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披露宴での乾杯挨拶を頼まれていたようだ。~How toに至らない何か~

依頼を失念する

披露宴での乾杯挨拶を頼まれていたようだ。大学の後輩にあたる新郎新婦の依頼で。式本番の5日前だというのにすっかり失念していた。新郎新婦は人望が厚く、挨拶を頼むのなら相応しい会社の上司や友人達がいくらでもいようものを、敢えて僕に依頼してくれたわけだから、熟考を重ねた上での人選だったのだろうに、こちらがすっかり忘れているのだから世話が無い。大方依頼を引き受けた時に酒が入っていて安請け合いをして記憶から零れ落ちたのだろうけど。たまたま連絡を取って気づいたからよかったものを危なかった。めでたしめでたし。

・・・無論これで話は終わらない。向き合いませふ、挨拶と。

以下、6000字に渡り、披露宴の乾杯のスピーチを頼まれて何を喋るべきか問題について、何者にもなれなかった僕が試行錯誤の過程を書き連ねているだけの内容。もしかしたらスピーチ作成のヒントにはなる可能性もあるがHow toにまでは至らない何かしか描かれていないことを予め断っておく。

「程よく無茶を言う」という名の難題

有難いことに今までの人生で披露宴の友人代表挨拶、乾杯の挨拶、司会等々を経験している。依頼者に共通する僕への言外の期待値は概ね「程よく無茶苦茶な事を言ってほしい」だ。「無茶苦茶な事を言う」これだけれであれば、その実それほど難しいことではない。披露宴のスピーチで誰もが触れないような話題を勢いをもって喋れば要件を満たせる。しかしそうは問屋が卸さない。期待値の前半部分の制約条件「程よく」という点を見てほしい。この「程よく」さんというのが曲者なのだ。

「程よく」さんは気分屋で性格が悪い。「程よく」さんは時と場所、出席者によって心変わりばかりする。「程よく」さんは型に嵌められるのを良しとはしない。その癖「程よく」さんはポリティカリーコレクトな発言を要請してくる。ただ、所変われば、昭和価値観全力で突撃された方が大喜びであったり、むしろ言葉なんていらない、勢いよく衣服をはぎ取って裸踊りを始めるほうが、「程よく」さんにピッタリその日の気分なんて事すらある。なんて気難しいのだ「程よく」さんは。あまりの気分屋さんぶりに心療内科での治療をお薦めしたくなる。

そう、披露宴の場で親族、会社関係者、友人達等が集い形成されるその場限りの「社会規範」の共通見解を踏まえないと「程よく」さんの逆鱗にふれ、親族や関係者は置いておいても、依頼人本人達にすら怒られるリスクがある。例えば震災直後の式で挨拶を頼まれ、震災をネタにした挨拶でもしようと思っていたのだが(無論被災者を腐すようなことを言うつもりはなかったのだが、あの震災があったことでで絆が深まりましたね云々という話をしようとしたと記憶している)披露宴の当日、主役の親族が被災地出身という事がわかり何も言えなくなって大失敗したという事もあった。とはいえ、全員にアレを言っても良いですかダメですかねなどと「程よく」の当日の機嫌を事前に確認するのも現実的ではない上そもそも興ざめ。そこで、依頼者にも出席者の属性、割合を確認しつつ、依頼者との普段会話で得た関係者の傾向を想定し、怒られるポイントを想像しつつ、内容を考えていかなければいけない。

更に良くない知らせが待っている。僕は既にだいぶ良い年になってしまった。若者のように多少やらかしてしまっても「若いから仕方がないなぁ」という逃げ道は塞がれてしまっている。本人達は僕に依頼をした時点である程度の覚悟は決めているはずだが、ハレの日である披露宴であるのだから、列席者の全員が腹を抱えて笑うまで行かなくても、親族の方々や、会社の関係者が不快にはならない程度の絶妙な匙加減の「無茶苦茶」を目指さなければいけない。さもなければ本人達の社会的評判に(軽微であるにせよ)影響が出てしまう。

