「正しさの暴走」は「正しさの不在」である

 よく「正しさの暴走」とか「正義の暴走」みたいなことが言われる。だから「正しさ」や「正義」をふりかざす人には注意しましょう、というわけだ。けれどもいつも疑問なのは、果たしてここで暴走しているのが本当に「正しさ」なのか、という点だ。

 この記事を読んで「そうだそうだ」という人がかなり多くて、疑問はなおさらふくれあがった。だって端的にここで「正しさの暴走」と呼ばれているものは「正しくない」からだ。その正当化として一片の「正しさ」らしきものが提示されているが、多少その内実を検討すれば別段その「正しさ」なるものは実際には「正しさ」でもなんでもないことがわかるだろう。

「帰りの会」の例はむしろ、なんの客観的な正当性(そう、「正しさ」!)もなしに集団から個を排除しようとする、同調圧力の暴走の例だ。記述を見ていくとわかるが、実はこの悲劇を回避する方法というのはまさに「正しさ」を信頼することにほかならない。

恐ろしいことに、松井君が来なくなるという結果に対して、関わったすべての人間が「正しい」と思っているのだ。女子たちは正しく糾弾したと思っているし、担任も良い教育ができたと考えている。僕だって、あの状況では何もできないし、逆効果だったと何もできなかった自分を正当化している。

ここでは、「正しさ」は個々の信念と同一視されている。だれそれにはだれそれの「正しさ」があり、また別のだれそれにはだれそれの「正しさ」があり、もちろんわたしにもわたしの「正しさ」があり、というふうに。しかし、もし「人の数だけ正しさがある」というのであれば、「正しさ」は事実上なんの意味も持たない。

じっさい、この記事に出てくる「正しさ」を「事情」に置き換えたってこの話は説明できる。女子たちには女子たちの「事情」があり、担任には担任の「事情」があり、自分には自分の「事情」がある。これを「事情の暴走」と言ったら「なに言ってんだ、お前?」となるだろう。その「事情」が全体としてどのように拮抗し、どの「事情」にどの程度の正当性、「正しさ」が認められるかを判断することができなかったからこそ、「帰りの会」の悲劇は起こったのだ。

つまり、「正しさの暴走」と言われている事態は、「正しさの不在」によって生じている。さらにいえば、各々の主張を調停するよりどころとしての「正しさ」をたんに個々の信念の問題に矮小化してしまう錯誤によってこそ「正しさの暴走」なる現象が生じる。

「正しさの暴走」と呼びうるような事態があったとしたら、われわれはそれを端的に「正しくない」というべきなのだ。「正しさは暴走するもの」というのはつねに自らの持つ「正しさ」の内実を反省し検証する戒めとしてはとても効果的なモットーだが、リテラルに「正しさは潜在的に危険である」と解釈してしまえば、まさしくこのモットーが警鐘をならす、かの「暴走」を食い止める術を自ら捨て去ることになってしまう。

インターネットは個々人、あるいは集団ごとの利害を調停する仕組みに今のところ欠けている。にも関わらず、利害を主張するコスト自体は非常に低い(とはいえ現実の権力勾配、すなわち男女間の不平等や性的・民族的マイノリティの弱さ、を見事に反映しきっているので話はそう単純ではない)。「炎上」なんていうのはまさにその弊害だ。

しかし、そうしたインターネットの欠陥を「正しさの暴走」と名指し、ちんけな「誰にでもそれぞれの正しさがある」みたいな教訓と感傷的な「帰りの会」のエピソードでパッケージングしても、なんの解決ももたらさないだろう。記事タイトルが言う通り、「インターネットは早急に滅ぶべきである」と結論づけるほかなくなる。

にも関わらずインターネットではとにかく「正しさ」の相対性を強調し、「正しさの暴走」を危惧し、「正しさ」の価値を毀損しようという言説ばかりが幅を利かせている。さまざまな思想信条の人びとがむき出しで衝突するインターネットのコミュニケーションの特性に対して、性善説にたって事態を理解しようとすれば、「個々は各々の正しさに従って行動している」という理屈をたてて納得するのが一番コストが低い(自分も免罪されるし)。だからこういうことになるんだろう。

と、一定の理解を示したうえで釘を差しておきたいのは、こうした「正しさの暴走」が具体的な権力の横暴やマジョリティによるマイノリティの排除などよりもずっと強大な危険であるかのように語る人さえしばしば見られる、ということだ。いくら「正しさ」をふりかざそうとも、具体的に権力を行使できる者にはそう簡単に勝ちようがないのだ。デモ隊がいかに「正しさ」を守ろうとしたって、警察や軍や司法がその権力を濫用すればあっという間に人死にが出て沈黙がもたらされる。「正しさ」なんてものは権力の前では塵みたいなものだ。

べつに以上のようなことを言っているからといって、「普遍的な正しさをもう一回獲得しましょう!」みたいなことは思わない。「正しさの暴走」論に人びとがこれほど共感するのは、素朴に「ひとつの正しさ」を信じられるほど愚鈍ではないからだ。自分もそうだ。揺るがし難いひとつの「正しさ」はほぼ存在しないし、存在するとしてもあまりに明白で揺るがし難いために、かえって使うには不便なのではないかと思う。だから、せいぜい「それなりに共有可能な、機能する正しさ」をつくっていきましょう、くらいのことしか言えない。

もっと突っ込んだことを言えば、「正しさ」のあり方を反省できるバッファーを、インターネットのどこかの領域につくれないだろうか、とは思う。あるいは、熱しやすく冷めやすい「炎上」の対処法ばかりではなく、失敗を次の実践へと反映できるようなサイクルをつくれないだろうか、と。これはジョセフ・ヒースあたりが『啓蒙思想2.0』で展開している議論とわりと近いと思う。理性が機能する余地をどっかに作ってやれば、まだ世界はマシになるのでは?

「カルチャー顔」をめぐる炎上のあとで横山純さんが改めて問題提起をしたとき、「この問題をこのまま終わらせたくない」と綴っていたのを思い出す。

SNSの力学に完全に脳をやられてしまっている人のなかには、この言葉を「謝罪だけではなく最後まで追い詰める」みたいな意味にとった人もいるらしい。なんて貧しい読み方なんだろうと思ったが……。実際には、「謝罪させたり、追放したりして『一件落着』ではなく、ここで起こった議論をどのようにみんなが活かすことができるか、一緒に考えたい」という意思表示だったはずだ。

これこそまさに「正しさ」を信用し(盲信ではなく)、反省しようという行為だったんじゃないかと思う。SNS上で制御不能に陥った言説の「暴走」を食い止めるには、いったん「正しさ」に立ち戻らなければならない。かつ、その「正しさ」さえも常に「うまく使えるか」を点検し続ける必要がある。なにも、誰も彼もそんなめんどくさいことをしろ、とは言わない。できるとも思わない。けれどせめて、「正しさ」に無用に怯えるばかりではなく、「正しさ」の価値、意義を評価するくらいはしたほうがいいんじゃないか。とは思う。

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おっ あざす
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