210718-0724 仕事でも、神社参拝でも、美術鑑賞でも、何をやっていても、同じところに戻っていく。

退院して2ヶ月半が経った。声も出るようになり、体力も戻ってきている。

元気になったのは幸いなことだが、そのエネルギーの向け先を求めて、つい余計な動きをとってしまう。知らぬうちに流されている。喉元過ぎればってやつで、死にかけても学習できないのだから自分でも難儀なヤツだと思う。

しかし、元の木阿弥は勘弁。元の道が行き詰まっていることは、どこかしら分かっている。踏みとどまろう。外に向かおうとする自らに自覚的になろう。身体や内面に意識を向け、聞こえる声に耳を傾けよう。大切なものごとに自覚的に時間をとろう。そんな思いは裏腹に、余白を真っ黒にしようとしている自分に愕然とする。

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リハビリの都合もあって関西にいる。電車に乗ることがなくなり、車で移動している。リハビリや通院、仕事などの合間に、コロナで会わずにいた方々にお会いしたり、気になるお店に行ったり、寺社仏閣をめぐったりしている。

先日は初めて国立京都近代美術館に。「モダンクラフトクロニクル」をやっていた。

『1963年に開館した京都国立近代美術館は活動の柱の一つに工芸を置いており、国内有数の工芸コレクションを形成してきました。加えて、当館は「現代国際陶芸展」、「現代の陶芸―アメリカ・カナダ・メキシコと日本」、「今日の造形〈織〉-ヨーロッパと日本―」、「現代ガラスの美―ヨーロッパと日本―」など、折に触れて日本との比較の中で海外の工芸表現を紹介し、日本の美術・工芸界に大きな刺激を与えてきました。本展では、当館の工芸コレクションを用いて、これまでの当館の展覧会活動の一端を振り返るとともに、近代工芸の展開をご紹介いたします』

ぼくはとりわけ工芸に興味があるわけでない。濱田庄司とか、河井寛次郎とか、バーナード・リーチとか、民藝運動に関係している方々を、なんちゃってで見聞きしたことがあるぐらいで。そして民藝についても、ぼくの関心はミーハーなものでしかない。

朝一、開館直後の美術館。静謐な時間が流れている。心が落ち着く。一瞬、神社に参拝しにきたような感覚になった。

美術鑑賞とは何なんだろう。鑑賞にあたってのプロトコルなどもあるのだろうか。美術そのものに関しても、その鑑賞にあたっても、工芸そのものについても、一つひとつの作者や作品についても、ぼくは無知である。

いつもなら作者や作品タイトルや説明書きなどに目がいくのだが、この日は作品そのものに全身で向き合ってみようと思い立つ。

ものすごい量が展示されている。作品にぐっと対峙してみると、それら一つひとつが気を発していて、醸し出してくる風合いが違う。どれも歴史上の名品だとは思うが、そのなかでも気になるもの、心にひっかかるものがある。

ぼくは、何に惹かれているのだろうか。自分の心が動かされるもの、反応するものに、一定の傾向があるように思える。自分の好みはさておき、次々に現れる作品に向き合っていく。

あるタイミングで気付かされる。ここに展示されているものは、それぞれが生きた時代や国家を背景に、自分らしさを問い、世にその存在価値を問うた、魂の現れなのではないかと。

それぞれの個性が表出され、生きるために、生き残るために、その独自性・創造性をもって挑戦する姿が迫ってくる。何をどうやればいいのかと正しさを問うような次元をはるかに超越した世界が広がっているように感じる。

ふと我に還る。一体、ぼくは何に共鳴しているのであろうか。作家たちの背景が気になっている。

生きることの意味を思いながら、伝統と革新という言葉が浮かぶ。過去から継承された地点に立ち、自らの存在を賭けた作品を生み出す。作家たちは連なりあって、現実に、次代に工芸なるもの、そのスピリッツを継承する。

周りからどう見られるのかを恐れ、自己表現を躊躇している自分を省みる。なんとも愚かしく思える。同時に、開き直るような、明らかな思いも湧いてくる。

気づくと、あっという間に2時間が過ぎていた。友人を待たせている。そろそろ行かなければならない。

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