ゼロ年代から加速して 海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』読書会

 闇の自己啓発会は、6月23日に都内某所で、海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』読書会を行いました。引き続き木澤佐登志さんも参戦し、雑談(ゼロ年代から加速主義の話など)が大変盛り上がりました。ゆえに前置きが非常に長くなりましたが、その模様をお伝えしていきます。

※追記:これまでの活動については、こちらをご覧ください!
初回記事「品川の中心で不平等を語る 『不平等との闘い ルソーからピケティまで』読書会記録」(『ひでシスのめもちょ』2019年1月29日)

前回記事「著者と語る『ダークウェブ・アンダーグラウンド』読書会」(『ひでシスのめもちょ』2019年4月08日)

※なお、編集の都合で、前回予告していた『ニュー・ダーク・エイジ』読書会より先の掲載となります…。こちらも追々掲載する予定です。

 ■参加者

役所暁:政治学や思想などをやっていた(?)、しがない編集者(文化的な生活ができる程度のおちんぎんを頂ける転職先募集中)。最近のマイブームは『装甲悪鬼村正』。
江永泉:文学理論や批評などをやっていた、しがないやる夫スレ読者(基本的にROM専)。最近のマイブームは『バシレウスのパイロット』。
木澤佐登志:とくに何もやっていなかった、しがない文筆家(基本的に無職)。最近のマイブームはハイプロン。
ひでシス:インドネシアの農村研究をやっていた。しがないサーバーサイドエンジニア。最近のマイブームは反省日記を書くこと。


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何故かコンビニのタピオカを飲みながら、和気あいあいと始まりました


