著者と読む『ニック・ランドと新反動主義』読書会

 闇の自己啓発会は、8月4日に都内某所で木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』読書会を行いました。
 トーマス・ラッポルト『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』と二本立ての予定でしたが、気がつけば、木澤さんの新書の内容で話がほぼ持ちきりに…。

 今回は役所さんがおやすみだったのですが、編集者の不在もあってか話は暴走状態に。話の配分が前回以上にバランスのくるった分量になりましたが、ともかく読書会の模様をお伝えしていきます。

【注意】本記事では新海誠監督のアニメ映画『天気の子』(2019年7月)の内容、結末をとりあげています。

※これまでの活動については、こちらをご覧ください![第2回は編集中]
第1回記事「品川の中心で不平等を語る 『不平等との闘い ルソーからピケティまで』読書会記録」(『ひでシスのめもちょ』2019年1月29日)

http://hidesys.hatenablog.com/entry/2019/01/29/132231

第3回記事「著者と語る『ダークウェブ・アンダーグラウンド』読書会」(『ひでシスのめもちょ』2019年4月08日)

http://hidesys.hatenablog.com/entry/2019/04/08/001537

第4回記事「ゼロ年代から加速して 海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』読書会」

https://note.mu/imuziagane/n/ne2008f83b1a4 


■参加者

ひでシス:IT × 家族制度の破壊で大儲けしようとしているサーバサイドエンジニア
木澤佐登志:『ニック・ランドと新反動主義』の印税で大儲けしようとしてる著者
江永泉:宝くじの当選で大儲けできたらいいなと思った消費者


真夏日で暑かったので、お茶をたくさん飲みながら読書会をしました。

■『天気の子』雑感

【木澤】『天気の子』を観ましたけど良かったです。立川シネマシティの極音上映で二回観て、パンフも買ったし小説版も読みました。パンフレットには新海監督が今作に込めたオブセッションが端的に表明されているので少し引用してみます【以下、作品内容についての言及あり】。
「今回の作品の柱としていちばん根本にあったのは、この世界自体が狂ってきたという気分そのものでした」
 最初の一文の時点で素晴らしいですね。さらにこう続きます。
「世界情勢においても、環境問題においても、世の中の変化が加速していて、体感としてはどうもおかしな方向に変わっていっている。そう感じている方はすくなくないような気がします。ただ、それを止めなかったのも僕たちです。今の世界は僕たち自身が選択したものでもあります」
さらに、エアコン等の二酸化炭素排出問題などを挙げながら、そうやって世界の形を選択し変えつづけてきた大人には世界の有り様に何らかの責任を負っているけど、若い人たちにとって、今の世界は選択の余地すらなかったと。生まれたときから世界はこの形で、選択のしようもなくこの世界で生きていくしかない。
「やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。別の言い方をすれば、調和を取り戻す物語はやめようと思ったんです」
 本当に素晴らしいですね。おそらく新海監督は『君の名は。』でいろんな批判を受けて狂っちゃったんでしょうね。小説版『天気の子』のあとがきでも、「老若男女が足を運ぶ夏休み映画にふさわしい品位などはもう一切考えなかった」と完全に開き直ってみせてます。実際、本作のエピローグを見てみても、明らかに何か吹っ切れたような、一種の清々しさ(=尊さ)を感じました。
 一方で、パンフレットで環境問題に触れ、劇中でも「人新世」というタームを終盤でチラ見せさせたりしているのにも関わらず、奇妙なことに劇中では環境問題やエコロジーについての直接的な言及は皆無なんですよね。そのギャップがちょっと驚きでした。そもそも「人新世」というのは、大気化学学者のパウル・クルッツェンが言い出したタームで、1万8千年続いた完新世という安定の時代が終わり、人口とエネルギー使用の増加、工業化が加速度的に進んだ20世紀半ばの「グレート・アクセラレーション」を経た、人間の活動が地球環境に不可逆的な影響を与える現代という時代を言い表すために「人新世」というタームを提唱したんです。ところが、『天気の子』では「人新世」は完全にアミニズム化されてるんです。というのも、天気は結局のところ「神」の気まぐれで、(巫女以外の)人間が介入できるものではない、ということになってるから。だから、劇中では世界が狂ってる原因=責任が奇妙にも宙吊りにされて、「神」という超越的な存在に投げ返されてしまってるように見えるんです。一方で、天気の巫女の役割は「もともと狂っていた天気」をコントロールするというもので、代々彼女たちが人柱となることで世界の調和が現在までなんとか保たれてきたと。ここで「責任」の位相が若干ズレているのがわかりますか。大人たちは後の世代に責任を押し付けて現実を見ないようにしてきた、という「責任の引き受け」のテーマがここで出てくる。終盤に「世界はもともと狂っていた」という台詞が出てきますが、正しく「人新世」的に言うなら「世界を狂わせたのは人類の活動のせい」なので、これは「人新世」が唱える学説とは真逆です。このあたり、新海監督が「人新世」を意図的に誤読してるのか、気になるところですが、環境問題にあまり言及すると下手に政治臭が出たりシリアスになってしまうのでエンタメ的な文法で昇華しようとしたという推測も立てられそうです。
 それと、『天気の子』ではどうも天気が祖先霊と結びついてるみたいなんですよね。序盤にヒロインが屋上の神社の鳥居をくぐるときも、足元に盆踊りの精霊馬が二体祀ってあるんです。実は『天気の子』は「お盆映画」だということがここで判明するわけですが、びっくりするのは祖霊が雲の上にいるというビジョン。日本の祖霊は西洋のように天国といった超越的な世界に行くのでもなく、また仏教のように輪廻転生するのでもなく、この地上に留まり続けるのだ、という祖霊信仰の存在を指摘したのは柳田国男ですが、『天気の子』では中盤における線香の立ち昇る煙のイメージにも仮託されているように、死者は天の上に昇っていくという、しかしそこは天国ではなくあくまでこの世における雲の上である、という独特の死生=世界観が描かれている。
【江永】その辺りの霊魂表象の系譜を掘り下げてみたくなりますね。それこそ、記紀にはヤマトタケルが客死してから魂が白鳥と化して翔んでいく場面があるし、万葉集の水江浦嶋子を詠んだ長歌でも箱から出た白雲が飛び去ると浦嶋子が老けて萎びて死んでしまう姿が描かれているとか、幾つかの挽歌では煙とか霞の表現が見られるとか、宙を飛ぶ霊魂みたいな水準で捉えて、文献や図版を渉猟していけば、イメージの系列をつくりうると思います。
 盂蘭盆会においては、仏教伝来以前の祖霊信仰と仏教の教えに由来する内容が混淆しているらしくて、ちょっと判然としませんが、たしかに、祖霊は山とか海の彼方とかにいるとされていたはずで、空の上にいるという話は(少なくとも自分は)あまり聞き覚えがありません。空の上に(亡くなった名もなき市民たちの?)霊魂がたむろしているイメージって、むしろ、ここ半世紀くらいのオカルト、スピリチュアリズムの文化の影響を考えた方がいい気がしています。例えば、ジェームズ・ヴァン・プラグ『もう一度会えたら――最愛の人 天国からのメッセージ』の翻訳が1998年で、TV特番『江原啓之スペシャル 天国からの手紙』の放映が2004-2007年で計10回でした。現今の「天国」表象の幾つかには、スピリチュアルの文脈に由来する側面があるはずです。
 そういえば最近のスピリチュアル本で瞠目すべき本が紹介されていたのをみかけました。すみれ『かみさまは小学5年生』(サンマーク出版)っていう本です。どうも池田明の胎内記憶説と関係深い本らしくて、この胎内記憶説っていうのは、妊娠した人や新生児のケアをするための知識と輪廻転生思想の混合物みたいなんですけど(これは個人の提唱した珍説というわけではなく、たぶんオットー・ランクの出産外傷みたいな話からも由来する面がある)、この本、流産を経験した人を慰撫するために(?)、「あかちゃん自身が流産を経験したくて地球に来てることが多いよ」(すみれ『かみさまは小学5年生』)とか書いてあるんですよね。すごい転生言説。ある種のなろう系小説よりエキセントリックなノンフィクション(?)が読めるとは、と驚きました。これが30~40万部くらい、買われて読まれているとしたら、少なくともベネターの提唱したような意味での、快苦、利害に基づく倫理的態度としての反出生主義がどうこう、どころの話ではなくなってしまう気もします。
【木澤】新海誠とスピリチュアルって結構重要なテーマですよね。『天気の子』でも前作『君の名は。』でも作中にオカルト雑誌の『月刊ムー』が出てくる。これは監督の一種の開き直り、あるいは自意識過剰的な自虐ネタとしてかもしれませんが。
【ひで】日本にはちゃんとした宗教がないからサンマーク出版とかが伸びる余地があるんですよね。新海誠もちょっと頑張れば新興宗教を開くきっかけになるような映画を作れるんじゃないですか?
【木澤】『天気の法』……。

