2002:「FIFAワールドカップ KOREA / JAPAN」

引き続き「趣味=サッカー観戦」の話です。

タイトルにも書きましたが、サッカー観戦が確固たる趣味となったのは自国開催のワールドカップがあったからに他なりません。

劇的な初出場を果たしたかと思いきや、本大会で激突したワールドクラスのサッカーに惨敗。大会終了後はどの媒体でも、やかましいレベルで「世界の壁は厚かった」というコピーが飛び交った1998年のフランス大会から4年。

我が国で開催された歴史的大会なわけですが、今思い返してみますと驚くことに当時は、自国開催ワールドカップの事前リサーチを全くしていませんでした。そもそも90分間試合を観る根気すらなかったような気がしております。

サッカー狂となり、酷いときは1時間に1回ニュースをチェックしている今とは大違いな自分を思い返すと驚くばかりですが・・・。

まあそもそも2002年当時の小6なんて手持ちの携帯電話すら持ってなかったですもんね。実家が自営業だったことでインターネットには繋がっている環境だったのですが、当時は繋げば繋ぐほど料金がかかる体系で商用利用以外はNG。当時は情弱でネットを観るノウハウも全く無い状況。全ての情報源は父親が隔週で買ってくる『Number』とか、実家で購読していた『スポーツ報知』とか非常にアナログな媒体のみだったのです。

そもそもサッカーのタッチポイントが圧倒的に少なかったわけですね。

黄金の2週間

同大会でフィリップ・トルシエ監督(当時)率いる日本代表は、自国開催、多数のサポーター、俗に「ワールドカップフィーバー」と言われる国民の熱狂をバックにグループHの国々と渡り合います。

-----

6月4日:初戦のベルギー戦は先制こそされましたが、鈴木隆行氏(当時:鹿島アントラーズ)と稲本潤一選手(現:SC相模原、当時:アーセナルFC/イングランド)のゴールで2-2のドロー。今でこそ世界1位の座に君臨する無冠の帝王ベルギーはまだまだヨーロッパの中堅国。ただ、グループHでは一番の強豪ベルギーとほぼ勝利に近いドローに持ち込んだことで心はざわつきました。

(当時の筆者)「あれ、なんかすごいことが起こっていないか・・・?」

6月9日:マスコミ的にはグループ最大のヤマ場と言われていたロシアとの決戦。「皇帝」と呼ばれ中心選手であったアレクサンドル・モストボイ氏(当時:セルタ・デ・ビーゴ/スペイン)が怪我による負傷離脱。それが根拠かはわかりませんが、日本が有利だという報道が飛び交っていました。試合は稲本選手の2試合連続ゴールで1-0の勝利。日本サッカー史上初の勝ち点3獲得という歴史的な試合となりました。私は祖母の実家地域で開催されていた「ほたる祭り」なるイベントに行っておりましたがしっかりと観ておりました。自宅に帰ってテレビを付け直すとニュースはやたらと浮かれていました。

大声では言えませんが私と亡き父は、今でもこの試合の稲本選手のゴールがオフサイドだと思っています。

6月14日:早いものでグループリーグ最終節。ワールドカップでは初めてアフリカ地区の国と戦うことになりましたが、“カルタゴの鷲”チュニジアを相手に、引き分け以上で「決勝トーナメント進出=ベスト16」が確定するという好条件。キックオフは15:30。小学校からマッハで帰宅し、父と祖父とテレビ前にて待機しました。じりじりと動きがなく進んだ前半を終え、後半が開始。開始早々に森島寛晃氏(当時:セレッソ大阪)の先制ゴールに叫び声を上げる私と父。全ての念をブラウン管テレビの向こうに送っていました。そして、永遠の英雄:中田英寿氏(当時:パルマSC/イタリア)のダメ押しヘディングゴールが突き刺さり、2-0でタイムアップ。ワールドカップ2回目の出場で決勝トーナメントに進出。心から喜びました。