乾杯の挨拶の構成要素を確認する

まず基本に立ち返り、Google先生に「結婚式 乾杯 挨拶」と聞いてみて、例文を含めてさっと目を通してみる。いろいろとサイトを当たってみるがそれほどイレギュラーな構成要素はない。

①枕詞「僭越ながらどうのこうの」

②自己紹介「新郎の子供時代に居候をしていた僕ドラえもん」

③本人とのエピソード「のび太君は泣き虫で、しずちゃんの風呂ばかり覗いたり、すぐ僕の道具に頼っていたけど、まっすぐな心をもったまま立派な大人になって」

④祝辞「もう僕の道具には頼らないでも大丈夫だよね、のび太君。今日から君たち二人が夫婦として夢をかなえていくんだ。本当におめでとう」

⑤乾杯の発声「ご唱和ください。のび太君、じゃいこさんの門出を祝して乾杯!」

時間の制限。1~2分程度にすませるべき。これは良くわかる。乾杯に至るまでにだらだらと挨拶をされても「おっさんの話、早く終わんねぇかな、酒飲みたいんだけど」となるのがオチだ。

言葉の制限。重ね言葉や死を連想させる言葉、切る、別れる等の別離を連想させる言葉これも話してはいけない。だんだんと制限事項が増えてきたぞ。そう、こういうのがあるから基礎に立ち返らないといけないのだ。間違っても「馬鹿と鋏は使いようですから」などと言ってはいけない。

内容の制限。過去の恋愛遍歴や暴露話は避けるべき。(ドラえもんは決してのび太がしずちゃんの風呂ばかり覗いていた話は暴露していはいけない。)それはそうだ。そもそも新郎新婦のエピソードで笑いを取りたいがためそのような地雷原に踏み込むべきではない。また、会社や大学の所属組織における内輪ネタに走りたくなる情動が働くのが自然といえば自然だがこれも避けなければ言えない。今回でいえば大学同窓の関係者が多いのでその辺りをいじれば一定の出席者には受けるだろうが、会社関係者やその他の属性の友人達からすればややもすれば白けてしまう内容となってしまうのでこれも避けなければいけない。他にも政治・宗教・社会問題のセンシティブな話題突っ込みすぎるのは危険だ。僕が好きな話題だから苦しいが致し方ない。最後に自分の話、これが一番どうでもいい。主役はあくまで二人だからだ。

ここまで踏まえて、Web上で参考とされる例文を見てみよう。これがどこのサイトの例文を見ても判を押したかの如くつまらない。乾杯のスピーチのやり方~いかがでしたでしょうか?というレベルの浅薄さに満ち溢れている(だが穏当ではある)程度の内容でこれは僕が求めている何かでは決してない。

新郎・新婦とのエピソードはどうだろう

今回の依頼は新郎単独ではなく、新郎・新婦両名の友人としての乾杯の挨拶。これもまた難題だ。二人それぞれとのエピソードは色々挙げられる上、それなりのネタもあるのだが、両名共通でのエピソードについてこれといったぱっとした話が思い浮かばない。凡そ二人と会うときはこちらから思い付きで連絡し(しかもほぼ当日だ)、一緒にお酒を飲んでくれるというパターンが殆どなのであえて挙げるとこうだ。

「新年早々二人の住む家に僕は押し掛け、持参した焼酎で酔っ払った挙句、年末からの飲み疲れか眠りこけてしまい、朝目が覚めると僕に布団がかけてくれた上、”朝ごはんはこれを食べてください”と書置きが残してありあり二人の優しさに心が沁みました。」