■責任、神新世、家父長制

【木澤】やはり、『天気の子』を観ていて気になってくるのは「責任」の引き受けの問題です。というのも、この世界においては、「責任の引き受け」とは、もともと狂っていた、ありのままのカオティックな世界の肯定と受け入れを意味し、方や「責任の放棄」は、そうしたありのままの世界を受け入れることができずに、巫女という人柱を立てることで負債を若い世代に繰り越していくことを意味する。選択肢はこのどちらかしかない。これは見ようによってはとても受動的かつ宿命論的です。まるで旧約聖書を読んでいるようです。『天気の子』に描かれているのは「人新世」というよりは「神新世」なのではないか、という気がしてきます。
【江永】90年代に出版された大槻ケンヂ『ステーシー』という小説を思い出します。作中では少女たちが突然死してゾンビになって復活するのですが、人間(作中世界ではもっぱら成人男性)には理由がわからない。話の通じない狂暴で有毒なステーシー(少女ゾンビ)を、人間は、電動鋸などで解体することしかできない。でも状況は物語の途中で激変します。そこでようやく説明が入るのですが、なぜこのような事態になったかというと作中の合衆国大統領いわく、「主軸による微調整期間」(主軸なるものは、いわば作中世界の、ソシャゲ的な意味での「運営」であり、おそらくは、地球運営ゲームをやっている、「神」です)のミスで起きたバグだった、で、修正は終わりましたんで、とにべもない。
 この問答無用なメンテナンス感は、異常(?)な気象を、擬人化された元号を象徴するキャラクターの操作ミスとして(職場での新入社員のミスのように)捉える創作文化とも通じあっているように映ります。ただやはり「運営」には「ミス」の責任があり、同時に、「ミス」からの復旧の権限、つまりは環境の回復可能性や制御可能性も想定されている(小説『ステーシー』は、老いて死滅していく旧人類ロストが、ペット化したステーシーとともに、旧人類から見ると奇形的な特徴を持ち単為生殖する新人類ハムエたちの主導する新たな社会秩序を悄然と受け入れるという、異様に和やかな宿命論的雰囲気で閉幕します)。
 『天気の子』が「天気」をモチーフに取り上げたのは、何か機運の高まりに乗っていることのように思えますし、のみならず、「天気」の独創的な捉え方がそこにあるように感じられます。通例の「人新世」って、環境問題を再び公害に引き戻すというか、うまく責任を負う主体が特定できなくなった環境破壊に対する人類の、責任と呼びたくなるような何かを、人類(の文明)全体の罪責性に帰する仕方で把握する議論とも捉えられる気がするのですが、そうは言っても気候変動の人間の責任って、どこからどこまでがどういう因果関係なのか錯綜していてよくわからないし、かといって、例えば隕石の衝突みたいな、不意に外から到来する事故というわけでもない。どうしたら気候変動に関する個々の責任を認め、与えてしまった被害をあがなうことができることになるのか、判然としない。「神」(匿名的な祖霊たち?)の恣意からなる「神新世」というのは、えげつない見方ですね。
【木澤】『天気の子』のラストで、「ぼくたちはここ(東京)に住み続ける」という形で責任の引き受けを示すんですけど、これが上海にExitしたり宇宙に脱出したりしていたら新反動主義になりそうだなと思いながら観てました。
【ひで】『最終兵器彼女』とかは、自分と彼女のやわらかい世界を守ることが重要であって世界はどうでもいい、って話でしたよね。
【木澤】あと、『天気の子』は意外と保守的というか、最終的に主人公含め主要登場人物のほとんどが警察に逮捕されてるんですよね、驚くべきことに。警察に逮捕されることで成熟するというか、大人になるためのイニシエーションとして警察に一回はシバかれておかないと、みたいな。イニシエーションとしての三年間の保護観察処分。『君の名は。』では発電所を爆破テロしておいてお咎めなしでしたからね。このあたりに、新海誠の「成熟」(?)を見る思いがします。
 それとさらに驚くべきこととしては、今回は珍しくヒロインが主人公より年下なんですよね。だけども、その事実はなんと終盤まで開示されない。今作でも年齢錯誤トリックが効果的に使われていて、クライマックス直前、パトカーの中でヒロインが自分より年下であったという事実を警察から伝えられる。「なんだよ、俺が一番年上じゃねえかよ…」。新海作品における年齢の非対称性は思いの外重要です。すなわち、この瞬間主人公の内側で「転回」が起こっている。主人公はこの瞬間「少年」から「青年」へと移行しているんですよ(エピローグで須賀が主人公を「少年」ではなく「青年」と呼びかけているという些細な事実は殊の外重要だと思っています)。いってみれば、家父長制(!)に目覚めかけている。で、「覚醒」した主人公は警察権力を振り切りラプンチェルの塔からお姫様をものすごい勢いで見事に救い出してみせて、(この間に3年間の保護観察処分が挟まりますが…)「僕たちはきっと大丈夫だ」って手を握りしめてやる。大人(青年)として。
【江永】全然大丈夫じゃなさそうな感じしかしませんが、大丈夫じゃなくても「大丈夫だ」って言うんですね。
【木澤】それが家父長制における責任の取り方なのかも…。
【江永】家父長制と責任、というと江頭淳『成熟と喪失』の「治者の文学」を連想しますが、カオティックな世界の肯定、とまとめるなら、この意味での「治者」と『天気の子』の主人公とを、比較してみたくもなります。『天気の子』を観に行きたくなりました。

