迷路と演劇:『機関精神史』創刊号感想

これは『機関精神史』創刊号「特集*精神史の覚醒」の感想です。以前Twitterでtweetしたものを元にしています。

あれは何歳の頃だったか、住んでいたところから幾らか歩くと辿り着いた図書館には、迷路の絵本が置いてあり、それは幼年期の私のさいわいの思い出と何らか強い結びつきがありました。私は、いまのところ、『機関精神史』創刊号の迷宮が何処に由来する図版なのか、わかっていません(クノッソスの迷宮かとも思ったのですが。私の知るそれは、二つの袋小路からなるものではなく、折り畳まれた一つの袋小路であったはずなので。いまだ私の読んでいないグスタフ・ルネ・ホッケを手にするときなのでしょうか?)。ともあれ迷宮の図版が掲載されたこの雑誌の表紙は私のさいわいの、よすがとなります。その手触りも、何かを思い出します。同じく幼年期に、夢中で眺めていた、レンチキュラー印刷の施された大きなバッジの感触に、似ていたのかもしれません。

後藤護「序文 地上に火を放て――失われた「天空学」と「洞窟学」の発見」は、紙面の堅実な紹介でありつつ刺激的な檄文でした。天空と洞窟の語に私はドゥルーズ『差異と反復』と『意味の論理学』を読んだ記憶を重ねます。もちろん、ここでは、バシュラールとG・R・ホッケの書物が、そして「天空を宰領した稲垣足穂への愛を隠さず、そこに持ち前のアンダーグラウンドな思想と文体を結び付けた郡淳一郎」の書物が(「郡氏との「出会いのアルケミア」が本誌始まりの決定的瞬間かもしれない」と付言されつつ)、「彼らのアナーキーな精神の運動にこそ「批評」という名を与えたい」と言挙げされているのですが。思えば、人と人の出会い、人を介したテクストの流通ほど、ひとが通例では意味と呼ぶものを欠いた、それでいて必然な(というか、現にそうあるような)連関は、ないのかもしれないと思わされました。

高山宏インタビュー(聞き手・構成:後藤護、撮影:山田宗史)「精神史としてのマニエリスム――アイ・ウォーク・ザ(サーペンタイン)・ライン」は、walk the lineという成句にserpentineの加わった副題を体現するような、味わい深い内容でした。私が印象深く思ったのは、邦訳では『風景の誕生』や『生命の汁』などがあるイタリアの歴史家P.カンポレージの『La terra e la luna』(英訳は『The Magic Harvest: Food, Folkore and Society』)と、イタリア文学研究者Gian-Paolo Biasinの『I sapori della modernità. Cibo e romanzo』(英訳は『The Flavors of Modernity. Food and the Novel』)に言及している箇所(30頁)でした。私はアガンベンを読んでいて、そのスタイルに惹かれることが、たびたびあったのですが、ここで紹介されている議論にも、何か、同じような気風を感じたのでした。また、22頁にあった、「monadoさん」への言及に、あっ、となりました。というのも私は、ブログ『モナドの方へ』の読者の一人だったからです(「マシーン・セリバテール」を初めて視聴した日が思い出されます)。

山田宗史「精神違い――きだみのると錯乱するヒューマニズム」は、私にとって忘れがたい論考になりました。「最終的には、「何にも見ていなかった」」きだみのるという像は私には痛切で、また、きだと林達夫、渡辺一夫たちが形を違えつつ人間として肯定される術として「ヒューマニズム」が語り直されんとするさまに、感じ入ってしまうところがありました。「アウエルバッハ的な人文主義においても認識する主体と対象とは分化されずに相互に陥入しているが、ユクスキュルの〈環世界〉論を参照したグラッシのヒューマニズムでは、人間に認識される世界の【そのたびごとの形成:原文傍点】のモメントが強調されている」(56頁)といった記述を目にして、ちょっと飛躍しているかもしれませんが、いわゆる「人類学の存在論的転回」を踏まえつつ人文主義を捉えなおすと、このような論考として結実するのではないかと思わされました。さながら、自分しか覗けない箱の中にいるカブトムシのように(?)、あるいは、それとは異なって(?)、――「その精神は差し出すこともできなければ、分け与えることすらできない。けれども、指差し、示しあうことはできるはずだ。「ここだよ、ここに来ている」といったように」(57頁)。わたしは、解釈という出来事や解釈の動作主なるものに、関心があるので、そういう点で触発を受けた論考でした。

吉田隼人「演技する精神――道化としての林達夫の肖像」には、こんな筆の運び方があるのかと瞠目しました。実は『機関精神史』以前から、歌集『忘却のための試論 Un essai pour l'oubli』などを読ませていただいており(長岡建蔵画の同書の表紙は本当に鮮烈でした)、「小倫理学」には思うところが色々ありました(とても、考えさせられました。月並みな言い方、何卒ご寛恕下さい)。とりわけ、「仮面と皮膚との区別がつかなくなってしまう「演戯」を危ぶみつつ、そのことば自体が仮面をつけて発される「演戯」でなければならなかったというこの劇中劇めいた構造に、反語家にして道化師であった林達夫の抱きつづけた孤独が色濃くにじんでいる」(63頁)という「二「反語的精神」または演戯者のひそかな愉悦」が、重みをもって自分に迫ってくる文章に感じられました。手元にないためうろ覚えの言葉になってしまいますが、確か、スピノザ『エチカ』に、賢者は、外面上は嘆き悲しんでいる人と全く変わらない振る舞いをしていても、よろこびしか感じないでいる(はずだ)、というような、おそるべき記述があったはずなのですが(記憶違いでないことを願います)、全体に、そのことを思い出しつつ、サルトル、ジュネ、(ジャン・ルーセの指摘したロトルーの戯曲に出てくる)ジネシウス、林達夫、小場瀬卓三、福田恒存、花田清輝、ディドロ、ドン・ホセ、カルメン、……目まぐるしく紙上に登場する人物たちとそれらをめぐる言葉に、身がさらされました。