この時点でサッカー観戦が大好きになっていました。おそらくこの試合がその後の人生全てを確定させたと思っています。

6月18日:日本サッカーが初めて足を踏み入れた決勝トーナメントという生きるか死ぬかの1発勝負の舞台。観戦しながらも明らかにムードが違うことがわかりました。相手はグループC(ブラジル、トルコ、コスタリカ、中国)を2位で通過したトルコ。前回の出場は1954年で、ほぼ半世紀ワールドカップに出ていないという状況ながら、ハカン・シュクル(当時:パルマSC/イタリア)を始めとする才能溢れた世代が集まった侮れない存在です。

ただ、サッカー観戦歴の浅かった私は純粋にこう思っていました。

(当時の筆者)「決勝トーナメントの中では安全パイじゃないのか・・・?コンディション悪そうだしここには負けんだろう・・・」

しかし色々と異変に気づきます。トルシエ監督はグループリーグで大きな動きがなかったスタメンを一部変更。当時日本へ帰化したばかりで「日本の秘密兵器」と呼ばれていた三都主アレサンドロ氏(当時:清水エスパルス)と大会前に虫垂炎を患ったことで本調子ではなかった西澤明訓氏(当時:セレッソ大阪)をトップのフォワード位置で起用。

ワールドカップはベンチも含め総力戦で臨むもの。しかし、なんとなく父を見ていると訝しげな表情をしていたので、私も妙な違和感を持ったまま試合は始まりました。

前半早々に失点。三都主氏のフリーキックがゴールポストを直撃。結果は0-1で静かに試合は終わりました。後にも先にもこの試合が終わったあとは、祭が一瞬で終わったかのごとく虚無感に襲われ、もうこの日本代表の試合を観れない。そういう哀しさもぐるぐると渦巻いていました。

虚無感の先にあった目覚め

当たり前ですが、トルシエジャパンが終戦を迎えたあとも、ワールドカップは続きます。大五郎カットが話題を読んだロナウド氏(当時:インテル/イタリア)が大暴れし得点王に、良くも悪くも大フィーバーを生んだディビッド・ベッカム氏(当時:マンチェスター・ユナイテッド/イングランド)の復活、まさに守護神と呼ばれたオリバー・カーン氏(当時:バイエルン・ミュンヘン/ドイツ)の躍動。全てが輝いて見えました。

(当時の筆者)ただただ、ワールドカップが死ぬほど面白かった。

大会終了後、私は父が買ってくれたワールドカップ総集編の特集雑誌を毎日毎日ボロボロになるまで読みまくりました。閉幕後にすぐ夏休みが来たので、当時は「早朝のラジオ体操から帰る→すぐに雑誌を読む→宿題をする→雑誌を読む・・・」というサイクルを繰り返していました。

また、父の友人の計らいでこのドキュメントを見たことも大きかったです。大会期間中の日本代表の徹底的に密着した内容で、正直言って作品の完成度があまりにも高すぎたため、その後の自分はNHKを除く民放の安いドキュメントが全く見れなくなりました。


また、夏休み中にやってくる誕生日にはプレイステーションのゲームソフト「ウイニングイレブン」を買ってもらい、一人でワールドカップの続きを楽しんでいました。とても幸せでした。

間髪入れずエポックメイキングな出来事が起こります。トルシエ氏退任後の日本代表監督が発表。後任はなんとサッカー王国ブラジルで一時代を築いたジーコ氏だったのです。小学生だった筆者の期待は大爆発。ジーコが魅せてくれるであろう夢の世界へ心を躍らせます。

ただひたすらにサッカーへ目を輝かせている自分。父がさらに面白いことを教えてくれました。

(父)そんなにサッカーが好きになったのなら、セリエA・プレミア・リーガを見なくてどうする。あと、UEFAチャンピオンズリーグもだ。世界最高水準のサッカーを見なさい。誇れる趣味を作るチャンスだぞ。

こうして兵庫の片田舎で生きていた少年は、深い深いサッカー沼にハマっていくことが確定しました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?