■ニック・ランドと新反動主義 第1章

1 ピーター・ティール
ピーター・ティールとは誰か
ルネ・ジラールへの師事
学内紛争にコミットする
主権ある個人、そしてペイパル創業へ
ニーチェ主義とティール
暗号通貨とサイファーパンク
「イグジット」のプログラム
「ホラー」に抗う
啓蒙という欺瞞、そして9・11

■ミュータントの天使

【ひで】ピーター・ティールとニック・ランドの2人ってExitのしかた、自分が世の中でどう生きていくかというやり方が違いますよね。ピーター・ティールは意識高い系の慶応の学生のすごい版で、ニック・ランドは京大生っぽくないですか? phaっぽい
【木澤】ニック・ランドは一応元アカデミシャンですし、ピーター・ティールは実業家ですからね。そういう資質の違いが出てるんじゃないかな。
【江永】トランスヒューマニズムみたいなものの捉え方は違う印象があります。ピーター・ティールは「自分はふつうの人間を超えていくよ」、という感じ、ニックランドは「どこかから人間を超えたふつうでないやつが到来するよね」という感じ。その意味では、ニック・ランドには、「超人」になるのは自分でなくても無問題、みたいな割りきりを感じます。
【木澤】メシア到来願望というか、ベンヤミンっぽい感じがしますよね。
【江永】ベンヤミン「歴史の概念について」がで言及されているクレー『新しい天使』(1920)が連想されました。歴史の天使は進歩という嵐におし流されながら、顔は後ろを向いていて、あとに残されていく破壊の痕跡、残骸を見つめ続けている。
【木澤】ニック・ランドからすれば、歴史の天使はミュータントのような、『暗黒啓蒙』で言っていた「怪物」のようなものとしてあるのかもしれません。顔面が触手になった人間みたいな。
【ひで】手塚修の火の鳥で出てきた、不毛の土地で生きるためにクモや乳房だけにメタモルフォーゼした人間みたいな感じですかね

          『火の鳥 望郷編』手塚治虫
【江永】復讐心とか望郷の念を抜き取ったジャミラ(ウルトラマン)みたいな感じでしょうか。

       ウルトラマン「故郷は地球」昭和41年12月18日初放映
■アメリカなるもの

【江永】アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』(1987)への言及もありますが、ピーター・ティールも参加したというスタンフォード大学での学生運動には、たしかに、アメリカなるものは何か、という問題意識の高まりという文脈を感じさせられますね。
【ひで】アメリカなんかたかだか数百年お歴史しかないのに伝統主義もクソもあるのかと思いますけど、まぁ建国の経緯を考えるとアメリカらしさみたいなものはありますね。
【江永】雑に言えば「新大陸」を「発見」して「誰もいない土地を切り開いた」という神話を持つ国家ですから、いつからかその場になんとなく隣人がいて、国家という形に体裁を立て直した、みたいな感覚は薄そうですね。だから国家というものも、既成の権威や力関係の明文化ではなくて、契約から始まるコミュニティ、メンバーの皆でつくりあげたゲームの世界みたいに捉える傾向があるのかもしれません(例えば、ロールズの思考実験って、これから皆で参加するゲームの話をしているみたいに感じます)。もちろん、このあたりをまぜっかえす、デリダのアメリカ独立宣言論みたいな議論もありますが。
【ひで】大陸にもフランス革命とかありますけど、アメリカには大陸のような歴史の分厚さを感じさせる恨みみたいなものもない。
【江永】とはいえ、そう言えるのは「先住民」や「奴隷」とされたものたちへの略奪や搾取を度外視すれば、ということになりそうですが。ふと思いましたが、NOI(Nation Of Islam:ネーション・オブ・イスラーム)に所属していた時期のマルコムXは、「白人」からなる社会としてのアメリカ合衆国からのExitを提唱していたとも捉えられそうですね(その後、マルコムXはNOIを脱退するわけですが)。

