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初心者が観たバレエのすごさ!

軽い気持ちで観に行ってみれば

 6月22日(土)に、新国立劇場でバレエ『アラジン』を見てきました。正直、バレエの公演がどんなものかも全く分からずに足を運びました。ほんとに、「人生で一回くらいは見ておこうかな~」くらいの軽い動機でした。
だけど、いざ幕が上がると目が離せなくなります。予想以上にバレエという芸術の面白さに感動してしまって、何とか文章に残してみたくなって、こんな駄文を披露することになってしまいました。


ストーリーの中身、印象に残ったシーンなんかには今回はタッチしません。今回感想を書くのは、バレエそのものの面白い点のみに絞ります。『アラジン』は超人気の作品ですし、ちょうどいまディズニーの実写映画が上演されていますので、そちらを観て頂ければと思います。

バレエの公演ってどんな感じ?

 オーケストラの演奏を従えて劇のストーリーが進む点はオペラと同じです。オペラと大きく異なるのは一点だけ。演者がオペラ歌手なのか、バレエダンサーなのかの違いです。

 劇中のキャラクターを歌によって表現するのが「オペラ」で、バレエダンスによって表現するのが「バレエ」と考えて頂ければと思います。

音楽があれば踊りたくなる

 どんな芸術表現にも通じることですが、バレエには奥深い面とシンプルな面が背中合わせに寄り添ってあるように感じました。
 前者は無論、専門的な領域を指しています。バレエの技術論や舞台の演出論、指揮者や演奏家の音楽的価値観……。それらの専門性を極めたアーテイストたちの表現の結晶が舞台上の作品を創り上げている。ぼくは軽い気持ちでチケットを買っただけの一観客なので、専門的な注釈を書き表すことは残念ながら不可能です。ぼくが思いを述べられるのは、バレエの純粋でシンプルな面のみだとわりきって、心のままにそれを言葉にします。

 「バレエ」=音とリズムがあれば心のままに踊りたいという人間の原初的な本能を限りなく極めつくした芸術表現

 バレエを一言でいうとしたら、こう表そうと思います。でもこれはバレエ以外の他のダンスにも通じることです。バレエが特質しているのは、その踊りがクラシック音楽と舞台演劇と調和する形で組み立てられている所です。
 音楽と踊りは古代よりさらに昔、国や文明が誕生する以前よりあったとされます。人類初の楽器として打楽器(鼓)が生まれ、人々はそこから打ち鳴らされる音とリズムに心と体を預けて踊りはじめました。国家が成り、文明が成立し、楽器の種類が増えると音楽は多様化と進化を繰り返し、踊りもその流れの中で発展していきました。そして、バレエは西洋にクラシック音楽が奏でられ、それに込められた人間たちの悲喜入混じる物語を身体で表現するために作られた踊りなのだと感じました。
(※実際のバレエの起源はあえて調べていません。ここではバレエを観て推測したことを主観的に描いているだけです。)


 公演の鑑賞中に、この発想に至ったとき、1つの疑問が芽生えました。どうしてクラシック音楽を身体表現しようと昔の人は考えたのか?、そしてその踊りがどうしてバレエという形式で現在まで残っているのか?その疑問に対する自分なりの答えはその後盛り上がりを見せる舞台を楽しむ中で明らかになっていきました。


人間が身体の表現(バレエ)を求めたのは、音を目で見ることができないからだ。

楽器になる身体

 舞台の第1部が終幕する前、クライマックスを迎えているとき、奇妙な錯覚にとらわれはじめました。オーケストラの演奏に合わせてダンスが躍られているのではなく、バレエダンサーの動きそれ自体から演奏が鳴っているように聴こえ、目に見えはじめたのです。
 ぼくが座っていた席が3階の最後列中央で、意識して首を伸ばさなければオーケストラが目に入らない位置にあったことも影響していると思いますが、そう錯覚してしまうほど踊りと音楽がマッチしていました。
 演者の踊りには歪みがすこしもなくて、華麗に動くその身体は指で押しても元の形まで戻るような滑らかで弾力に満ちた曲線、そして指で押しても決して形の崩れない強い直線を色彩豊かに描いていました。演者の踊りはまさに楽器でした。綿密に組み立てられた曲線と直線のモーションは目で見ることのできる音楽で、ぼくはより深く舞台上の世界観に飲み込まれました。そんな気がしました。
 

舞台下のオーケストラが舞台上の踊りと物語をつくり、舞台上の踊りと物語が舞台下から奏でられるオーケストラを人の目に見える形にしている。

 この相互作用がつくり出す表現・作品が「バレエ」なのだと思いました。
 今回は『アラジン』でしたが、バレエの魅力をまた別の題目で味わいたいです。

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