!」みたいな実感は全くない。

 桜の花びらとともに4月が新しさを吹かすのは、学生時代を主としたモラトリアムの期間までなんだろう。おそらくそれを人は『青春』と呼んでいるんだろう。(充実度はもちろん人によって異なるが……)。
 それじゃあ、青春時代を終えた社会人に4月は新しさを運んでくれないのかと自分の心に問いかけてみたけど、答えは迷わずに返ってきた。
 「そんなことはない」
『NARUTO』のガイ先生じゃないけど、青春はきっとそれを望む人には訪れるものなんだと思った。

 時間の渦の中を生きていく。

 社会人として1年間働いて、時間の流れ方に対する考え方が変わった。
いままでのぼくの時間観は歴史の年代記のような時の流れで、物語的といってもいいかもしれない。いろんな出来事や出会いがまっすぐに伸びる時間軸の中でその人に降りかかる。3月に卒業を迎え、4月に入学があるように、最後には結末にたどり着いて、結末の先にまた新しい物語がはじまる。死ぬまでそれが続く。出会い、別れ、喜び、悲しみを繰り返す変化がせわしなく勝手にやってきて退屈しない一本の物語。自分が主人公の大河ドラマ。

 社会に出ると、社会を回す小さな歯車としての毎日の繰り返しとなる。それは年代的な『物語』ではなく、『日常』の繰り返しで、ぐるぐると回る『渦』のように感じる。だから時間の流れ方が退屈に思えることもあった。
でも渦は同じ形で同じ場所をぐるぐると回っているように見えて、大きくなったり小さくなったり分裂したりといった変化を微かに生み出し続けているんだと段々と気付いてきた。なにもしなければ、似たような『日常』の繰り返しに絶望して渦の中に飲み込まれていく。飲み込まれた底にあるのは、何も終わることもなければ何も始まらない、ただ身体が老いていくだけの日々の連続だ。

先日、仕事でお世話になっている人になにげなく「もう桜が満開ですね ~」と話したら、「えっ、もう咲いているんですか・・」と驚いたように言葉を返された。この一言で決めつけるのは恐縮だけど、その方は多分、渦に飲み込まれて日常の中の小さな変化に気付けなくなっているんだと思う。桜が咲いたことに気付けず、気付いても心がわくわくしないのだ。


 自分だけの物語を描くのは、自分の好きな形の『渦』を自発的に描けるかにかかっている。変わり映えしない日常の中に、自分の思い描く形を想像して実現していき、『日常』という渦の中に『小さな物語』をつくること。そしてそれはいつの間にか自分だけの『壮大な物語』を作り上げることになる。
 『卒業』や『入学』、『入社』のような時の流れが必然的に用意してくれる変化(=物語的イベント)はもうない。それを欲すれば、ぼくたち自身が、渦のように回る時間のなかにそれを作っていくしかないんだ。

・一つのことに努力して成長する人は巨大な渦をつくりあげる。
・色んな分野に挑戦する人はたくさんの渦を作り出す。
・共感しあう渦と渦がまじりあって、ともに同じ時間を作る関係になることもある。

 渦の作り方は人それぞれだ。でも、ぼくが疑いなく思ったのは、自分の思い描く渦を想像して創り続ける人に青春の風が吹いて、桜を眺めたときに新しさを感じられるようになるということだ。そういう人は常日頃から新しいページに筆を向けて、自分自身を更新している人だからだ。周囲の変化にも敏感になり、桜だけじゃなく、道端に咲く花が開いたときにも新しさを感じられるようになると思う。

 友だちの家からの帰り道、桜並木沿いに建つ家の庭でお花見を楽しむ人たちを見かけた。小さい子供からお年寄りまでそろって一緒に箸を伸ばすその家族に、その人たちが作り上げた渦の形を思った。
 これから社会人2年目がスタートする。1年目はこの時間の渦の存在に気付く年だった。この4月からは、青春を吹かせる渦をどうやって作り上げていくか、自分なりにその方法を探し始めよう。
 来年の春は、今以上に新しさを感じられるようになっていたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?