■『指輪物語』の影響、ジェネレーションXという世代

【木澤】ピーター・ティールにおける『指輪物語』の影響って結構重要だと思ってて。ピーター・ティールが立ち上げたデータ解析会社パランティアの名前も『指輪物語』から取られてたり。それと、60年代〜70年代のコンピュータ史の本を読んでいると、けっこう『指輪物語』が出てくるんですよね。たとえば『パソコン創世第3の神話』という本には、SAIL(Stanford Artificial Intelligence Laboratory:スタンフォード人工知能研究所)の最初のプリンター用に作られた最初のアルファベット文字は、『指輪物語』に出てくる人工言語Elvish languages、いわゆるエルフ語だったというエピソードや、SAILでは各オフィスに『指輪物語』の地下世界の名前が付けられ、これを示す詳細な地図を本部に提出したら却下された、などのエピソードが紹介されてます。60〜70年代の、のちにサイバースペースとそれに付随する思想やカルチャーを生み出すことになるシリコンバレーにおけるギーク・カルチャーを考えるとき、『指輪物語』の影響力と重要性は『スターウォーズ』のそれを凌ぐかもしれません。
 たとえば、ネットカルチャーに「アザーキン」(Otherkin)というのがあります。これは北米における中二病カルチャーと言っていいのかもしれませんが、要は自分をエルフやファンタジー上の生物と同一化する人たちによるムーブメントを指します。このカルチャーは思想的にも洗練されていて、95年にはUSENET上に「エルフ国宣言」という記念碑的ステイトメントが投稿されたりと、カウンターカルチャーやアイデンティティ・ポリティクスに接続するような可能性を秘めいていた。下記のリンクを参照してもらうと、なんとなく雰囲気が掴めると思いますが、このムーブメントの源流のひとつには当然トールキンの『指輪物語』が存在しているわけです。
https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52265154/
https://togetter.com/li/993548

【江永】(自称)異種族のアザーキンの方々って、自然権とかはどう捉えているのでしょう。自分たちの基本的エルフ権は認められているのか、といったことは気にするのでしょうか。
 日本だと80年代、いわゆる戦士症候群があったらしいですね。『ムー』といったオカルト系雑誌の読者投書欄などで「私は地球人類に転生した異世界の戦士で前世の仲間を探している」みたいな内容の投書が流行したらしい。それは一方では日渡早紀『ぼくの地球をまもって』や武内直子『美少女戦士セーラームーン』といった80年代~90年代の作品をを経てプリキュアみたいな作品群へと伸びていく系譜にあるのだろうし、他方では60年代の三島由紀夫『美しい星』や宇宙友好協会の「リンゴ送れ、C」事件へと遡ることのできる系譜にある出来事なのでしょう。
 アメリカだと、ウォルター・ベン・マイケルズ『シニフィアンのかたち』の第3章で、退行催眠で自分が只人ではない(超古代文明か宇宙人か何かと関わりがある)という信念を抱いてしまった方の著作がアイデンティティ政治の文脈で論じられていた気がします(うろ覚えですが)。
【木澤】ピーター・ティールとかそこら辺の人って世代的に言うとジェネレーションX(1965〜1980年)に生まれた世代なわけですね。上司とか親がヒッピーだったから、上の世代への反発からヒッピーを嫌い、代わりに『スターウォーズ』や『指輪物語』にコミットした世代、とさしあたりは言っておきましょう。日本だと、若干ズレるのですが、新人類やしらけ世代、それとオタク第一世代〜第三世代がジェネレーションXに一部含まれる。年はティールと10歳離れてしまいますけど、新人類にはたとえば浅田彰とかがいますね。オタク世代的には、ティールは67年生まれなので、もし彼が日本に生まれてたらファースト『ガンダム』(初回放送1979年)の洗練を浴びてハードコアなガノタに成長してた可能性も…。
 日本の80年代における『ムー』カルチャー的な戦士症候群が、アメリカのアザーキンのように「独立宣言」的なカウンターカルチャーへの意志を欠いていた、だが一方でそれがオウム真理教のような別のベクトルのカウンターカルチャーを胚胎していった、ということの意味については考えてみたいですね。
【ひで】ピーター・ティールの同年代っていうと、あとはオール阪神とか孫正義とか。孫正義と同じ歳っていうのはびっくりです。結構年行ってるんですね。
【江永】この『コードギアス』のルルーシュみたいな表紙の写真(トーマス・ラッポルト『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』赤坂桃子訳 飛鳥新社2018年)を見ると、もっと新進気鋭なのかと思いますよね。

■フランクフルト学派、軍産複合

【木澤】パランティアのCEOがハーバーマスの弟子で、フランクフルト学派の系譜がこんなところに継承されてるとは、という驚きがありましたね。ティール自身もルネ・ジラールの弟子だし、彼の周りには哲学畑が多い。
【江永】アレックス・カープの話ですね(『「反逆の起業家」の野望』87~90頁)。全然政治的な意見がティールと合わないって話も出ていましたね。ただ、ハーバーマスも、90年代末のコソボ紛争時にはNATOによる空爆を支持していましたから(他にはスーザン・ソンタグなども支持)、そこまで平和主義というわけでもない。ティールって軍事産業とは関わりがあるんですかね。
【木澤】パランティアは軍産複合感ありますし、最近だとOculusの創業者パーマー・ラッキーがティールと組んで、VRとAR技術を使ってメキシコの国境を監視するみたいなプロジェクトを立ち上げたりしてて。そもそもシリコンバレーって軍産複合の聖地で、そっからインターネットが出てきましたし。だからそういう意味では今回のOculusのプロジェクトもむしろ原点回帰に近いのかなと。

■ニック・ランドと新反動主義 第2章

2 暗黒啓蒙
リバタリアニズムとは何か
「自由」と「民主主義」は両立しない
カーティス・ヤーヴィンの思想と対称的主権
新官房学
反近代主義とその矛盾
人種問題から「生物工学の地平」へ

