僕たちは、自分の身体の「ネイティブ」か?
ネイティブとノンネイティブの違いは何か。
『ダーリンの頭の中』(小栗 左多里, トニー・ラズロ)のなかに「崩し字が読めないトニー氏」の例で出ていたものが非常に腑に落ちている。
ネイティブは「規格外」であっても解かるのだ。
もっとつきつめて言えば、「細かな違い」を見分けることができるのが「ネイティブ」だと言える。方言と共通語のイントネーションの違い、用語の使い方、などなどの「細かな違い」も感覚的に把握できるのは、ネイティブだからであろう。感覚の細かさを、ひとつの指標としていいのではないだろうか。
もちろん、習得によって限りなく「ネイティブ」に近づいていくことはできる。頑張れば英語の「L」と「R」の発音もできるようになるし、もしかしたら聞き取りもできるようになるかもしれない。なんとなくで違いが解かることは、意識してつかめる部分も多い。
ひるがえって、では、僕たちは自分の「身体」のことについてどうであろうか?自分がいま「調子がいいのか」「悪いのか」すら、実は判断が困難な事態になっていないだろうか。
現代では、身体がどんどんと外に外に拡張されている。記憶も、知識も、技術も、栄養も、すべて「アウトソーシング」化されている。どんどんと自分の身体の内側を見ずに済んでしまっている。
身体は、日々微細な信号を送っている。こう書いている私自身、おそらく9割9分の信号を無視して生きているだろう。というよりも、現代社会で生きる上で、「無視せざるを得ない」。
しかし、大体の物事がうまくいかなかったとき、そこにはたしかに小さな小さな「違和感」があったことにようやく気付くことができることが多い。「身体」はすでに「違う」と思い始めていても、すぐにその声に耳を傾け、かつ、自分の行動を変えていくことは難しい。
まずは、自分の身体のネイティブになろう。違和感を感じ、すぐに「修正」できるように練っていきたい。そして、ゆくゆくは「違和感」を感じずに平静に生きられるようになりたい。
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