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飽きてるとき、何が起きてるのだろう?

生後半年の赤ん坊に遊んでもらった。ニコニコと人見知りしない子どもで、キャッキャッとよく笑っていた。

僕がやることは単純で、仰向けの赤ん坊の顔にタオルをかけて、パッとはずすだけ。なんと、これだけで大爆笑である!

最初のうちはあまりにも喜ぶので、こちらも楽しくなって繰り返して繰り返して、タオルをかけたりはずしたりしていた。爆笑につぐ大爆笑で、赤ん坊はだんだんと、ヒートアップしていく。

次第に、こちらが「飽きて」きた。同じ作業をして、同じような喜び方を見て、また繰り返すということに、ちょっと飽きてきてしまった。いくら喜ぶ顔を見るのが嬉しくても、同じことを繰り返すことは、「退屈」の顔を覗かせてきた。

だんだんと「赤ん坊と一緒にめっちゃ楽しい!!」僕と、「また同じことをするのかな」と飽きてきてる私とに分かれてきていた。

その解離に、ふと不思議に思い始めていた。「飽きるとはなんだろう?」「なせ、目の前の赤ん坊は飽きてないのか?」

帰り道、歩きながら考えてみると、「子どもが飽きずに大人が飽きる」ことのひとつのアイデアが浮かんできた。

子どもは、常に「新鮮」なのだ。

よーく思い出してほしい。たとえば学校の、退屈な授業のとき、あなたの感覚は「閉じて」いるはずである。頭が惰性で動いているだけで、目はとじかけ、耳も右から左に流すだけ、臭いも味も感じようなどと思わない。背筋はだれ、もはや身体があることすらよくわからない状態になっていたはず。私は、それを「退屈」と称している。

感覚は、常に「プロセス」でしかない。「リザルト」というか「パスト」は、偽物である。擬似的な張りぼてのことを、「感じている」ようにしているのが大半である。希にはっきりとその感覚を思い出せることがあると思うが、トラウマ的な記憶か、よっぽど印象に残ったものだけだろう。

「退屈」は「飽きる」。飽きているのは「身体の感覚」に新しいことが起きないからである。その「予測性」が脳みそを省エネモードに(比喩)移行させ、「飽きた」状態になる。

タオルをかけられて、はずされたりすることは、子どもにとっては「毎回新しい」のだ。かけられてはずされることは、実はたしかに厳密に言えば毎回違う。その違いを、きっちり、感じ取っているのだろう。

だから、「飽きてきたな」と思うときは、基本的には「次が予測できて、かつ、身体の感覚が使わなくてもよい状況」にあると分析してみるとよいかもしれない。伸びをしたり、深呼吸をしたり、手を動かしたりするのは、「感覚」に刺激を与えるには有効だろう。とはいえ、自分で起こせる刺激は予測性が高いので(自分でくすぐってもあんまりくすぐったくない)、その手もすぐに尽きる。あとは、場の変化に注目していくことが考えられる。

万策尽きたなら、正直に言うと「その場にいることがふさわしくない場」にいるということ。そこまで来たらあきらめて空想の世界に旅立つか、いっそ思いきってその場を離れることが大事であろう。

この文も、意識して単調にしてるので、飽きてきた人が多いのでは?

以下オマケ

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