■長い前置き~加速主義 ゼロ年代 シンギュラリティ~

【木澤】 そういえばニック・ランドがTwitterで、『現代思想』の加速主義特集号に対して「Weird things going on in Japan.」って反応してましたね(https://twitter.com/Outsideness/status/1135790299215589381 )。日本で急に翻訳されたりで注目されて戸惑ってるようです。
【江永】 言語問わず、どうして今になって取り沙汰されてるんだ、と思う方々も多々いらっしゃる感じがしますが、自分としては、どうして今になるまで取り沙汰されなかったんだ、という感じの方が大きいです。後知恵で言いますが、ゼロ年代批評には、加速主義にも通ずるところがあったと思います。でも、セカイ系の是非が詮議されていた頃は社会性がないと批判されていたはずのオタクなるもののイメージは、次第に、電子掲示板や動画投稿所を介した大喜利やお祭り騒ぎをする集団へと変化していき、フリマ文化とファンクラブ文化が混ざったのか、二次元や三次元のアイドルや声優を応援する集団がオタクの主流と目されるようになり、企業への不買デモや政治的主張で集うデモの高まりもあって、オタクたちの動きもまた自然発生的な社会運動に繋がるとの期待が高まった。で、「(ゼロ年代)批評をいくらやってもダメだよね、人と人がつながって、運動とかしないといけないね」って話になって、それはグローバルな社会運動、例えばオキュパイ運動やアラブの春、ソフトで言えばSNS、ハードで言えばスマートフォンの普及が下地をつくったと言えるであろうローカルな諸々の政治的運動とかとも同時多発的で共振していたのだけど、結局、自然発生したはずの希望なり感性なり欲望なりを盛り立てていけば何かがよく変わるという類いの話は、活動を運営して維持するための知識や制度を更改する技法の欠如ゆえ、当座の満足感とエモい思い出、現状と野合した原理主義しか生まなかった。偏頗なまとめかもしれませんが、こんな流れで、加熱したゼロ年代批評の時代は閉塞していったという風に思っています(浅い見方かも知れませんが)。後にゼロ年代批評とまとめられる様々な著作が発表されていた頃、様々な人々が様々な用語を提唱していたはずですが、理論的な体系化が十分には成し遂げられなかったように見えてしまう、その一因は、本当は同時代的だったはずの加速主義的な理論が十分には受容されていなかったことなのかもしれないと思い始めています。
【木澤】 僕はゼロ年代批評をスルーしてきたのでよくわからないんですけど、加速主義はどちらかというと90年代のオーラをまとってませんか? 加速主義の発祥が90年代のCCRUというのもありますが。僕個人としてはCCRUのノリに『serial experiments lain』とかのサブカルチャー的な空気を感じるんですよね。
【江永】 そうですね。そのように感じます。90年代からゼロ年代にかけて、サブカルチャー的な意匠がすごく換骨奪胎されていったのかなと思います。例えば90年代の『serial experients lain』の「玲音」とゼロ年代初頭の『最終兵器彼女』の「ちせ」とは、超常的な力を身に付けていくと共に脱人類的になりサイボーグ的に、または遍在する存在になっていくという点で造形上通じあっているように私には映りますが、前者のサブカルチャー的な空気と後者のエモ的な(ゼロ年代的には「泣ける」と形容すべきか)空気はまるで違うとも感じます。で、ゼロ年代は、アニメ『らき☆すた』のOPとアニメ『涼宮ハルヒ』のEDに象徴されるような、踊りと駄弁りとパーティーを志向するスタイルが二次三次問わず席巻していく。技術抜きのエモ増しで、……などと、狭窄した視野で喚き過ぎました。失礼しました。思えば、近頃の加速主義ばやりと百合SFばやりには何かしら同時性がある気がします。ゼロ年代~現在に詳しい方に、ハーレムものから百合ものにどのように移行したのか、という話をうかがいたいものです。
【暁】 ハーレム・男女恋愛がサイコー!って感じだったのに、突然百合になりましたよね。
【木澤】 で、百合に挟まりたい男みたいな反動勢力が出てきたり。
【暁】 笑
【江永】 百合男子ものだと、早矢塚かつや『白鷺このはにその気はない!』(2010)を思い出します。邪推かもしれませんが、男性が少女に欲情したり「ラキスケ」に遭遇したり「セクハラ」したりする場面を描写するのはPC的にアウトだからと、従来は男性キャラクターがあてがわれていた役柄を女性キャラクターに置き換えた結果として、百合ものが流行っている一面がある気もします(これは元々、ある方からおうかがいした指摘でした)。
【暁】 アズールレーンのアークロイヤルさんとかそうですね。
【木澤】 もう男のロリコンはコンテンツ作品に出せませんからね。その代りに少女に合法的に(?)セクハラできる女性キャラクターが要請される。もちろん他方で『柚子森さん』に代表される傑作おねロリ百合漫画も多く存在しているので一概に言えませんが。
【暁】 男性向けはポリコレを意識していて百合とかになっている向きもあるんだけど、女性向けはヤンデレ男性による監禁調教みたいなのが普通に残ってて受容されていたりするという話もありますね。
