国道16号線と音の無い街。

たのしいさんぽのよみもの「サンポー」の企画で、「国道16号線を全部歩く散歩」というのをやっている。

その名の通り、国道16号線をただひたすら歩きながらそこで見たもの聞いたもの、考えたことをつづるという企画である。

だいたい月一のペースで歩いているが、それに今日行ってきた。詳しくはサンポーの記事にて書こうと思っているので興味がある人はそちらを読んでもらえればと思うが、その前に二三書き留めておきたいことだけ、ほとんどメモのようにここに書き留めておく。

今回のコースは京王片倉駅から拝島駅。約11キロのコースだ。途中には八王子の市街地あり、多摩川ありとわりと起伏に富んだコースであったが、特に興味深かったのは、拝島駅周辺の道路に、半ば脅迫的に立てられた防音壁である。
それは透明な、ガラスで出来た壁であり、それを挟むと国道を通る車の音がほとんど聞こえなくなるというかなりの優れものであった。
向こうでは確かに車が走っているのに、その音はほとんど聞こえない。ボリューム0で車の映像を見ているかのような、そんな感覚になる。

この防音壁は、国道沿いに住む住民からの申し立てで、立つことが決まったのかもしれない。確かに日夜トラックや乗用車の音が鳴り止まない国道ぞいにおいて、これは必須のアイテムかもしれない。

ただ、この防音壁の裏側を歩いていて感じるこの静寂さは、決してここだけで感じたのではない。いや、16号沿いすべてに防音壁があるわけでは決して無いのだが、16号沿いという場所そのものがある種の静寂に包まれているのだ。

これは、国道16号線散歩を始めた当初から感じていたことだったが、車のための信号が赤のとき、つまり全ての車が停止を余儀なくされているときの国道の静けさといったら、ない。

この世にこんな静寂があるのか、と思うくらいにそこには音がなく、あるいは、自分の耳が聴こえなくなってしまったのかと思うほどの静けさがそこには広がる。

街には普通、その街独特のサウンドスケープ、つまり、音風景ともいえるような音が存在する。商店街の雑踏や、売り子の声、あるいは電子広告から流れる音楽や、外に漏れでる店のBGM。
それら様々な音が集積してその街独特のサウンドスケープが出来上がる。

しかし、国道16号にはそうしたサウンドスケープがほとんど無いように感じる。むろん、行き交う車の音がそうなのかもしれない。ただ、延々と流れ続ける車の音もまた、変化が無いという点では結局は沈黙と変わらないような気もする。ある程度の騒音が流れ続けると、人はそれを沈黙として聞き取るようだが、それと同じである。

もちろん、16号線沿いにもサウンドスケープが、あるところはあるはずだ。完全な沈黙なぞ、存在しないのだからよく耳をそばだてれば、なにかは聞こえてくるはずだ。
しかし、拝島の防音壁はそうした音の可能性を、最初から遮断している。言うまでもなくそれは周辺住民の生活要求に適合した政策だろう。

国道16号線沿いには、現代日本人の平均的な暮らしが見えるという。だとすれば、拝島で見た防音壁、それから国道16号線を貫く無音の風景は一体現代日本人の何を表しているのだろう。

そうしたことを考えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?