面白すぎる「授業」は、なぜ宗教に見えるのか

先日の「情熱大陸」が面白かった。塾なのに国語・算数などの教科はなく受験対策も一切行わない。「好奇心に火をつける」をモットーに学問を徹底的に”エンタメ化”する三鷹の塾「探究学舎」が舞台だった。

遊ぶように学ぶ授業に子どもたちは狂喜乱舞する。特に素粒子に恋した少女は強烈だった。「すべてのクォーク言えるよ!アップクォーク、ダウンクォーク、・・・・・」と淀みなく言い切る。

番組以上に興味を引いたのがネットの反応。
その反応は、まさに真っ二つだった。

「こんな授業を受けたかった!受けさせたい!」
「子どもたちの熱狂が宗教じみていて怖い」

あれを宗教と感じる人もいるのか、しかもこんなにたくさん。それは私にとってとても新鮮だった。
なぜ宗教と感じるのか、人間の欲望という観点から考えてみたい。

「不安」と「好奇心」の現代

空腹が満たされた現代、人々が金を使う動機は2つだと思う。
それは「不安」か「好奇心」。

「学歴に意味がなくなる」と散々言われていても「せめて大学くらいは・・・」と数百万円払って子どもを進学塾に通わせ進学させる。従来の受験産業はその意味で、将来への不安を媒介として成立する「不安産業」だ。

私達の経済は不安産業で回っている。SNSの既読機能、麻疹の予防接種、完全無農薬の健康食品、正確すぎる地下鉄、すべて不安を解消するためにある。テレビで100回くらい見ていても、パリへ行くとエッフェル塔のツアーに参加するのは「見逃す」ことへの不安からだ。

お金を払うことで不安を取りのぞき、心穏やかに暮らせるなら幸せだし、「不安」はお金を動かすので仕事を生み出す。不安産業は現代社会において必要不可欠だ。

番組中、ある親の言葉がとても印象的だった。

「子どもが熱中しているのは分かる。
 でも、それで何を持って帰ってきたのかな…って」

その言い淀んだ先にあるのは「将来、なんの役に立つのか」「なんの意味があるのか」という言葉だろう。意味は不安を取り除いてくれる。

好奇心に“意味”はない

一方、子どもたちの好奇心や没頭は「意味」を持たない。電車や昆虫の図鑑を一心不乱に読んでいたかと思うと、完全に暗記していたりする。暗記した理由を聞いても答えはせいぜい「かっこいいから」。

「好奇心」を刺激する塾へ子どもを通わせたいか、あるいは「宗教」と思うか。その分水嶺は親自身が「好奇心の魔力」をどれほど信じているかによるのではないだろうか。

知識よりも子どもの興味を重視する親たちは、「好奇心に火さえ付けば、知識はあとからついてくる」と信じている。もしくは確信している。それは自分自身がそういう子どもだったり、そういう人が身近にいたからかもしれない。それを「文化資本」と呼ぶ人もいる。

逆に、その経験がないと熱狂する姿は異様に映るし、その好奇心への信頼や確信が「宗教」に見えるのも無理はない。熱狂はいつだって、熱狂の外にいる人たちを不安にさせる。

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京都大学に加藤和也先生という数学者がいた。
彼は「素数」に恋をしていた。

あまりに素数が好きで自作の「素数の歌」を国際会議で披露したり、数学にのめり込みすぎ裸であることに気付かず外出し、警察から職質を受けたりと数々の伝説を残している。
しかし、類体論という数学の分野では世界3指に入ると言われ、この分野で彼の名前を知らない人はいない。

彼の講義は大人気で、外からも受講生が訪れる。それは解説がめちゃくちゃわかりやすいとか話が面白いからでは、ない。どちらかと言えば脱線が多いので分かりづらい。

たまたま時計が「3:03」を指していたりすると「あ、3がふたつならんでいますね。3という素数さんは寂しがりなんです。平方剰余の相互法則というのがありまして…」という具合に。

それでもその講義が鮮烈に記憶に残っているのは、知識や言語を超えた「何か」を彼が全身で表現していたからだと思う。
聴衆は素数を愛おしそうに語る姿の中に「数学者という生き方」を見つけ、好奇心が数学を作ってきたことを体感する。

均質で不安のない世界か、驚きに満ちた世界か

ふつうの学校でよく見るクラス全員に同じ服を着せ・同じ挨拶を教え込む光景。あれだって十分に宗教だ。

不安産業は管理によって想定外を排除し、世界を均質化させようとする。
好奇心産業は管理の外の驚きとワクワクを見つけては世界へ拡散しようとする。

どんな教育を選択するかという問題は、未来にどんな世界を望むかと同義だ。その意味では、すべての教育は宗教なのかもしれない。

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