【江永】 このまえ、読んでいてとても印象深かったBL小説があって。クライムサスペンス的なやつで、吉田珠姫『堕ちた天使は死ななければならない』という作品なんですけど。幼少期にカルト的な犯罪集団に性的虐待を受けていた男性で、今は男性恐怖症だけどモデルをしているレイモンドの下に、かつての犯罪集団と関わりのある連続殺人犯の魔の手が迫り、そこで、幼少期に自分を助けてくれた刑事だった、ジェフリーと再会することになり、……みたいな話なんですけど、この刑事は妻と離婚寸前なんですが、女性に性的魅力を感じないらしくて、けれど「ゲイを認める」のは「考えたくない」ことだ(68頁)とか心内で独言するんですよね。でも、「この世に舞い降りた天使」(109頁)みたいな美貌のレイモンドにどんどん惹かれていき、最終的にジェフリーはレイモンドを慰めつつ褥を共にする感じになるのですが、そこでは「ゲイだろうがなんだろうが、構うもんか。[……]これから一生、世間から後ろ指を指されてもかまわない、それほどの陶酔だった。」(237頁)みたいになる。これ2017年の小説で、私は魅力的に感じましたが、だけど(ここでは触れなかった内容や描写を含め)こういう書き方、今はもうかなり際どいのでは……、とも思ってしまいました。
【暁】 差別があるから禁断の恋で素晴らしいんだ、みたいな中々危ないことを言ってるのもまだあるらしいですね。
【江永】 とはいえ、サドの作品に感化された経験がある私がBLや百合の描写を「際どい」と指摘するのも、自分で何か妙な感じはしますが。私自身は「際どい」内容を含む作品と出会うことで現に救われてしまった経験があるならば、それをただ恥じたり隠したりして誤魔化すべきではないと思っていますが、語り口は注意深く選ぶべきだろうと思っています。ときところ問わず誰彼も構わずに雑に言ったり無理に推したりしていいのかと訊かれたら私も躊躇を感じますし、そういう表現がきっかけで誰かが現に虐げられたり嘲罵されたりすることが起こるのは決して望みません。ともあれ、もしも、いわゆる「禁断の恋」的ステレオタイプへの批判糾弾の理路が、百合的な装いの下でステレオタイプな「セクハラ」や「ラキスケ」を描写する大義名分にも転用されているのだとすれば、えげつない話です。
【ひで】 男性向けでもまよねーず。が描く漫画みたいな作品がありますよね。女性が増えすぎた社会で、一部の女性は公衆便器として働かなければならない話とか。
【江永】 吉田珠姫のデビューが90年代初頭のようなのですが、90年代には「やおい」つまりBLの評論を書いていた、中島梓=栗本薫の存在感があって、この辺りの文脈をきちんと踏まえておかなくてはという気持ちになります。中島梓は、昭和の少女漫画史でいう「ポスト24年組」(1950年代前半に出生)と同世代です。(私はいまになって勉強しているところですが)日本では、1970年代くらいから(アーシュラ・K・ル=グィン受容などもあり)SFやファンタジーと、フェミニズムやジェンダー論の合流した、豊饒な文化的蓄積があったらしい。中島梓の評論『タナトスの子供たち』(1998)なんかだと、(特にハードな)BLと人類滅亡をつなげて独特の文化論みたいなものを提示してさえいます。個人的には、レオ・ベルサーニやリー・エーデルマンといったクィア理論家(の一部)の議論と比較すべき内容が含まれているように思います(ただ、同時代的には、中島梓の「やおい」論は、ゲイ差別的だと批判を受けてもいたようなのですが)。また、ダナ・ハラウェイ他『サイボーグ・フェミニズム』(邦訳1991)の共訳者のひとりの小谷真里も、1990年代に、SFとファンタジーをフェミニズムの観点から論じた著作やエヴァンゲリオン論を書いており、BL論も書いていて、ゼロ年代には東浩紀編著の『網状言論F改』(2003)にも名を連ねているし、『テクノゴシック』(2005)という、ニック・ランド「Cybergothic」(1998)を彷彿とさせる書名の著作を刊行してもいる。また小谷真里はジェンダーSF研究会の発起人のひとりで(ほかの発起人は柏崎玲央奈、工藤央奈)、この研究会では村田沙耶香『殺人出産』(2014)や草野原々『最後にして最初のアイドル』(2016)などに文学賞を贈っています。
【暁】 センス・オブ・ジェンダー賞(http://gender-sf.org/sog/)ですね。めっちゃ好きな作品多くて推せます。
【木澤】 そういったジェンダー的な批評意識とも交差していた90年代BLに対して、現在のメインストリームのクールジャパンコンテンツ、たとえばジブリ作品にはそういった対抗カルチャー的な文脈がそもそも輸入されてない気がします。これは石岡良治さんが以前指摘されてたことですが、『ゲド戦記』の原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンはジェンダー的な問題意識を大々的にSFとファンタジーに取り入れた作家なんですが、宮﨑吾朗によるアニメ版は、なぜかいきなり父親と息子の話になってしまっていると。つまり、ジブリが60年代以降の現代ファンタジーの文脈を継承しているとはあまり思えず、むしろジブリ流の変換装置によって、そういったファンタジー作品を自己消化してしまっているのではないか、というのが石岡さんの見立てでしたね。
【江永】 ジブリ版のアニメ映画『ゲド戦記』は、宮崎監督の父子関係をめぐる物語ありきで受容されがちだった気がします。あの宮崎駿監督の息子が作った映画で~、みたいな。
【暁】 しかも評判も芳しくなく…。原作は面白いのに勿体なかったです。