これでは二人の優しさアピールというより、僕が困った先輩であるアピールになってしまっている。これではいけない。内容の制限における禁忌に抵触してしまう。

まったく。どうも二人とのエピソードの線で内容を攻めるのは厳しそうだ。

名言を引用したらどうだろう

そうだ、人類の遺産たる過去の偉大なる作品群に言葉を求めても良いだろう。名言、格言を引用しつつ何か気の利いた事でも言う。悪くない発想。まるで教養のある大人みたいではないか?また、Google先生に質問をしてみる。残念ながらどうも好みの名言や格言は転がっていない。PV稼ぎのまとめ系サイトの粗製乱造記事によって検索結果の汚染が進んだ2019年にインターネットで何か意義のあるもの探すのは実はそう簡単な話ではないのだ。

さてどうするか。これは原典に当たる必要がありそうだ。

引用先としてすぐに思い浮かんだのは聖書だ。教会の結婚式でいつも偽牧師や牧師が引用する新約聖書、コリントの信徒への手紙。愛は耐え忍んだり、嫉まなかったり、自慢しなかったりするアレ(コリントの信徒への手紙13章)。我ながら安易ではあるが、これだけ牧師が触れるのであれば他にも引用するにふさわしい名言でも書いてあるだろうと本棚に転がっている聖書を取り出し、コリントの信徒への手紙周辺で結婚について語っている箇所はないのかと探してみる。あった。コリントの信徒への手紙7章のタイトルが「結婚」とまさにそのものだ。見てみよう。

男は女に触れないほうがよい。しかしみだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。~『聖書 新共同訳』(新)pp306: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation(c) 日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988~
わたしとしては、みながわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。 ~同上(新)pp307~

「性欲を持てあましてはぁはぁするなら結婚したほうがまだまし。でも本当はみんな独身貫いて欲しいんだよな~パウロより~」章全体を通しても、カテゴリー分けをしてやもめやら、信徒、非信徒との区別わけたりしつつもこれしかいっていない。あとは触れているのは「離婚するな」程度。

ごめん、申し訳ないがパウロ。これはいただけない。全然披露宴のスピーチに向いていない。当時のコリントの信徒への手紙はそれでよかったかもしれないけれど、現在日本の披露宴でこの話は無しだ。神父達がなぜ結婚の章ではなく、愛の章を引用する理由がよく分かった。

小説はどうだろうか。僕がこよなく愛するフランスの作家ミシェル・ウェルベックに当たってみよう。彼の作品は凡そ既存の西洋社会の衰退と宗教や旧来の社会的な秩序の崩壊とが描かれていて、作家選びの時点で間違っている気がするがものは試しだ。手元にあった彼の1994年発表の処女作『闘争領域の拡大』を久しぶりに読んでみる。恋愛の自由化により性の領域まで闘争領域が拡大し、経済と同様持てる者はより性的に充実し、持たざるものはいつまでも性的な機会を失う。30歳になる主人公の男はIT関連企業に勤め、過去に女性遍歴もあり競争の敗者となる事を強いられているわけでは無いのだが少しずつ歯車が狂っていくというお話で、ここには結婚や愛なるものへの憧憬や、含蓄のある名言は皆無だ。この作品で唯一、夫婦と愛について触れている箇所を見てみよう。

マルトとマルタンは結婚四十三年。結婚したのが二十一歳の時だから、彼らは六十四だ。彼らは自分たちに適用される社会制度に従ってすでに引退生活にある。俗にいう、共に人生をおえようとしている状態だ。こうした条件かなら確実に「夫婦」は実体がある。そして細かい点についていえば、実体の重要さという面において、老齢のゴリラと同レベル、あるいは追い抜くレベルにさえ到達する。僕が思う「愛」という言葉が意味を持ちうるとしたらこの枠組みでしかない。 ~ミシェル・ウェルベック著、中村佳子訳(2004)『闘争領域の拡大』pp105~

