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第6回てつがくカフェinくめじま お題「テレビ」(みじてつシリーズ)

<要約>
①ネットとテレビは、メディアとしての種類が違う。
 メインメディアからは逸れるかもしれないが、残り続ける。
②ダラダラ見る、偶発性の発生。情報へのアクセス。
 受動性と能動性の必要性は?
③大衆性。情報共有の速さ。CMモデルの変革は起こりうる。

いつも「もやもや」して帰ってもらうことを目的に開催している「てつがくカフェ」ですが、今回は「ふわふわ」してしまいました。案内人の力不足がまたも露呈した回でしたが、「もやもや」にするための”種”は見つかったような気もしています。

スタートの問いは、「みなさんがテレビから得ているものとは?」です。


◇テレビから得ているものは?

・情報?
・リラックス?
・他人の人生の疑似体験?
・共通の話題を見つけること?

しかし、どれも他のメディアでも得られるものでもあります。

情報は、ネットのニュースや新聞で。
リラックスはマンガや本、その他のアクティビティから。
他人の人生の疑似体験は、TVドラマだけではなく、さまざまな「ストーリー」から。

私たちの「知識」の源泉としてもテレビは大きな役割を果たしていた、という意見も出てきました。案内人個人の話をすれば、「世界ふしぎ発見」や「どうぶつ奇想天外」「生きもの地球紀行」は、子供のころの私にとって、「歴史」「地理」「生き物」の大事な「教典」でした。

ただ、これも「本」で十分に身に着けることはできます。

何が、テレビにとって特徴的でしょうか?

おそらく、「共通の話題を見つけること」に関しては、まだテレビに勝るメディアはないと思います。「広域かつ、手軽に、誰もがアクセスしやすい形で情報を伝える」という点については、ひとつアドバンテージを持っています。いまの子どもたちを見ていても、まだ共通の話題は「テレビ」の話題が出てきています。ただ、だんだんと「Youtube」の比率は高くなっているようです。

ただ、世の中全体を見渡すと確かに、現代はどの世代にも共通の話題(歌やスターなど)があまりなくなってきました。これは、情報源が多様化してきたことに加えて、「家族形態の特徴の変遷」にあるのではないか、という意見も出てきました。

核家族化がすすむことで「おじいちゃんおばあちゃんから子どもまで」が一緒の食卓を囲むことがなくなってきたことの方が大きな原因だと。

ここに、「テレビの場所性」という概念が入っていたように思います。(この”もやもやの種”については後程記述します)

◇テレビが変わったことは?

テレビのかたちが変わってきたのではないか?

「非現実性」がテレビの特徴だったが、だんだんと「現実性」の強いものになっています。バラエティを見ていると特徴的で、一昔前のお笑いはドリフやひょうきん族に代表されるように「コント」が主流でしたが、「漫才ブーム」や「ショートコント」を挟んで今は「トーク」主体のバラエティが増えて来たのではないでしょうか?

「コント」は非現実性が強い。対して「トーク」は現実的な地平に立っています。

「画面の向こう」と「画面のこちら」の区別は、「非現実」と「現実」の区別でもあります。最近では、「1億総発信者社会」になり、いま私がこうしてノートを書いて発信している通り、誰もが「発信者=画面の向こう」に発つことができます。

「おでんつんつん男」や「店の冷蔵庫に入る人」が一時期取り上げられましたが、もしかしたらその「境」が逆転してしまったのかもしれません。

また、情報の受け取り方に、世代間の違いも生まれかけていることは考えられます。情報は、どこかから一方向的に与えられるものではなく、分散して存在してるものを双方向的に取得していくこともできるようになってきました。

時代は「双方向」にある、として地デジ化して「双方向性」を謳ったテレビですが、ネットの「双方向性」よりも不便なものであり、情報量も少なく、その面ではあまり普及したとはいえません。むしろテレビ番組でも「メール」や「SNS」に寄せられた意見、を取り上げているのをよく見るようになってきました。

◇テレビでしかできないことは?

では、テレビが変わっていないこと、テレビでしかできないことは何でしょうか?