■自然主義の人権論

【江永】ニック・ランドの加速主義とリバタリアニズムの立場って、どれぐらい適合的なのかが気になります。
【木澤】リバタリアニズムの根底にあるジョン・ロック的な自然権は一種の普遍主義なので、ニックランドとはそこで袂が別れそうですね。自然権といえば、基本的人権を進化生物学の観点から基礎づけようという意欲的(?)な書、内藤淳『自然主義の人権論―人間の本性に基づく規範』をこのあいだ読みました。
【江永】勁草書房の本なんですね。内容説明を瞥見しましたが、「繁殖資源獲得機会の配分」の原理として、人権を位置づける」と、穏やかならぬ文言が記されていますね。
【木澤】文言からして、いわゆる非モテ男性に「福祉」として性奴隷を一人ずつ充てがえ、みたいなグロテスクな主張が出てくるのかなと一瞬期待(?)したのですが、意外と内容は無難というか、やはり主眼はジョン・ロック的な「自然権」をどのように普遍的な価値観のもとに基礎づける=正当化するか、という問いにある。自然権や人権の基礎づけというのは結構難しい問題で、たとえばジョン・ロックであればそれは端的に「神によって与えられている」といった言い方でしか説明できなかった。いわば人権を超越論的に根拠付けようとするとどうしてもアポリアに行き着いてしまう、という問題を進化生物学を持ち出してゴリ押しで解決しようというのが要は『自然主義の人権論』の画期的なところです。
 しかし、人権を生物学的な所与によって基礎づけようとするとき、生物学的「事実」(である)から普遍的な「規範」(すべし)という価値判断を引き出すことができるのか、という、いわゆる「自然主義的誤謬」の問題が出てくるわけです。この著者は面妖なレトリックを駆使してこの難題を乗り越えようとします。それが「目的達成のための合理的手段」としての「べし」判断の導出です。著者は「運転免許がないけど運転がしたい女性」を例に出しています。このとき、運転免許を取る時間と金があり、さらに運転がしたいという場合には、「教習所に通うべし」という命題を導くことができます。つまり、「運転免許を取る時間と金がある」という「事実」から「教習所に通うべし」という「規範」が引き出されている、というわけです。ですが、これって本当に「規範」なのかな、という疑問が読みながら湧いてきます。どちらというと「規範」というよりはせいぜい「推奨」のレベルでしかないのではないか。細かい理路は省きますが、著者はこの「目的達成のための合理的手段」を進化生物学における知見であるところの「人間は繁殖(生存と繁殖、そのための資源獲得)に向けて生きる」という「人間に関する普遍的要素」と結びつけることで、規範としての普遍的人権の基礎付けを図っています。ですが、少し考えればわかるように、「人間は繁殖に向けて生きる」というテーゼは経験的事実からはかなり乖離している。それこそ「人間は本能の壊れた動物である」と岸田秀が昔から言っているように、この議論はむしろ人間よりも動物一般に当てはまってしまうので、「人権」とは一体何なのか、そもそも「人間」の定義とは何なのか、という根本的な問題が暴露されてしまっている。基本的アザラシ権でもなく基本的アライグマ権でもなく、なぜ他ならぬ基本的人権なのか、という。あと、この手の議論には、どうしてもアガンベンが提起したような、「剥き出しの生」がそのまま政治的規範に接続されるような穏やかならぬものを感じさせます。ある意味では現代における「生政治」のもっとも危険で抜き差しならない部分を指し示しているとも言えるかもしれません。
【江永】本当に穏やかならぬ議論をする本ですね。あと、ニック・ランドの加速主義で、リバタリアンから見ても相容れなさそうな点として、自己所有権を気にしてなさそうなところが挙げられそうですね。2014年の論考「Teleoplexy:加速に関するノート[Teleoplexyはランドの造語。カタクレプシーやナルコレプシーを汲んでいるとすれば、目的論発作、という感じか?]」(『#Accelarate : The Accelationist Reader』所収)だと、ランドは所有権(ownership)という概念には欠陥があるし、財産(property)という概念も信頼にたる哲学的な基礎を持ったことが一度もないと批判しています(セクション17参照)。つまりそれらが加速の邪魔になると捉えています。

