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フォロワーシップはリーダーシップ ~場をつくる感覚~

今日、一心不乱に遊んでいる子どもたちをみて気づいたことがある。学年のレクリエーションの日であったが、「何が集団として重要か」ということに、ちょっとした実感をもった。


それは、「フォロワーシップこそ、リーダーシップである」ということだ。
・・・何だか変だが、言いたいことは凝縮されている。

「自覚的に場をつくる」こと。たった一つ、その「視点」を持つかどうかがその集団が「集団」として機能するかどうかを左右するのだろう。
「フォロワーシップはリーダーシップである」。この言い方が、別に私が「発見」した新たな知見であるとは思わない。むしろ言い古された、定型句であろう。

集団がうまくまとまるためには、「自分たちがやろうとしていること」をおおまかにとらえ、「自分の欲求」と「ほかの人の欲求」、そして「資源」との折り合いをつけて行動していく。だから、まとめ役は「現在の進行方向」と「現在の位置」を解かり易く集団に伝え、「次の行動」をうまくとってもらうように先導していくとよい。リーダーシップが「集団をうまくまとめていくための手段・能力」だとすれば、「フォロワー一人一人がその手段・能力を保持したうえで、リーダーについていく」ことが理想と言える。そんなことは、「当たり前」である。特別に言わなくてもいいことだ。

では、何に実感を伴って、こんな風に書いているかといえば、「場に参加する」のではなく「場をつくる」という考え方をもつことの大事さに気がついたからである。

友達と喋っている。ボールで遊んでいる。空間的には共有しているし、目的としての「楽しいレクリエーション」という意味では、達成しているのかもしれない。その場に「参加」はしている。自分たちが出番の時は、ちゃんと出てくるし。しかし、「場づくり」の感覚とは、どこかずれていた。

「場づくり」は、積極的に発言したり、行動したりしなければ”ならない”ということではない。静かに見守っていても、もしかしたら小さい子と遊んでいたり、他のことをしていても、「場をつくる」ことはできる。

では、「参加する」と「つくる」はなにが違うのか。

それは、「視点」をどこに置くかの違いなのではないか。「自分」を中心に置くのか、「場」を中心に置くのか。重心を自分から放し、それぞれの間の空間に置く。

では、「場」に中心を置く場合、どんな方法があるのか?
ひとつは、「ちょっと未来」に目を向けることである。音楽に乗っているときのことを思い浮かべれば非常にわかりやすい。そのときの視点は、「いま」というよりは、実は「ちょっと未来」を見ている。
ひとつは、「ぼんやりとした焦点」。どこか一か所にのみフォーカスしているのではなく、仏様の半眼ではないが、「面」で見ている状態。

身体感覚的には、「自我」が溶け、空間に満ちている状態になる。

課題は、これをどうやって伝えるべきか、である。「伝えるのではなく、伝わるものだ」というのは、もっともな意見だが、今後、この感覚を伝承していく必要が強まっていく。そのときのために、ちょっとでも理論はもっておきたい。仮説と女房は立てておくに限る(造語)。

①コミュニケーションの方法を増やす
テキストを送るか、スタンプを押すか、写真を送るか、動画を撮るか、とほとんど「視覚的」に限定的になっているコミュニケーションをもう少し再拡張する必要があるはず。直接あって話しているとき、人間は「視覚」「聴覚」「触覚」「嗅覚」「味覚」「重量覚などの深部感覚」を総動員している。「視覚」はどうしても集中する方向に動いてしまうので、「感覚」の統合としての「意識」をはっきりさせる必要がある。

②独りになる
集団として動くためには、逆説的に「個々」が動いている必要がある。「群れ」の状態と「集団」は異なる。単純に「参加」の状態から「つくる」状態への意向には、個々の「自己」がある程度しっかりしていないと難しい。

③表現する
なにかしらの「表現」を行う。自分の「輪郭」を知り、他者との「境」を知ることができれば、それは「中心」をずらすひとつの助けになるはず。

とりあえず、思いつくままに。それぞれについては、また思いついた時に深めていきたい。

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