こね上げる言葉

コードタクト代表、後藤正樹さんとみっちり4時間ほどお話しした。ICTを中心とした教育関係の情報をいただき、すぐにでも実践できるヒントをたくさんいただいた。

そのあと、気になっていた「School Takt(スクールタクト)」の理念について、どうしてもお聞きしたくなって、「抽象論になってしまいますが・・・」と前置きしたうえで、質問を重ねながら「言葉を紡ぎだす」作業を共にしていった。

「言葉にするのは苦手なんです」とお話しする後藤さんだが、肌理の細かい、見事な感覚をお持ちであることに興奮で震えるほどの感動を覚えた。

◇表現をしっかりと「察してもらう」ための
EMSでスクールタクトを使った感想は、励ましあいながら、他者の考えと重ね合わせながら学習する、「協同学習」の促進ツールであった。簡易な操作方法によってさくさくリフレクションを書き、人にみてもらい、人のをみてコメントやいいね!をつけあうことで、学び合いを実現していく。

私の解釈では、開発の出発点としては「学習者」の視点で、「いかに主体的に学べるか」という課題意識から産まれたものだと考えていた。

しかし、後藤さんの思いは、さらに一段深い層にあった。それは、だれもが、「その視点」を持つことはできない、独自(オリジナル)な視点であった。

後藤さんのこだわり、問題意識、実現したいことは「学習者が表現した思いを”見る人(=あえて鑑賞者という言葉を使う)”が、いかに察することができるか」にあったのだ。

「鑑賞者」が「学習者」の「心」を察し、その「心」を追うことで、「学習者の表現」を主体的に把握することを促進するツール、らしいのだ。協同学習のプラットフォームとなり、「学習者」の主体性を高めることだけでなく・・・。

◇心の声は「配置」に表れる
話しているとき、人の「心」は何に表れるだろうか?

たいていの人は「何を語るか」である「コンテンツ(内容)」に注目するだろう。その人が肉が好きなら肉の話。音楽に興味があれば音楽の話。その「内容」にこそ「心」を見る。

しかし、後藤さんが注目するのは「コンテキスト(背景)」であった。その話が「どう」語られるのか。そこにその人の「心」が表現されると感じているようである。「語られる話がどんな内容か?」ではなく、「内容がどうやって語っているか?」に「心のありよう」が表れると感じている。

では、「コンテキスト」に「心」があるとは、いったいどういうことだろうか?

後藤さんが例に出したのは、例えば「文字の大きさ」。スクールタクトはデフォルトの「文字の大きさ」がなく、テキストボックスの大きさに応じてフォントサイズが変わる「自動」の設定がデフォルトになっている。大きく書きたいとテキストボックスを大きく配置すれば、対応しながらフォントの大きさが変動していく。

対して、マイクロソフトのワードはたいてい「10.5ポイント」がデフォルトになっている。伝えたいものがあって、文字を強調するためには、その「10.5ポイント」で書いた箇所をドラックして、フォントの大きさを変更して初めて「大きく」なる。

しかし、それでは「心の声の大きさ」は、反映されない、と後藤さんは感じている。

その「心」は「大きな声(大きなフォント)」で言いたいのか?それとも「小さな声(小さなフォント)」で表現されたいのか?位置は?色は?縦書きなのか、横書きなのか。「心」は、その「書式(スタイル)」に表れるのだ。

「スタイル」と「心」は直結している。「表現したい心」と「表現されるもの」と、相互にやりとりをしながら調節されることで、「心」のかたちが「配置」される。「配置」されたものにこそ、「鑑賞者」はその人の「心」を察知する。いや、察知できる「余地」が生まれる。

そして、そこに「タイムラグ」が生じてはいけない。「心」は常にやりとりをしながら「こね上げられていく」からだ。「心」はリアルタイムで、相互作用を通して生まれているものなのだから。