■サイバネティクス、サイバーシン計画、資本主義リアリズムの誕生、80年代の柄谷行人

【江永】いちおうソ連崩壊以後って、漠然とずっと「資本主義しかない」みたいな雰囲気が漂っていた印象があるんですが、いつから資本主義リアリズムが、みたいな話になったんでしょうか。
【ひで】資本主義の勝利!と資本主義しか選べないという絶望は違うんじゃないでしょうか
【江永】どこかの時点で夢が見れなくなった、という感じなんでしょうか。
【木澤】少なくとも70年代ぐらいまでは資本主義に代わるオルタナティブなヴィジョンが可能だと信じられていたように思えます。そこで鍵となっていのたは、加速主義も多く依拠しているサイバネティクス、そしてフィードバックという概念です。たとえばこの部屋のエアコンのように、フィードバック・ループによって室温を自動調節=統御するネガティブ・フィードバックが典型的な例です。実は、このフィードバックという概念を用いることで社会経済を管理することができるのではないか、という考えがかつて存在していました。たとえば今日僕が持ってきたこの岩波新書の『コンピュータと社会主義』という本は、原著は1974年にソ連共産党中央委員会の出版組織から出た本なんですけど、ロシアのサイバネティクス研究者グルシコフがジャーナリストのインタビューに答えるという形式になってる。そこではサイバネティクスの技術がソ連における計画経済の円滑なコントロールと管理に必要不可欠であるという議論が共産主義の立場からなされている。その際に強調されるのが経済管理におけるコンピュータ化の必要性です。このグルシコフという方は、その後のキャリアを人工知能研究の方へ舵を切っていったのですが、それすらも示唆的に思えます。人工知能の統御による完璧な計画経済…、これこそもしかしたら現在の左派加速主義が望む究極のヴィジョンではないでしょうか。
 実は、このグルシコフの抱くサイバネティクス管理経済圏のアイデアは1970年代のチリにおいて実現化しかけたことがあるんです。それがサイバーシン計画と呼ばれるもので、左派のサルバドール・アジェンデ政権期間中の南米チリにおいて、1971年から1973年にかけて、計画経済を円滑に管理するために、コントロールセンターのコンピュータとチリ各地の工場の間をテレックスで接続し、リアルタイムでデータを収集し、各工場にフィードバックをかけていく、という構想があったんです。ですが、この「社会主義のインターネット」と形容されることにもなる計画は結局実現しなかった。なぜか。背後にアメリカ政府の影をちらつかせたピノチェトが軍事クーデターをおっぱじめたからです。1973年、チリ・クーデターの勃発。結果、ピノチェトは見事大統領の座を射止め、それまでの左翼的とみなされた一切を片っ端から破壊&処刑&焚書していく。もちろん、コントロールセンターのコンピュータも破壊されました。これがサイバーシン計画の末路です。
 そして、代わりにこの地に土足で踏み込んできたのが、サイバネティクスを備えたスーパーコンピュータではなく、ミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派。彼らはこのチリという空間を新自由主義経済の実験場に仕立て上げる。そして、このときのシカゴ学派の実験成果がその後のイギリスにおけるサッチャー政権やアメリカにおけるレーガン政権の経済政策に受け継がれていくわけです。いわば、資本主義リアリズムはこの地で、このとき起こったのです。同時に、左派加速主義の夢が失われたのも、やはりこの地だったのです。
 ちなみに、ティールにも出資させた海上都市構想をぶちあげた生粋のリバタリアンで「EXITはリバタリアンにとっての唯一の人権である」という名言(?)が『暗黒啓蒙』でも引用されているパトリ・フリードマンはミルトン・フリードマンの孫です。
 さて、ニック・ランドと右派加速主義です。先ほどサイバネティクスにおけるネガティブ・フィードバックを志向するとお話しました。ニック・ランドはそれとは逆に、ポジティブ・フィードバックを重視します。安定や管理とは真逆、加算されていくカオスのプロセス。頑なにエアコンで例えるなら、それはひたすた冷風を出し続け、しかも部屋が冷たくなればなるほど冷風も強力になっていき、しまいには自らの冷たさによって自壊する狂ったエアコンです。マルクスは経済におけるこのような事態を端的に「恐慌」と呼んでいたのでした。なので、ランドのポジティブ・フィードバックによって<外部>にアクセスするという思想は見ようによってはマルクスを受け継いでるとも言えるし、80年代のゲーデル問題に盛んに言及していた頃の柄谷行人と似てるとも言える。ちなみに同時期の柄谷は占星術みたいなオカルティズムや神秘主義にもハマっていました。中沢新一と対談して「コンピュータと霊界が云々」みたいな。
【ひで】人間の本性と資本主義を絡めて論じた後にオカルト方面に行くっていうのは、『パンツをはいたサル』の栗本慎一郎にも似てると思いましたね。
【江永】そう考えると、例えば『憲法の無意識』(2016 岩波新書)といった著作は、オカルティスト、あるいはスピリチュアリストとしての柄谷行人の面目躍如という感じで読むべきだったのでしょうか。外部みたいなものへの期待という点では、たしかに、柄谷行人とニック・ランドで似ている気がしてきました。
【ひで】マルクスも栗本もボードリヤールも基本的に外部の話は出していないと思うんですが……。
【江永】ただ、栗本慎一郎の場合は、太陽黒点の変動と景気循環が関連しているという、太陽黒点説の話をしていましたよね。もちろん太陽黒点説は、経済学史上のいわゆる限界革命の担い手の一人として知られる19世紀イギリスの経済学者、W・C・ジェボンズなどが議論したことでも知られるものですが。それにしても、外部を求める神秘主義にしたって、グノーシス思想とか、歴史のありそうな他のものもあるのに、なぜ柄谷行人は「霊界のコンピューター」といった話に向かったんでしょうか。
【木澤】80年代といえば、パーソナルコンピュータの普及がマクルーハン的な「地球村」のヴィジョンを実現させる、といったニューエイジを継承したサイバースペース思想がアメリカで現れる頃ですね。一方ではダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』のような、コンピュータ科学とゲーデルの相性の良さを説くような本がベストセラーになったりする。
 柄谷の場合もまた、形式化の問題を突き詰めていった結果、どうしてもそういった領域に行き着いてしまったというケースだと思います。柄谷が中沢新一と対談したのは1983年ですが、これはちょうど柄谷におけるいわゆる「危機」の時代に当てはまります。『言語・数・貨幣』の連載が未完に終わり、『探求』への「転回」へ移行していく過渡期の頃です。この年は多木浩二とも対談を行っていますが、その中で柄谷は「このところちょっと凝っているのは、他界というか、霊界の構造ですね。それは位相構造としては存在してしまうんですよ。まあそういうことで、いま頭がおかしいと人に言われているんですけれどね(笑)」と発言しています。実際、柄谷は頭がおかしくなっていたわけなので笑ってる場合でもないのですが。他にも「輪廻は積極的には証明できないけれども、トポロジカルに考えていくと、霊界みたいなものがどうしても存在せざるをえない」という発言もしています。しかし、翌年の1984年9月の(ということはすでに『探求』の連載がスタートしている時期の)村上龍と坂本龍一との鼎談では一転して「神秘主義には人間支配への醜悪な動機を感じる」と言って、「実際にぼく自身が神秘主義に近づいたのはどういう状態かっていうと、とにかく茫然として、何もできない、まったく壊滅した状態、そのときに、そういう弱みにつけこまれるんですよ。」と自己批判とも取れる発言をしている。実は柄谷は1983年の9月から翌年3月までコロンビア大学東アジア学科客員研究員として渡米してるんですが、このときに精神分析を受けたりしてるんですよね。柄谷の「危機」というのはわりと文字通りのメンタル的な「危機」でもあったわけです。それこそ90年代のニック・ランドがアンフェタミン中毒に陥ったように、形式化による「内部」の牢獄に自身をどこまでも閉じ込めることで逆説的に「外部」へEXITしようとする試みは得てして絶望的な悲壮感を伴うようです。
【江永】何だろう、怪しさと俗っぽさの混ざり具合が、名状しがたいですね。

■社会主義とテクノロジー

【江永】左派加速主義の話題で思い出しましたが、「テクノロジーで社会主義を?」というブログ記事を読みました。他の記事も含め、このブログ『Follow the accident, Fear the set plan』は面白いです。 https://ys347.wordpress.com/2018/01/17/1-2/
【ひで】社会主義とテクノロジーの親和性は割とよく言われていますよね。「ソ連はあの時代だから失敗した。AIの発明された現代なら社会主義はもっと上手くやれる」みたいな。ぼくは社会主義は結局人間の欲望をドライブできないならダメだと思うんですが
【ひで】ぼくは人間の欲望こそが資本主義の本質だと思っていて、それを指摘した『パンツをはいた猿』は好きでしたね。
【木澤】人間の欲望ってなにか数値で測れるんですかね。
【ひで】マルクスはイノベーションの源泉は特殊剰余価値って言ってましたね。その量とか?
【木澤】需要とかじゃないですか
【ひで】需要に言及しちゃ負けなんですよ。需要の数値は均衡した状態で出ててくるものだから結果論にすぎない。イノベーションはダイナミズムの中にあって、イノベーションを生み出す人間の欲望は、市場の均衡からのズレの大きさでしか測れない。

