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「幸福な監視国家・中国」を読んで、ベトナムについても考えたこと

夏休みの帰国を機に、ちょうど発売のこの本を読むのも楽しみの一つでした。今回はその読書録、そしてまたちょいとベトナムに翻って考えたことをお届けしようと思います。

監視されている人の視点からの「監視国家」検証

「中国はカメラだらけで…」「新疆ウイグル自治区住民への監視は酷く…」というニュース報道は多くあります。その中で本著では、それを一見「進んで」受け入れているかのような中国の普通の人たちの行動を「功利主義」の観点から理解しようと試みているところがリアルです。利便性と自由のバーター取引。これは、日本人も自然とやっていることなのに、その視点は中国の監視社会化の中では十分理解されてはいないでしょう。

「お行儀のよい」というなかなかに意味深に微妙な表現でその変化を示していますが、確かにこれまで中国にあった様々なカオス、問題点。監視によって、これまで中国にあった、中国に住んだことのない日本人にはわかりづらい多くの「非効率」「危険」「不衛生」などが如何に排除されているかを、きちんと説明してくれています。これへの理解なしに「監視けしからーん!」だけでは、現状をきちんと把握できません。もちろん、本著第7章に紹介される新疆ウイグル自治区における事例のような問題点は深刻に存在しますが、それへの反論をするにしても何故監視が進むかの視点がないと、議論は片手落ちになります。

何がどこまで監視されているかの最新事情

更に、断片的な報道が先行していて、既にディストピアは完成しているかのようなイメージも伝わっている中国の監視能力。もちろん、最近日本のニュースでもよく取り上げられるような「もうそんなところまでできているのか!」という状況に加え、最新事情と取材から、何がどこまでできているのかを説明してくれています。

例えば「こんなことまでスコア付け!?」のように見出し記事ばかり先行しそうな、地方政府の「道徳的信用スコア」が現状では全く機能していないこと、政府が推進する「社会信用体系」と民間企業であるアリババなどが推し進める各種の「信用スコア」の違い等々、つい大文字で「中国では」と言ってしまいそうな状況に、詳しい解説がされています。大変勉強になりました。

監視社会は中国だけの問題なのか?

一つ思わぬ(スイマセン)収穫は、この本が単に中国事情を掘り下げるだけでなく、「これは中国だけの問題ですか?」という点を深く分析している点。「中国どうよ?」「中国けしからーん!」視点だけでは得られない、世界のある種の避けられない潮流としての「監視社会化」へのリテラシーを、日本(っていうかベトナム)にいる自分も持っておかねばならないなあと思わせてくれます。

最新の監視社会化を巡る議論と解説、そしてそういった監視社会化の前衛的端緒として見られる中国における現状、と理論と(中国での)実践を行ったり来たりする本著は、「中国どうよ?」本だけではない深みを見せてくれています。これは高口氏と梶谷氏の共著だからこそできる技でしょう。ただ理論のところを理解するのは、「新書をすいすい」読むという風にはいかないので、もう少しクリアな章分けをした方がより読者に親切かなとも思いました。とはいえ、でも何だか2冊の本を読んだような読了感を得られました。

ベトナムにはまだまだ高嶺の花!?

翻って、(日本については多くの論者がいると思うので、あえて)ベトナムにおいてはこういった動きはどう反映されているのでしょうか?

まず思い起こされたのは、ベトナムSNS国産化の話題。監視社会において国にとって都合の良い方向に、強制するのではなく誘導する、「ナッジ」(言葉の説明はこちらもご参照)を行うにも、まずは国民の行動パターンに関する大量のデータを集めることが必要。政府が推奨するベトナムSNS国産化については、一義的には言論コントロール(把握)の方が目的かとは思いますが、行動データの宝庫となっているSNSがFacebook始めとした海外サービスに握られているのはけしからん…というのが思惑なのかどうか…?ともかくも国産SNSがベトナムで普及したら、それを効果的に使って国民を「ナッジ」していくベトナム政府があらわれても、不思議ではないかもしれません。

ただその一方、中国政府がこれら監視社会化を推進できているガバナンス体制と、ベトナム政府のそれではかなり力の差があるかなあとも。例として、以下ツイートにある監視カメラと交通違反罰金徴収の問題。お金を投じればカメラは大量に設置できます。でも罰金徴収を機能させるには、これまで罰金をがっぽり懐に入れられていた交通警察が、カメラによる監視で「可視化された罰金」をきちんと手間をかけて取りに行くという公務員としての真っ当な行動が必要。「単に国庫に入れるための罰金徴収なんて嫌だよ」という心理がこの背景にあるのだと推測します。

可視化されて困るのが違反者だけではなく、罰を与える警察側でもあるという、プチ汚職文化がまだまだ蔓延しているベトナム。近年はより徹底された紀律で動いている(ようにみえる)中国の公務員体系とは違い、ここまでの監視社会を実践する強さを、ベトナムのガバナンス体制は持っていないかなあとも感じます。あとは、もちろんそれに費やす予算も勿論。仮に政府中枢がその意思を持っていたとしても、まだ「緩い」ベトナム社会の中では、実践は簡単ではないでしょう。

とは言え、本著が詳らかにする中国でのこれら実践を、同じく共産党一党独裁の安定化に向けて、ベトナムも注視しているのは間違えないと思います。その中で、本著第7章にあるような「道具的合理性の暴走」、少数民族への迫害と監視のところまで過度に学んでくれるなよと、ベトナム在住の身としては切に祈るばかりです。どういう「監視社会」が他にありうるか、あるべきか、日本を含めた他の国々がベトナムや、その他の国に見せることができるかが問われていると感じます。

11年間ベトナム(ハノイ)、6年間中国(北京、広州、香港)に滞在。ハノイ在住の目線から、時に中国との比較も加えながら、ベトナムの今を、過去を、そして未来を伝えていきたいと思います。