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「なぜ」がないものが嫌いで、「なぜ」がないものが好き

今日はエア社員の長尾さんの出社日だった。

いつもの通り、ここ最近のできごとをおしゃべりしてた中で、

「つっつんは本当に「なぜ」がないものが嫌いだね」

と言われた。

ほほう。
ここ最近の、モヤモヤするタスク、どうしていいかわからなくて進まない仕事の正体は、そこに自分なりの、もしくはその人なりの理由が見えないからだったか。

何かにつけて、意図が知りたい、どうしてそうなってるのか理由が知りたい、って。
軽く流せばうまくいくものも多分にあるのに、ちょっと待ってくださいここはどういう意図ですか、って本当に面倒くさい性格だな。(理由がなくてもひとまずやってみる、やりとげるということも大事にしたいと最近すごく思っているけど…)

その裏に、「意志」があるもの

じゃあ、理由がわからないものは全て大嫌いかというと、そうではないなぁとも思って。

何かというと、「なぜ」のかわりに、その人の「好き」があるもの、ワクワクする気持ち、こうしたいという「意志」があるもの。
これって本当に、希少で尊いと思うんだ。

なぜやるべきかということはうまく言えないけど、どうしてもこうやりたいんだ、これをすることが好きなんだ、という気持ちは、とってもすばらしくて、すばらしくて、大好き。
(私自身があんまりそういう気持ちを持ってないからなのかもしれないな、それに対する憧れの気持ちというか。)

仕事の中で、私が、もしやるなと言われても勝手に絶対やってしまうことがひとつだけあるとすれば、「好き」によって突き動かされて努力している人を応援すること、労うこと。

それは、会社の中に限らずで、例えば
喫茶店で、どうしてもチャレンジしたい仕事のためにエントリーシートを一生懸命書いている見ず知らずの女の子に、いきなり声をかけてアドバイスしたり。
家の近くのスタバのスタッフさんたちが本当にお店が好きそうで、いきいきと働いていることを労いたくて、スタバの人事担当者に何度もメール送ったり。

高橋晋平さんも、承認されることがエネルギーになるって仰ってるし。

そこに理由も意志も見えないものは避けてしまうけど(わからないから保留、はあり。怠惰によるノー理由、ノー意志が苦手)、理由はなくても好きな気持ちだけはあるんだ!というのは最高だな。

好きはその人だけのもの、だから希少

論理的な理由というのは、他の誰でもが理解ができちゃって、共有可能なものだけど、好きだという気持ちは本質的には理解も共有もできないから、その人だけのものだもんね。

今いるクラシコムという会社は、周囲の人たちが、「好き」や「意志」によって動かされて働いているように見えるから、好物がゴロゴロ転がっているということなんだなぁ。

さ、そろそろ寝よう。


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