出てきた意見のは、「ある程度のランダム性をもちつつ、本人が”半分意図してなかった情報を提供すること」と「情報の質を担保しつつもスイッチをつけるだけでお手軽に共通の話題をつくること」でしょうか。

すでに、大部分が変化しているので、今のところテレビでしかできないこと、は「大衆に向けて情報を一度に、半強制的に流すこと」かもしれません。

半分ラジオのように流しながら、「気になった情報」が出てきたときに注意を向ける。

ネットで言うと、SNSをぼーっと眺めて、気になる記事や投稿があったらクリックしてみる、ということに相当することでしょうか。ネットの場合は、もちろん「自分でスクロールしていく」行為を行わないとみられないので、さらに能動が求められます。テレビは「つけておくだけ」で、とりあえず勝手に流れているので、ここはまだ機能的に異なる点だと思います。

ネットの情報は、「取捨選択」ができる分、かなり意識しないと「偏った」情報しか得られません。意識しても「偏りのない情報」を得るのは難しいかもしれません。テレビも「偏っていないか」と言われると賛同しかねますが、ジャンルとしては「ニュース」「バラエティ」「情報番組」などなど、まだ多様性は担保されやすいと言えます。

◇テレビのかたちはどう変わる?

今後、あり得る形は「コミュニティTV」です。これからどんどん電波の開放が行なわれるとすれば、映像機器の発達、編集の手軽さも含めてもっと普及していった際に、「大衆性」をとるよりも「ローカルの話題」をひろいつつ、それを「ブロードキャスト(広範囲に発信」する、といういまのコミュニティFMの形が定着してくるのは、ひとつ予想が簡単です。

もう一つ、今後「スポンサービジネス」も変わってくる可能性が示唆されました。「大衆性」が減っていく中で、「テレビ」でCMを打つよりもどちらかというと「Youtube」などでCMを打つ方が効果的、という時代がくるかと思います。(だんだんと「友達」が使っているから使う、という顧客モデルに変遷しているかも。昔は1億に流して1万人にヒット、いまは10万人に流して1000人にヒット、というモデルになっている?)。

参加者の中にも「CM」を全部覚える、というかCMに非常に興味がある、という話も出てきて、盛り上がっているところを見ても、まだまだ実は「CM」自体は消えなさそうです。が、その媒体として「テレビ」が選択される時代が続いていくかというと、それは疑問です。

(ちなみに、沖縄のCMのクオリティは上がっているそうです。話題に出てきたのは赤嶺不動産https://www.youtube.com/watch?v=nlyc_0jX6p0)。

◇テレビって結局なんだ?

「ネット」よりは「ラジオ」に近い、という意見が出てきました。非常に重要な指摘だと思います。

情報の「受動性」と「能動性」が違う、ということは出てきました。

ただ、どちらも「自分のもっている知識」に対してしか反応ができない、ということはあるので、情報の取得の仕方、という意味でいえば違いがあるかどうか?という意見もあります。

「受動」はまだ必要なのか?

これは、テレビ論だけでなく、幅広く「人間論」に近づいていく問いでもあります。

「偏り」を是とするか、「偏り」を否とするか。

実は、テレビの本質もそこにあるのかもしれません。

私たちは、どんな情報を求めているのでしょうか?

「テレビ」「ラジオ」「出版物」はひとくくりな気がするが、「ネット」だけはどこか異質である、という感想も出ました。

◇参加者感想

・テレビはなくてもいい?メリット・デメリットもある。文章の方が情報取得効率は良い?ドラマなどのコンテンツは残っていくのかもしれない。
→テレビドラマモデルは、残る?

・「テレビ」と「ネット」は別ジャンルである。「ネット」が発達したからと言って「テレビ」が消えるわけではないだろう。昔もテレビができる時に映画業界が猛反対していたらしいが、いまは共存している。それと同じこと?「テレビ」を見る人の比率は変わるかもしれないが、「テレビ」は残るだろう。

・「偶発性」や「多様性」が特徴だと感じた。まだまだ私はテレビを見続けます!

・「テレビ」は「場所性」なんじゃないか?昔は電気屋、親戚友達の家で観ていた。食卓の中心にある家も多い。映画(映画館)も実は「場所性」の問題であったはず。

◇問い残し

・「テレビをダラダラ見るのが幸せ」という人も結構いる。「テレビの幸せ」ってなんだったのだろう?

・「テレビからネットへ変遷していくなら、場所性はどう変わっているのだろう?」



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