尾形弘紀「近代日本の〈歴史劇場〉――山口昌男『「挫折」の昭和史』を読む」の記述の密なことには圧されました。固有名詞の氾濫の中で史実と私信がもつれ合うようにしてテクストが紡がれるという「“熊楠的”話法とも評すべき」(71頁)山口昌男のスタイル(ひょっとするとそれは、「文人的」(72頁)なスタイル、と形容できるかもしれないとも思います)が、ここでは取り上げられており、それが「日常へと不意に偶然性を侵入させる」(75頁)山口昌男いわくの「道化」の身振りであるとして(『「挫折」の昭和史』の記述を範例として取り上げつつ)論じられていきます。それだけでなく、『「挫折」の昭和史』に見出されるという「現実と演劇の混同」(80頁)が論じられ、それは寺山修司とフーコーのあいだでなされた、歴史を演劇と譬えることの是非の議論と結び付けられていくのですが、ここで思ったのは、ここで語られる「世界劇場ならぬ〈歴史劇場〉?」(83頁)とは、いわば無人の映画館で放映される映画のようなもので、それは蓮實重彦『ゴダール・マネ・フーコー』や『随想』のような著作のスタイルにも通ずるところがあるのではないか、といったことでした。「一歩踏み出してほらその世界に加わってごらん、と絶えずこちらを誘惑」(83頁)するという、「演劇的な身振り」の「感染力(同)。――『「挫折」の昭和史』の魅力がそのようなものであるとすれば、それは、私においては、このように接続されるものなのでした。

ランシブル「精神の剥製師」からは種々教示を受けた気持ちになりました。様々な芸術家への言及、ありがたく思います。チャールズ・ウォータートン、ウォルター・ポッターなどの作品の図版、とても心惹かれるものでした。他方で、動物の剥製の写真が、死体写真でもあるということを、あらためて意識させられました。また、歯切れのよい文章、エッジのある断章(冒頭から、「新鮮な死骸」との小題、「新鮮な死骸でなければむろん面白くない」という、あるカメラマンの著作からの引用で始まるのは、清新な衝撃でした)からなる文体が、魅力的でした。自分なりに連想したのは、時代は下りますが、オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』でした。あのイメージも、ここで切り出され紙面に並べられていた、剥製的なものの、いわば継嗣なのだろうか、などと思いを馳せました。「剥製の欲望は、生と死の境界を侵犯し、うつろう時間の流れを逆撫でし、死者に生命を灯そうとする憧憬であった。その欲望は記録や歴史というかたちをとることも、果ては獣に人間のすがたかたちをまとわせ、人間と動物の関係に戸惑いをはさみこむこともあった。剥製の曖昧な存在様式は、今、再び、バイオ・アートや人新世といった人間の生命への反省の中で脚光を浴びている」(93頁)という言には、パッチワークとしてのゾンビやサイボーグやキメラというものに思いをはせる身として、啓発されるところが大きかったです。

澤直哉+八木君人の翻訳、ミハイル・ヤンボリスキイ「空間的歴史――歴史に関する三つのテクスト」は、全八章の著作からの抄訳ながら、大変パワフルで興味深く、ありがたい翻訳でした。「グロテスクを新プラトン主義的な象形文字として無理やりに解釈することは、近世ヨーロッパの紋章学の形成において本質的な役割を果たした」(102頁)といった議論は、なんというか、えげつない記述だなと感じました。ゴシック芸術の怪物が体現するような、自然の独異性[シンギュラリティ](!)を肯定する、というヤンボリスキイの議論には、胸を湧きたたせられるところがありました。バフチンとプンピャンスキイを扱っているという第三章含め、ぜひ、完訳を読んでみたいと思う文章でした(ほんとうは、そこまで読みたいなら、私がロシア語を勉強すべきところかもしれませんが。いつか御訳出いただければさいわいです)。

いかにもな譬えかもしれませんが、『機関精神史』の論考、翻訳などいずれも、無数の固有名詞が、ひとつまたは複数の手で、結びあわされており、記憶と記録の絡み合う、一種の迷宮であったかのように感じられました。また、全体を通して、劇というもの、演ずること、そのかたちが論じられる、という気風に満ちていたように感じられました。

また、ブックガイドである「書物漫遊記――精神史の森の中へ」もありがたく、どれも勉強になりましたが、歴史形態学、人的交流史、人文学などが特に気になりました。あれこれと自分なりに読んでいこうと思いました。そしてまた、高山栄子の詩「自分を愛する」と編集後記も忘れがたく、まさしく「消えかけた記憶の道を辿る精神」の軌跡、その、かそけき線の感触が随所にあったことを思い出し、なんだか、しみじみとした心持になりました。

編集後記には、「次では「精神史」を相対化する試みとして「観念史」の特集を考えている」とありました。次号も楽しみに待っています。

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