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勘違いは、なぜ起こる?

これは、私自身のお話。

私は注意欠陥の気があるので、思考が常に発散ぎみです。だいたい、人の話聞きながら、3から5個のことを同時平行で考えてます。ちゃんと聞く、を「ひとつだけに注意して聞く」というなら、実は全然できてない。

そのせいか、結構な頻度で勘違いを起こします。特に、人間関係や、その人の発言については、「勘違い」というか、状況から全く違った状況を想定する、ということがよくあります。

さっきもいった通り、「思考」がよくとぶので「そこをつなぐ!?」というところをぱぱっとつないでしまうみたいです。

でも、気づきにくい。「自分のなかでつじつまがあってしまう」から。論理ばっかり考えてる弊害かもしれません。

物語は、最小の情報でもつくることができます。「水」「かわく」「のど」というのがあれば、「のどが乾いたから水をのむ」が組み立てられます。でも、もしかしたら、「のど」の「水」が「かわく」かもしれない。つじつまは合います。

人は、「自分の見たいようにしかものを見ない」という傾向があります。結局、解釈するフレームからは逃れられません。だから、基本的にみんな「水」「かわく」「のど」の情報から「のどがかわいて水をのむ」を組み上げ、馴染みが薄い、有用性の低い「のどの水がかわく」とは解釈しません。

僕は人間関係に最終的に自信が持てていないので、常に「最悪」を想定して動きます。「人間はどこかで僕を嫌だと思っている」という自分のなかの確信を強めるために、無意識にその方向に情報を組み上げがちです。たちが悪いことに、限られた情報なので、それでも一応物語がなりたってしまう。

これが、ひとつの勘違いを起こす原因です。「つじつまがあってしまう」。

勘違いを起こすのは、「情報が不足するなかで、情報を自分の信念に叶うような物語に組みあげよう」とするからです。だから、対処法は2つ。

ひとつは、「情報不足を補う」こと。「あれ、でもこれ直接確かめたわけではないな」というものについて、ちゃんと調べること。

もうひとつは、自分の信念(確信、思いこみ)について相対化すること。「自分に都合のいいように情報を組み上げやすい」とか「自分は好かれている」「自分は嫌われている」など、その他のフレームについて、自覚すること。物語を組んだときにそうなっていれば、偏りが生じている可能性が高いので、他の解釈を考える余白に気づくことが可能になります。

基本的に社会自体もそれぞれの「勘違い」によって成り立ってるので、撲滅するとえらいことになるのですが、どうもうまくいかない、というときに、原因のひとつとして「勘違い」がある。

つじつまがあってしまう、の恐怖は疑えないことです。つじつまがあっているものも、さらにまた疑うのを学問といいます。問いを持ちながら生きるのはときにしんどいですが、そんな効能もあるはずです。

以下オマケ

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