【暁】 今の話を聞いてると、最近の(?)オタク文化批評は男性向けと女性向けで断絶している感じがする。例えばラノベ批評と言ったときに女性向けのビーンズ文庫とかホワイトハートとかが除外されていたりとか。
【江永】 ここ5年ほどの間だけでも、大橋崇行、嵯峨景子、山中智省、等々のラノベ史系の研究が次々と発表されてはいるんですけどね。学知は蓄積されつつあるはずなんですが、例えばティアラ文庫もガガガ文庫もスマッシュ文庫もシャレード文庫も好きだし、読むよ、みたいな人々があれこれ評し合っている、といった環境は、ないかもしれませんね。ファンダムと研究者の関係が捉えづらい。百合SFの話題とかは、既存の学知の蓄積も既存のファンダムの重みも取っ払われたところから、新たに勃興した感を覚えました。それは、自分が歴史化するための距離を見失う、要はハマりつつあるからなのかもしれませんが。
【木澤】 百合SF書きましょうよ。最近小泉義之さんの『生殖の哲学』を読んだんですが、iPS細胞を使えば女性だけで子供を作ることができるようになるらしいです。身も蓋もなく言えば『咲 -saki-』の世界なんですが。つまりクローン技術は単性生殖を可能にするので、子どもを作るのに男性は原理的には不要になる。だから、その気になればすべての女性が連帯すれば一世代で男性は絶滅する……。そして地球上には百合カップルしか存在しなくなる、そんな百合SFと加速主義が融合したようなエモいヴィジョンを思い浮かべました。
【江永】 レズビアン・フェミニスト(の一部)による分離主義を論じた2016年の論文、小泉義之「異性愛批判の行方――支配服従問題の消失と再興」(https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center24/publication-404/)は衝撃的でした。これを踏まえたら以下のようにも踏み込んで言うことができるかもしれない。すごい乱暴に形式的に捉えると、家父長制批判が男性なるものと切り離せないならば、家父長制の根絶のために男性なるものは絶滅させないといけないことになる。支配と服従、要は攻めと受けに興奮するように人々を誘引する構造が社会に埋め込まれているとして、で、それが家父長制であると言えるならば、支配側=攻め=男役、要するに男なるものを根絶しない限り、家父長制による服従状態からの解放はないということになる。
【木澤】 そこに百合を絡めれば一発当てることができますよ。
【江永】 さながら肉体を捨てたバ美肉おじさんたちのユートピア?
【木澤】 それは当たらないですね。
【暁】 叙述トリックみたいな感じになっていて、百合だと思って最後まで読んだらバ美肉おじさんだったことが発覚する、みたいな。
【木澤】 読み終えた後に壁に投げつけますよ。
【暁】 クローン技術を駆使した女性が覇権を握って男性がいなくなっても、人間がいる限り暴力はなくならないと思うんですよね。
【木澤】 やはりそこを突き詰めていくと反出生主義を選択肢が出てくるのかなと。小泉さんは少女終末旅行の批評を書いてましたよね。あれってどういう内容なんですか?
【江永】 ある面で、再生産的未来主義へのエーデルマンによる批判を紹介するような批評です。で、エーデルマンの議論さえも批判するような仕方で思考の歩みを進める、そのためのよすがとして、『少女終末旅行』が読み込まれていく感じです。大抵のポスト・アポカリプスものは、生存と死滅、生の欲動と死の欲動のどちらが最後に勝ち残るのかを問うてしまう構図になりがちで、まだ端的な無に至る絶滅を考え抜いてはいない、と。
【木澤】 やはりルジャンドルのいう「系譜原理」に抗うのは大変なんですよね。系譜原理とはここでは生殖システムを通じた人間の再生産の原理としておきます。ニック・ランドの「暗黒啓蒙」のラストも、なんだかんだで人類は遺伝子交配を経た「怪物」として生き残ることが前提になっている。その点、ランドの近年のSF短編小説「Phyl-Undhu」などではグレートフィルター仮説を引用しながら人類の絶滅可能性がホラーとして考察されている。僕なんかはそこに可能性を感じます。ランドのいう抽象的ホラーとは畢竟、系譜原理に対するホラーでなければならない。
【江永】 この辺、判断が難しいですが、シンギュラリティの果ての終末であれ、結局、何かしらの来てほしい(破滅の)未来を前提としている面で、そうした「系譜原理」から脱却できていない、みたいな話になってしまうのかもしれない。
【木澤】 なので僕はエーデルマンの再生産未来主義批判、たとえば「未来はここで終わる」というキャッチフレーズにも惹かれます。小泉さんの『生殖の哲学』を読んでいて気になったのは、生まれる側の意識や苦痛については一切触れてないんですよね。生殖を全肯定するロジックからは、どうしてもそこが抜け落ちてしまう。『生まれてこないほうが良かった』のデイヴィッド・ベネダーは、功利主義の観点から、存在してしまうこと=生まれてきてしまうことは(当人からすれば)常に例外なく害悪である、と論じています。
【江永】 小泉義之も、ブログ(今は消えてしまったようですが)で、芥川龍之介の小説『河童』の中の胎児による誕生選択の場面を取り上げていたような記憶があります。
【ひで】 シンギュラリティ移行も人間の出生って続く=系譜主義って成り立つんですか?
【木澤】 社会があるということは人間がいるということなのでそうでしょう。
【ひで】 えー、そんなのおもしろくない!
【木澤】 じゃあ誰が社会を維持していくんですか?
【ひで】 AIとかロボットに代わりに社会をやってもらったら良くないですか? 人間には歴史から退場してもらえばいい。
【暁】 でも、ロボットも人類が生み出したもので、その文化の後継者とも取れるので、系譜としては続きと言えちゃうのかなとか。
【江永】 仏教でも、諸説あるらしいですが、一説には釈迦が輪廻転生からの解放を唱えたと論じられたりしているらしく、これって「系譜原理」の徹底的な切断かもしれないと思わされます。
【木澤】 それってExitじゃないですか。
【江永】 ベネターの議論で思い出したことがあって、これは時々気になることなのですが、なぜ特定の生物個体の痛みや苦しみを避けたがる傾向性が倫理的な判断を導きだす根拠になるのか、私はよくのみこめずにいます。思考実験みたいな話ですが、人間以外の知性が多数派あるいは覇権を取っていて、「人間が苦しめば苦しむほど、そうでない場合とは比較にならないほどよい」みたいな判断基準を持っている世界ならば(『魔法少女まどか☆マギカ』のQべぇ、とかをもっと非人情にしたみたいな感じで)、人類が絶えることなくたくさん生まれて、たくさん苦しんで死んでいくのが、よい、ということになるし、よいと思ったり感じたりする認知が望ましい、ということになりそう(藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿』がもっと陰惨になった感じでしょうか)。
【ひで】 木澤さん的にはこういう苦しみって薬でコントロールしたらいいって立場を取りますよね。
【木澤】 そうですね。たとえば怒りに対しては、その怒りの原因は怒りをもたらした出来事や人間ではなく自分の脳内の伝達物質の変異にあると考えた方が気楽です。具体的には、怒りの対象に対して憎悪をつのらせるぐらいだったら睡眠薬飲んで寝た方がコスパ良くないですか? ということです。
【ひで】 この本でも「人間の幸福度は半分以上が遺伝で決まる」って書いてありますよね。
【江永】 暑がりとか寒がりの人が、薄着をしたり厚着をしたりするように、痛がりや苦しがり、また希死念慮過多な人類は、投薬やカウンセリングなどをして調節すればいい、という感じでしょうか?
【木澤】 グレッグ・イーガンに『しあわせの理由』という短編がありますね。脳の手術をしてから幸せ物質が出まくるようになってしまって、どんな危険な事態に直面してもエクスタシーに達してしまう少年の話だったと記憶してますが(相当にうるおぼえです)。
【暁】 自分を苦しめる社会が悪いのに、自分の脳が悪いって言われて、自分のコストで薬を飲まなければいけないというのは納得がいかない感じもあります。
【木澤】 マークフィッシャーも全く同じことを言っていますね。再帰的無能感という。問題は社会や労働環境の側にあるはずなのに、個人の脳の問題――自己責任の論理に還元回収されてしまう。それが資本主義リアリズムなんだと。僕もそれは正しいと思いつつ、でもやはり薬にアディクションしてしまう自分もいる。繰り返しになりますが、怒ったり落ち込んだりするぐらいだったら睡眠薬を飲んで寝たほうが健康によさそうですし(でもよくよく考えたらアディクションはまったく健康に良くないですね。薬やめたい)。
【江永】 薬を購入するより、妄想に沈む方が安上がりな場合もありそうです(環境への影響は度外視します)。また、苦しみや幸せが、環境の評価と無関係な自分の気分であるのなら、苦しみや幸せを理由というか原因として、環境を変える必要はなくなりそうですね。逆に、環境を変えたいなら、気分がどうであろうが環境を変えればいい。
【木澤】 スピノザ的な不可知論というか、苦しみの原因を追求すると何が原因なのかわからなくなるみたいな。
【ひで】 駕籠真太郎が『超伝脳パラタクシス』(2002)で書いてたんですけど、「痛みの原因は脳にあるんや」ってことを知った女性が自分で脳をビキビキビキって取ってしまって、そのまま死んでしまう、っていう話が有りましたね。