◇表現するための「文房具」
スクールタクトを、後藤さんはあえて「教具」ではなく「文房具」と表している。そこには、スクールタクトは「心」の「枠組み」を与えるものではなく「心」を「表現」するためのツールである、という想いが込められている。情報伝達のツールではなく、表現のためのツールなのだ。

私自身、最初にスクールタクトを使ったときに、感動したことがある。それは、「白紙」をベースにしていることであった。

まったくの白紙。グリッドも、線もなく。テンプレートも基本的にはない。何かを伝えるものを作るための「文房具」であるために、「文房具」の可能性を最大限に生かすためには、きっと「白紙」が一番なのだろう。色ペンや、書きたいことをテキストボックスに詰めることで、「白紙」がどんどんと塗り替えられていき、自分の考えがブラッシュアップされていくように感じて、なんとなく、そこに開発者のこだわりがあるような気がしていた。「心」の機微である「肌理」を表したいという隠された思いを感じていたのかもしれない。

◇粘土のようにこねあげて
後藤さんは、決まった形を並べることで、表される「心」ではなく、自由度が高く、その人の揺れ動きが相互作用を通しながらリアルタイムで表れてくる、粘土のような「心」を大切に見ているようであった。

これまでの学校で採用されてきた「系統学習」は、子供たちに「型」を教え込むことで知識や考え方の伝授を行っていた。そこで失われるのは、「心の揺れ動き」である。同じ入力をすれば、同じ出力が出るようになることが是とされる。同じ入力をしても、個々人で違うものが出力される、という可能性は、捨てられていく。

スクールタクトには、「系統学習」を体系づけて教えている学校において、「経験学習」の要素を導入しようとするねらいもある。「経験学習」は、それぞれが感じること、考えることの差異を持ち寄ることで、さらに学習が促進される。まず、個人の中で「心」をこね上げ、その成果を共有することで、さらに集団としての「考え」をこね上げていく。

情報を受け取ることで「勉強する」のではなく、「心」を表現したものを持ち寄ることで「学習する」ための、道具なのだ。

◇生き残るために
なぜ、人は学ぶのか?

単純だ。

生き残るためである。

予測不能の世界に適応して生き残るためには、学習し続ける(自分自身の行動を環境に合わせて変化させていく)必要がある。ワンパターンの行動しかとれない生き物は、環境が変わった瞬間に息絶える。

そして、変動する世界に適応するためには、「どんな変動がくるか」「何を学習するのか」について判断しなければならない。先読みをして、かつ、その変動に適してものを学習する必要があるのだ。

学習するためには、「問い」を持たなければ駆動されない。「問い」をもつためには「関心」がなくてはならない。

そして、その「関心」は個々人で多様である。「関心」の分だけ学習があり、その学習を縒り合すことができれば、それだけ多様な環境に適応することができる。

◇針の穴は「大きい」
「関心」を抱くためには、実は感じられなければならない。私も含め多くの人は、針の穴は「小さい」と思っている。通す場所は「一か所」でほかに選びようがないと考えている。

しかし、後藤さんは「針の穴は大きい」という。針の穴は大きく感じられるので、穴の上のほうに通したり、下のほうに通したり、糸を通すときに、いくらでも「選択肢」があるように感じている。要は、虫メガネをつかって針穴を覗いた時のように「大きな穴」を感じる解像度を持っているのだ。

そして、指揮者として、オーケストラ全体を奏でる後藤さんは、「心」は、そんな「小さいところ」の「大きな違い」に表れることを、知っている。その「小さなところ」の「大きな違い」にしか、表現の差異を生じさせられないことに、こだわりを持たれている。

解像度を高くしないと感じられないような「小さい揺れ動き」のなかに、いかに「自分を最大化して」表すことができるのか。

誰もが「表現者」であり、「鑑賞者」である。その相互作用が人を幸せにして、人類の生き残りがかかっている。

そんな、課題意識がスクールタクトには込められている、そんなことを感じるセッションだった。

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