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彼女の匂い «小説»

彼女が出て行って、9ヶ月になる。

やりたいことがあると言われて、引き止める言葉は出せなかった。
強い喪失感に襲われたのは彼女が出ていく前の方だった。
何も手につかなくなりそうだと思ったが、実際に居なくなってみると、わりとそうでもない。
毎日きちんと仕事に行くし、食事も摂る。
旅行にも出かけたし、バラエティを見て笑うこともある。 

彼女がいつも座っていた椅子が空いているのや、洗面所の彼女の歯ブラシがあった場所がぽかんとしているのを見るのも慣れた。

ただ、
駅で大きな紙袋を下げた女の子とすれ違うときに、
欲しそうに眺めていた服を買ってあげれば良かったと考えてしまったり、
グルメリポーターが彼女の好物を紹介していると、チャンネルをそのままにしてしまったりするくらいだ。

もともと居なかった人なのだから、居なくなっても大丈夫。

居なくなるまではそう思っていた。

自分は今まで通り、自分の人生を歩ける。


それなのに、
いつも彼女のことを考えている。

ちゃんと食べているだろうか。
ダイエットしなくちゃと言ってばかりいた。
ちゃんと笑っているだろうか。
自分の知らない誰かの隣で。

自分がこんなに執着心の強いヤツだとは知らなかった。
もっとドライだと自信があった。

あいたいとは言いたくない。
帰ってこいなんて言わない。

彼女の椅子も、クッションも、洗面所も
そのままにしてるくせに。


前髪をぱっつんに揃えた名を知らないアイドルが、駅前の大型ビジョンで微笑む。
彼女に似ていてどきっとする。
いや、本当に似ているか?
気のせいじゃないか。


「帰ってこないかな」

耳に飛び込んだ自分の声にぎくっとする。
不覚にも視界が滲む。

あいたい。

彼女の髪に触れて、彼女の笑い声を聞いて、
もう一度、蹴飛ばし合いながら狭いベッドで眠りたい。
枕からも布団からも、もう彼女の匂いはしなくなった。

あいたい。
抱きしめたい。

早足で家路につく。
泣き出してしまいそうで、息を止めて鍵を開けた。


「あ~。おかえり〜。うちのバカ娘、27日の新幹線取れたってさ」

夫の声が弾んでいる。
彼もやっぱり楽しみにしていたのだろう。何も言わないでいたけど。
笑う目元が彼女と同じ。

「あらそう。結局、夏は帰って来なかったもんねぇ。あの子の部屋、掃除しとかなきゃ」

私は鼻声がバレないように思い切り微笑んだ。

私の大事な彼女が帰ってくる。
いい加減、子離れしなくては。

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