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駕籠真太郎『超伝脳パラタクシス』(2002)
【木澤】 クールですね。

【暁】 ゼロ年代と言えば、最近、今更ながら『沙耶の唄』をプレイしたんですよね。社会(作中では人や事物が肉塊にしか見えない世界)で主人公はマイノリティとして、無理矢理周りに合わせて振る舞うしかないわけです。それに自分を重ねてしまった。でもそんな世界も、沙耶の「開花」によってマイノリティが大逆転できる、というめちゃポジティブな内容でびっくりしました。
【木澤】 『沙耶の唄』も加速主義的といえば加速主義的ですよね。
【ひで】 加速主義って内側から加速してあるかべをぶち破りろうって思想だったと思ってたんですけど、外のものを使っていいんですか?
【木澤】 『沙耶の唄』はクトゥルフ神話が元ネタですが、ニック・ランドやCCRUもクトゥルフ神話を盛んに引用していました。
【暁】 沙耶は外宇宙からやってくる存在ですね。
【江永】 加速主義というか、ランドは何らかの境界なり壁なりをぶち破るような外から到来するものを歓待する、という姿勢を示してもいたはずです。「ファングド・ヌーメノン」(『The Thirst for Annihilation』1992所収)でも、バングラデシュで猛威を振るうサイクロンをランドの推す「無化[Annihilation]」と重ねて捉えたりしていて。
【木澤】 ドゥルーズも「アフェクション」(affection)という概念で似たようなことを言っていますね。外からやってくるもののみが自分を変容させるんだ、という。ところで、あまり関係ないですが、ニック・ランドの思想はしばしば日本では80年代の浅田彰に比せられますが、むしろ80年代の柄谷行人だと思う。80年代の柄谷は、「形式化」とその「外部」という問題に囚われていた。一言で言えば、「形式」の徹底化によってそれを自壊に追いやることで「外部」が出現するという理路で、そこではゲーデルの不完全性定理などが比喩的に用いられたりしていたわけですが。それに対して、ニック・ランドは資本主義とはポジティブ・フィードバックだと定義する。要するに資本主義という閉じた「形式」が、フィードバック・ループという再帰的自己言及を繰り返すことでやがて自壊だか逆に知能爆発だかを引き起こし、あの「外部」、つまり「特異点」が到来するという理路なんだと思います。柄谷は「この私」という自己から内省をスタートさせるのに対し、ランドは資本主義という名の惑星規模の人工知能からいきなり内省(?)をスタートさせるのですが。
【江永】 ニック・ランドの思想は、外から来るものに身をさらし、自己改造していき、人間でなくなっても突き進んでいく、って感じなのでしょうか。個人的には、人間やめよう、よりは、どこまで行っても人間、みたいな姿勢をとりたい気持ちもあります。仮説に合わせて自然法則が発生するのではないように、仕様書や定義に合わせて人間が生産されるわけでもないので、現にいる私が人間のできることをしている、で、いいのではないかと思ったりもします。人間には私みたいなこともできるし、私みたいなことをする人間を増やしてもよい、みたいな。
【暁】 僕は具合の悪かった頃に「お前は化け物だ」と言われたことがあるのですが、江永さんの人間の定義だと僕も人間になれるので救われた気がしますね。
【ひで】 「私みたいなことをする人間を増やしてもよい」って、ウイルスみたいですね。
【木澤】 遺伝子もそうですし。
【江永】 そうすると、自己啓発のマインドセットとか、宗教の儀礼とかも、ミームでしょうか。

【木澤】 『沙耶の唄』に話を戻すと、『ゴジラKoM』も結末次第では『沙耶の唄』になっていたかもしれないなって。地球外の存在であるキングギドラが沙耶で、それがゴジラに勝っていれば、地球は沙耶の開花エンドになってたのかなと。
【暁】 それ自分も思いました!あるいは沙耶がモスラでも、自分を犠牲にして「この地球を、貴方にあげます」とゴジラにプレゼントした感じになったのかなとか。あと、虚淵繋がりだと、KoMの人間たちは敵も味方もゴジラたちの支配をアへ顔ダブルピースで受け入れてるヤバい人たちだけど、じゃあ受け入れずに徹底抗戦してしまった人類がどうなるかというと、アニゴジ前日譚みたいになってしまうのかなとか思いました。

※ようやくここから本書の内容に入ります!