【江永】『ニック・ランドと新反動主義』の74頁から紹介されているヤーヴィンの思考実験、理想的な統治者である宇宙人フナルグルの話は興味深かったです。人間がフナルグルになれると思っている立場のひとは、どれくらいいるんでしょうか。
【木澤】ピーター・ティールはなれると思っているんでしょうね。若者の血を自分に輸血して寿命を伸ばしたりして。
【江永】ただ、ヤーヴィンが、専制君主に相応しい人物として、スティーブ・ジョブズとかイーロン・マスクとかを挙げていた、って書いてあったのが、しょうもないなと個人的には思いました。
【ひで】大きな物語がなくなって以降、起業家の中に物語を描ける人が出てきているわけですけども、そういう人を持ってきてるだけじゃないですか?
【江永】議論をしているのに、いま成功しているひとしか例として持ってくることしかできないのって、やっぱしょぼいですよ。
【ひで】笑
【江永】っていう悪口は、自分にかえってくる感じもしますが。ヤーヴィンって、何か書籍とか出版していないんですかね。
【木澤】自分のブログをまとめた電子本は出してますね。ブログがすごい量で読みきれないほどで。

■ニック・ランドと新反動主義 第3章

3 ニック・ランド
啓蒙のパラドックス
ドゥルーズ&ガタリへの傾倒
コズミック・ホラー
グレートフィルター仮説
クトゥルフ神話とアブストラクト・ホラー
死の欲動の哲学
CCRUという実践
CCRUとクラブミュージック
ハイパースティション
思弁的実在論とニック・ランド
カンタン・メイヤスー
レイ・ブラシエ
ニック・ランドの上海

■資本主義の外部、アマゾーン

【ひで】CCRUのことをちゃんと日本に紹介したのって木澤さんが初めてなんですかね?
【木澤】あとがきで書いたように詩人の櫻井さんがCCRUやニック・ランドのテキストを一部翻訳して自身のサイトで紹介されてましたけど。CCRUとサブカルチャー(たとえばダブステップ)の関わりなどは全然知られてない印象でしたね。

【江永】紹介されていたランドの初期の論文が気になりました(『ニック・ランドと新反動主義』102-109頁)。どうもランドは、この時点では、人間の経験が要請するような何か外部にあるものとして「物自体」を解釈して、それを資本主義の「外部」みたいなものと重ねているように映ります。マルクス主義とかでの資本主義の「外部」の話って、どんな感じでしたっけ。
【ひで】たしかにマルクスは資本主義の外部の話をしてますね。ただし再生産労働――労働者の再生産は市場で負担するには重すぎるって観点ですが。マルクスのいう外部というのは資本主義が吸収しきれなかった残渣で、一方のニックランドのいう外部って得体の知れないものがやってくるところだと思うんですが、それがどう関係するんですか?

『家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平』上野千鶴子

【江永】そういう「得体の知れないもの」を疎外された労働者すなわち怪物的な非人間的なものという形象と重ねているところがあるのではないか、と思います。たとえていうなら、ウェルズ『タイム・マシン』(1895)で言えば、地下の食人種モーロックを推す、みたいな姿勢というか。例えば「Teleoplexy」(2014)でも「ロボットの反抗」や「ショゴス的な反乱」に言及する箇所があり(セクション7参照)、ショゴスというのはラヴクラフトの1930年代の作品「狂気の山脈にて」などで登場する、フレキシブルな労働に従事させられていたけど知性が発達して作り手に反旗を翻したスライムたちのことですが、こういう怪物的なものに「外部」ないし「物自体」を見出だして、推すというのは、そう同時代的に見て異様なスタンスではない。それこそ中心と周縁で言えば周縁を推し、だけど中心と周縁からなる体制そのものを破壊する外の何かを求めてます、みたいな語り口はいわゆるポスト構造主義風の批評理論、文化研究のひとつの定番だと感じます。だから、怪物をもてはやすだけでなく、私たちもまた怪物にならなければならない。『ニック・ランドと新反動主義』の107頁から孫引きすれば「我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」ということになる。で、怪物になるのが無理なら、生まれつつあるか、生まれてくるはずの怪物を肯定しよう、人間でなくとも、と。それで分離主義推しにもなる。
【木澤】ニーチェにおける、やがて来る超人を歓待するために我々はより没落しなければならない、といったツァラトゥストラ的なヴィジョンを想起させますね。「悪くなればなるほど良くなる」、というのは加速主義におけるセントラル・ドグマですが、その根底にはニヒリズムの徹底とその裏返しとしての超人待望論があるのかもしれません。
【江永】ランドの基調は分離主義なのかな、と感じています。中心からExitして周縁になること、みたいな。男性なるものが中心を体現しているんだったらフェミニズムの分離主義、コスモポリタンが中心を体現しているんだったらそれに対するアンチは第三世界ナショナリズムの分離主義、ドゥルーズ+ガタリだったら再領土化を振り切るような絶対的脱領土化(そんなものがあるとすれば)。生き残れという指令が中心を体現するのなら、分離主義としての死を辞さない方へ、みたいな。ランドのバタイユ論を読み始めたんですけど、前書きからして「俺」は死の側にいる、みたいな感じで。
【木澤】「君たち、まだ生の側で消耗してるの?」みたいなノリを感じますね。
【江永】煽ってきている感じさえする。