これはいけない。社会的な制度の枠で夫婦を死期の近いまでやりきって初めて「愛」が意味を持ち得ると。新郎新婦に伝える言葉では間違いなく無い。

漫画ではどうだろうか。結婚に絡んだ印象に残る漫画として思い返したが富樫大先生の『レベルE』3巻、馬鹿王子と許嫁の王女様のだましあいの結婚の話くらいしか思い浮かばない。(レベルEは最高の漫画だ)、がこれも披露宴スピーチ向けに使う題材ではないだろう。

どうやら僕の底の浅い教養水準では、限られた時間内で適切な愛や結婚についての引用を見つけるのは厳しそうだ。

結婚観に触れるのはどうだろう

年長者として僕個人の結婚観を話してみるのはどうだろう。

「惚れた腫れたなんていうのは3年で終わります。その上、所詮お互い他人同士なのだか思っていたのとは違うなんていう事は当たり前のように起きます。話が違う。こんなはずじゃなかった。そういった事はざらでしょう。本当に自由でありたいのであれば結婚なんてしないほうが良いとすら思います。更に二人の範疇を超えた要素も影響してきます。手始めに親族です。実家と絶縁するのであればいざしらず、それぞれの違う家族は信仰が異なる部族のようなもので、当然のように理解に苦しむ事象が発生してきますし、それを簡単には避けて通れないものなのです。その他にも所属する会社の状況、友人関係や社会環境等々二人だけではコントロールできない要素から、あれやこれやの軋轢が生じ、困難に出会う事でしょう。これらの不自由や困難として向き合い、パートナーとして乗り越え、人生の苦楽を共にする、なかなか苦しいですが、一人で味わえる幸せよりも大きな幸せを得ることもできると信じています。幸せは結婚したからと言って与えられるものではなくお互いの不断の努力と赦しで創り上げてしていくもの。僕はそう考えています。頑張ってください。応援します。」

これが嘘偽りない素直な結婚に対する考え方なのだが披露宴の乾杯の挨拶で話す話では全くない。こんな話は「結婚しようかどうしようか」と悩んでいる状態で相談を受けた時に話す話だし、そもそもこんなに重い捉えた方をせず、よく考えないままでも人は結婚できるし、困難を超え幸せになる事だってできるだろう(考えていたとしても不幸せになる事だってある)。

どうやら結婚観に触れるのも全く話にならないようだ。

下書きを書き終え第三者に見てもらう

ああでもない、こうでもないと試行錯誤をして、なんとか下書きを書き終えた。音読をして微調整を図ったもののここは良識のある第三者に(そして当日結婚式に出ない)一度内容を見てもらうと中身を確認してもらった。

「どうよ、この内容、なんか悪い感じする?」

「あの箇所全く好きではないけど、不愉快まではいかない程度。君の友達達の結婚式だったらいいんじゃない?そういう内容を期待されているんだろうし。私の友達向けだったらだったらそもそも君には頼まない」

「ならよし」

ならよしなのだ。

万人受けなんてする内容などはそもそも僕には喋れない。最終稿を仕上げて何度か音読して練習、移動もあり全く時間がないから、できることはここまで。やれることはやった。

結局、本番はどうなっちゃったの?

挨拶は無事終わった。ばっちしだ。という自己評価だがその実良くわからなかった。知り合い達を除いて親族の方々と話をしたわけでも属性の大幅に異なる出席者と交流したわけでもないからなんとも言えない。出席者の半数近くが知り合いというホーム戦のようなところでの試合での盛り上がりは差し引いて考えなければいけない。

それでも、だ。僕がスピーチをしている際の写真を見たら新郎・新婦の二人がしっかりと爆笑していて、とても救われた気分になった。少なくとも主役の二人が笑っていればそれでいい。ミッションコンプリート。

結局何を喋ったのかは詳らかには出来ないのだけれど少なくとも上に書いた制限事項のギリギリの所を狙って形に出来たとは言える。

最後にこの年になるまで何物にもなれなかった僕を「ベストフレンド」として乾杯の挨拶を任せてくれた二人への感謝と、これからの二人の人生が幸多く、豊かであらん事を祈って。



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