■ SR――藤井直敬 

  【江永】 この章だけのことではないですけど、作者が変性意識の話とかをしてくれるのは特殊だと思いました。テクノロジーの紹介本だとこういう話題を入れてくれないので。
【木澤】 いきなりアイソレーションタンクの話とか出てきますよね。最新テクノロジーの話かと思ってたら突然70年代のカウンターカルチャーの文脈にぶっこまれる。
【江永】 他の本だと、オカルト的、スピリチュアル的な話に踏み込んでいたとしても、「マルクス主義みたいなものとは距離を取って技術を紹介します」という姿勢のものが主流である気がします。その辺の感性が特色あるように映ります。
【木澤】 海猫沢の独特の身体感というか幽霊観が出ていて面白かったですよね。34pの相互運動〜幽霊のあたり。

※ここで、ひでシスさんの持ってきてくれたVR機器をみんなで体験します

【ひで】Oculus GOを触ってみてどうでした?
【木澤】 思ってたより映像のクオリティが低かったので没入感という点では今ひとつかなと…。
【ひで】 Oculus GOでビデオ通話をすると面白いんですよね。電話よりも全然リアル感がある。

【ひで】 本には分散型視点に次々に移ることで幽体離脱感が出るって書いてありましたけど、そんなので幽体離脱感って出るんですかね。
【江永】 自分の身体と自分の視点が紐付いているという感覚は失われていきそうですね。
【木澤】 文中で藤井さんが解説されていますが、カメラの位置を何ヶ所かに動かしていくのを繰り返していくと、部屋に自分が充満したような気になってしまう。神っぽい視点になってしまう、と。僕はここの記述を読んで『serial experiments lain』を想起しました。「遍在」している岩倉玲音の身体=視覚感覚ってこんな感じなのかもしれないなと。「遍在」というのは「充満」ということなのか、という。世界に「充満」してある神としての岩倉玲音……。
【ひで】 電球型のVRカメラって2000円ぐらいで買えるんですよ。これを色んな所につけてVRゴーグルで移りまくると楽しそう。
【江永】 変性意識を機械の力で実現できるかも、っていう見方は面白いですよね。道具に頼っていないか、みたいなことを気にして、身体を調練して行く方向の、テクノロジー嫌いの「自然派」も多い気がするので。
【木澤】 そこが西海岸のカリフォルニア・イデオロギーとかだと、わりと変性意識をドラッグとテクノロジーでイージーにコントロールしようとしますよね。ティモシー・リアリーとかは当時アップルから出てきたパーソナルコンピューターを自我拡張のモデルとして捉えてた。
【江永】 日本だと土着の文化でそういう方向性に行こうとするのは少なかったのではと思ってます。
【暁】 本書では僧侶がテクノロジーと悟りの関係について関心を抱いて協力してくれた、というのはありましたね。
【江永】 そうでした。思い込みですね……。『攻殻機動隊』『インセプション』『マトリックス』といった映画への言及(15頁)だけでなく、岡嶋二人『クラインの壷』(1989)の話も出てきてましたよね(27頁)。著者の海猫沢めろんの小説家デビュー作『左巻キ式ラストリゾート』(2004)が、メタミステリとかSFとかと、オタク・オカルト・サブカルを混ぜた怪作だった覚えがあったので、そういう方でないと書けないような切り口から捉えられたテクノロジー紹介本だなとしみじみ思いました。

【江永】 そういえば、終末期医療の患者にVRで思い出の場所を見せるという話も最近ニュースになってましたね。
【暁】 あれ見た瞬間、ソードアート・オンラインだ!ってなりました。あと同作にもクラインというキャラクターが出てきて、クラインの壷と関係があるとかないとかって話を小耳に挟んだことがあって、色々なところで繋がってるんだなって。