■系譜原理からのEXIT

【木澤】加速主義のその向こうにあるポストヒューマンって、系譜原理からの分離を要求する側面があると思っていて。
【ひで】それはなぜですか?
【木澤】フランケンシュタインとかロボット、AIなどがポストヒューマンだとしたら、人間における再生産的な生殖からは切り離されているからです。
【ひで】なるほど。
【木澤】先祖の存在は「生」に対して超越論的である、みたいな議論があるんですよね。というのも先祖が存在しなかったらここにいる自分もまた存在しないからだ、というかなり見も蓋もない話なんですが、だからこそ一定の説得力はあって厄介とも言える。その系譜原理を切断するのが加速主義なんじゃないかなと思ってます。例えばニック・ランドは『暗黒啓蒙』の最後でミュータント的な「生」の存在を提出している。これは祖先の無限の系列と遡行から成る系譜原理的な超越論性からExitした、超-超越論的な「剥き出しの生」と受け取ることもできるんじゃないかと思っていて。そして僕は『天気の子』をそういう側面から見たいんです。すなわち、雲の上における祖先霊の世界からの徹底的な切断と分離、起源から継承され続ける「負債」の際限なき再生産からの切断、神の裁きからの決別としてのクライマックスにおける「決断」を肯定してみたいのです。
【ひで】手塚治虫の漫画を読んでて思ったんですけど、ロボットでも作ってくれた人のことをパパって読んだりするんですよね。それを鼻の大きい博士はすごい嫌がるんですよ。ああいうのも、博士的に言うとロボットは異物だから自分たちから切断されているのが自然的な捉え方になるんでしょうね。
【ひで】でも『天気の子』はどうせ、映画で描かれた結末以降の日常生活の中で、ヒロインと主人公は子作りセックスをするんでしょうね。天使ってふたなりか股間がツルツルかの2種類あるんでしょ。ヒロインが地上に降りてきたら股間がツルツルになってたりしたら面白かったのに。くっそ〜普通の子作りセックスを楽しみやがって〜
【木澤】たしかに『天気の子』は結局ラストでヘテロカップルがくっつくので、そこで系譜原理からの完全な切断ができていない、再生産的未来主義に再回収されてしまっている、といった批判は可能かもしれませんね。どうせこのあと生殖するんでしょ? みたいな。そこに『天気の子』の限界があるといえばある。
【江永】ひでシスさんの方向だと、二人のあいだに何か怪物的な、異形みたいなものが生まれる、といったENDでもいいんですかね。日本神話的には、国生みの際の水蛭子みたいな。
【ひで】出産するぞ!と思ったらクソでかい芋虫みたいなのが股ぐらから出てきて、「やっぱ巫女を辞めさせたらあかんかってんな〜」って周りの人が納得する、みたいな。

          『エロきゅん実験室』広輪凪
【木澤】神の呪いだ…。

■ニック・ランドと新反動主義 第4章

4 加速主義
加速主義とは何か
左派加速主義とマーク・フィッシャー
右派加速主義、無条件的加速主義
トランスヒューマニズムと機械との合一
加速主義とロシア宇宙主義
ロコのバジリスクと『マトリックス』
ヴェイパーウェイヴと加速主義

【ひで】この章を読んでいて思ったんですが、左派加速主義が「資本主義をコントロールできる」なんて考えているの、甚だバカバカしい思い上がりで本当に恥ずかしいですよね。ソ連が「科学は経済を超越している」って思い込んでいたような馬鹿らしい思い上がりですよ。
【木澤】ニックランドも左派加速主義のことを「NEP(新経済政策)なきレーニン主義」だってDISってますね。
【江永】ニックランド「加速主義への拙速(Quick and Dirty)な入門」(『Jacobite』2017年5月25日付)でそういう表現を使っていましたね。
【木澤】あと良くある批判としては、テクノクラート的レーニン主義だとか、分析対象が白人だけに限られているので白人中心主義だとか。あと環境問題を無視しているとか。
【ひで】環境問題はマジでやばいですからね。環境が壊れたら人類とか資本主義とかそういうのも含めて全てが壊れて終わりです。これこそが来るべき終末だとぼくは恐れているんですが……。
【江永】「学習」したジャズやデスメタルを24時間ノンストップで流し続けるDadabotsなども登場したし、人間がいなくなってもジャズとデスメタルは残り続ける、ただしインフラが、環境が壊れるまでは。
【木澤】人間を学習させればちょっとバグった人間が残り続ける、本物の人間はとっくに絶滅してるけど、ちょっとだけバグったNPCたちが、ちょっとだけバグったような生を営み続ける…。
【ひで】それシュミラークルみたいな話ですよね。

【ひで】ピーター・ティールが『ゼロ・トゥ・ワン』で触れてましたけど、起業ってタイミングが重要なんです。日本でいま加速主義がキてるのってなんでなんですかね。本国からすると何年遅れですか?
【木澤】加速主義のメルクマールとなったシンポジウムが2001年ですから、18年遅れですかね。本国からすると意味不明かもしれませんね。
【ひで】なんで今キたんですかね
【木澤】加速主義を土台とした様々なものが出来上がってきた中で、トランプが勝って、加速主義的な何かが立証されたんじゃないですかね。時代が加速主義な情況とバチッとハマった。
【ひで】なるほど〜
【江永】2016年のアメリカ合衆国選挙以降、アイデンティティ政治の枠組みではうまく捉えられてはいなかったという、ワーキング・クラスのポピュリズムなるものが議論の俎上に上がってきた感じがします。ニック・ランドの加速主義って「右派」と言われていて、その批判は全くの的外れかと言えばそうではないですが、でも何か、ランドの議論は現況のリアルなものを捉えようとしている感じはします。
 ひょっとすると、赤井浩太が小泉義之に伝えたという(小泉義之「日本イデオローグ批判」『HAPAX Vol.11 闘争の言説』2019参照)ラッパー狐火の「27歳のリアル」(2010)の一節「御社の役に立てると思います[…]その最先端の技術の中核を担っていけるような社員にxvxvhfうy 」みたいなことばは、加速主義の見据える「新しい怪物じみた匿名性」(リオタール『リビドー経済』、『ニック・ランドと新反動主義』168頁から孫引き)の文脈でこそ、捉えられるものなのではないでしょうか。つまり「ちょっとだけバグったような」人間の生を見据える文脈でこそ。

終わりに

 次回読書会はジェイミー・バートレット『ラディカルズ 世界を塗り替える〈過激な人たち〉』と西谷格『ルポ中国「潜入バイト」日記』を取り上げる予定です。お楽しみに!

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江永泉

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