■ 3Dプリンタ――田中浩也 

 【ひで】 「3Dプリンタで生産されたモノはセミの抜け殻みたいなもの、というのもモノの本質であるところのデータは常にアップデートされているので」っていうのが面白かったですね。
【木澤】 3Dプランタで商品だけでなく何でも複製できるようになったら、物質世界からすべてのアウラが消失していく。そして物質世界がデータの影/幽霊みたいなものになっていくのに対して、データこそが本質=リアリティになっていくかもしれない、という話が面白かったですね。
【江永】 思わず、ポストモダン思想とかの、シュミラークルの方がいいんだというような話は、こういうことなのかなと感じさせられました。いや、単に粗いプラトン主義? ともあれ、イデアの抜け殻としてのリアルがある、みたいな。
【木澤】 暗号通貨の例に見られるように、最近ではデータの方が逆に複製しづらくなってるんですよね。公開鍵暗号という堅牢な暗号方式のおかげで。だから逆に3Dプリンターが発達したら、物質世界こそがどんどんコピー可能でバーチャルなものになっていくのではないか。というのも、物質には秘密鍵も公開鍵も備わってないからです。
【ひで】 印鑑とか完全に複製可能ですから。
【木澤】 紙幣とかも本来ならものすごく複製が簡単なはずで、それを凝った透かしとか作って今まで何とか誤魔化し誤魔化し流通させてきた。でも暗号通貨は秘密鍵が破られない限り複製/偽造はできませんよね。「3Dプリンタで生産されたものはセミの抜け殻」という比喩は本当に面白くて、リアリティ、あるいはイデアとしての常に更新され続ける生々流転のデータがどこか超越的な領域(=イデア界)にしまい込まれていて、この物質世界はそのデータから一時期的に出力された、つねにすでに過去としての痕跡に過ぎない、という世界観。この話でなんとなく思い出したのは『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』という認知科学の本で、人間の脳は常に0.5秒間遅れて世界を認識している、すなわち根源的な遅延が「現実」との間に横たわっているという…。
【暁】 この辺を読んだときに、「デリダっぽい」と思いました。
【木澤】 デリダは「テクストの外部はない」と言ったわけですが、実はそのテクストの外部に「差延」としての世界それ自体が広がっていたという。

■ ロボット――石黒浩

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石黒浩と自分そっくりにつくった「ジェミノイド」 Science 2014年10月号

【木澤】 この石黒っていう人、典型的なマッドサイエンティストですよね。マルクス・ガブリエルが日本に来たときに石黒さんと対談したんですけど、ロボットを見せたときにガブリエルがめっちゃニガい顔をしていました。
【ひで】 なんでニガい顔をしていたんですか?
【江永】 ドイツの方だと科学技術礼賛とナチズムの結び付いたイメージが根強く、科学技術礼賛に対して拒否感があるらしいとの風聞を耳にしました。
【ひで】 この石黒さんって古文が老け顔になったときに、ロボットを修正するより整形手術のほうが安いって言って、整形手術していましたね。
【木澤】 サイコだ。
【江永】 ポール・ド・マンが、自叙伝を論じるなかで、自叙伝の企図から人生が生まれたり、自叙伝に書けるような行動をしようとする人生もありうる、みたいな話をしていました。
【木澤】 日本の私小説作家にもそういうノリって結構ありますよね。
【江永】 もっと俗に、あとでネタにするためにやばいことをする、みたいな型と言えるかもしれません。
【暁】 いまのSNSにもそういう人って溢れてそうですよね。アンドロイドに合わせて自分の顔を加工する、インスタの加工後の顔に合わせて自分の顔を整形する、みたいな。

【ひで】 人間に似せたロボットをロボットって言っていいんですか? ロボットは労働するためのものであって、人間に似せたロボットっていうのは人形じゃないんですか?
【江永】 そこで作られているのは労働用の人造人間として造形されてきたロボットではなく、どちらかというとピュグマリオンとかの神話に出てくる、理想の人間になる彫刻、要は人間的な人形なのではないか、という感じでしょうか。
【木澤】 102頁で石黒さんが、接客業のマニュアルを、ロボット向けのプログラムだと思って書くと逐一書ける、とおっしゃってますね。
【ひで】 これって経営者としては普通の視点なのでは? 現場で判断されたら困るので、できるだけ網羅されたマニュアルを渡す的な。
【木澤】 石黒さんはもっとヤバいことを考えている気がする。
【ひで】 人間ってすごく良くできたロボットなんですよね。階段の昇り降りもできるし、窓を割らずに一番いい力加減で拭くことができる。
【江永】 こういう言い方は問題ありますが、人間がすごく扱いやすい道具は、人間ですよね。曖昧な指示でも動いてくれるし、動きの汎用性も高い。いっけん極論に映るにせよ、例えば宇宙船に「人間をコールドスリープして積んでおいて、10年くらいかけて教育して出力すればロボットよりも壊れにくいロボットとして働く、というのはあり得ると思います」といった話もあるようです(落合陽一、中谷一郎「本当のロボット社会」第二回、落合陽一の発言。http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/3351?page=4)。
【暁】 攻殻機動隊でも、「社会の諸々の規格は人間が一番使いやすい形になっているのだから、人間型のアンドロイドが合理的なんだよ」ってタチコマちゃんたちが話すシーンがありましたね。

【江永】 心ある振舞いをするように強いる権威的な物言いをするはずの想像上の敵に対して放たれる、「はっきり言うと、心もないくせに「心」なんて言うんじゃないよ、って思いますね」(89頁)という言は不穏さを帯びていますが、ここで言わんとしてることが、心って人権と一緒で教育しないとつくることができないし、つくり方次第である程度可塑性のあるものだ、って話なら、理屈はわかる気がします。で、もし自由と人権は両立しないと言いうるのであれば、自由と心が両立しないこともありえますよね。まさしく、安藤薫『統治と功利』(2007)という本では、自由も自律もそれ自体で尊いとは見なさずに扱い、統治技術が十分に発達すると考えた上でではあれ、抑圧装置としての「人格」からの諸意識の解放を目指すような、「人格亡きあとのリベラリズム」なるものが論じられています。
【木澤】 心が無条件で人間に備わっているという普遍的な前提的価値観がこれかも保証されるとは限らない。オルタナ右翼がNPCミームっていうのを言ってて、左翼には心がないって言ってるんですよね。このあたり、哲学的ゾンビ問題などを思い起こさせますが。傑作だなと思ったのは、NPCミームの発端となった4chanの書き込みが、一種の輪廻転生理論をベースにしててるんですね、つまり、この地球上には固定した量の魂しか存在せず、それは輪廻を通じて不断に循環している。だが地球の人口増加率は加速度的に上昇しているので、魂の数が足りなくなって、必然的に抜け殻の肉塊が発生しているはずだと。その魂のない抜け殻が今のリベラルだって彼らは言ってるんですよね。SNSを見渡しても、リベラルは Botみたいに常に同じことしか言っていない、みたいな。

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出典:国連人口基金東京事務所 世界人口の推移グラフ https://tokyo.unfpa.org/ja/publications/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%EF%BC%89

【江永】 それに反論するのは、魂が実在しないとするか無際限に増えるとするか、何にせよ、形而上学的な議論がないと難しそうですね。
【ひで】 この本では「魂は実在しない」という主張も出していますね。
【木澤】 シンギュラリティが訪れたら、魂自体をオープンソース化して、人類が一つの魂を共有できるようにすればいいんじゃないですかね、人類補完計画的な。魂の有無や質の差で喧嘩するのがバカバカしくなりますよ。

■ AI(人工知能)――松尾豊

 【ひで】 このインタビュー先の人工知能の人も、作者に比べて醒めてました。
【江永】 スーツを着ている姿を見せる写真にする方は、社会化されているから、醒めている。逆に、第三章の肖像写真は、自分そっくりのアンドロイドと一緒に写っていて、エキセントリック。安直で粗雑な関連付けですが。
【木澤】 究極の人工知能は未来に対する完璧に近い予測力を持っている、というようなことが話されていて、ニックランドっぽいと思いました。たとえば人工知能が何十年後かに「この世界は近いうちに滅びますよ」って予測を出したとき人間はどうするのかなと。そういう予測が出たら人間の行動も変わるじゃないですか。でもそうすると未来も変わるはずだから、その変化も当然人工知能の予測は織り込んでなきゃ駄目なはずですよね。結局、人間の側が何をやっても世界は滅ぶ宿命になっているのかどうか。そういった再帰性の問いに興味があります。
【ひで】 アーサー・クラーク『90億の神の名前』ではコンピューターがそれとなく・潜在的に世界を終わらせる操作をしてしまって、世界が滅ぶんですよ。チベットでは90億いる神の名前を書き留める仕事を何代にも続けてきた僧侶たちがいた。その名前をすべて挙げ終わったとき、世界は滅ぶと予言されている。で、試しにIBMの技術者に神の名前を書き留める仕事を頼んでみたら、山に持ってきたコンピューターで1ヶ月で終わらせてしまったんです。その後、IBMの技術者は山を降りながふと星空を見上げると、夜空からは星が次々に消滅していってることに気付く。
【木澤】 人工知能の未来予測の問題は、結局人間の自由意志の問題ではないかと思ってます。完璧な予測ができるということは、そこに偶然が入り込む余地がないということですから。決定論的な世界ですね。
【暁】 だから石黒さんは人間に自由意志がない派なんですね。

【木澤】 156頁の、意識は認識が再帰したときに発生するものだという議論が興味深かったです。
【江永】 自由意志がないという話とも関わってくる。自由意志がなくとも、個々の言動その都度ごとで、見込まれていた仕様を満たせているか否か、また実際に満たせたか否かで測られる。自らのいわば品質を保証できる度合が、一貫性の高さとみなされている。
【暁】 私は人間に一貫性ってないと思いますね。人間ってこの人はこの一つの思想で筋が通っている、っていうものではなくて、外に出すときはそのうちのひとつだけを選択して出すようにしている。自分は自己同一性を持っているよ、という風を装わなければならない。でも実際には色々な思想を受容してるから、○○さんはこう言ってた~って風に紹介するしかないのかなとか。
【江永】 例えば私が5秒ごとにいろんな思想に切り替わっていろいろなことをいう。でも肉体は一つ。これでは一貫性があることにならないんですか?
【ひで】 ならないでしょう。
【江永】 例えば乱丁が起きている本は、それでも一冊の本ですよね。
【ひで】 乱丁している本は壊れているでしょう
【江永】 確かに、そうですね。うーん。まとめサイトみたいな具合で勝手に発言を拾って、複数の私を編纂してくれれば、というわけにはいきませんか……。ところで、第四章ではさらっと、長じて後にL・Rの発音を学習するのはコストがかかり過ぎる、「極論を言えば、死んで新しくやりなおしたほうがいいんですよ(笑)」(144頁)とあって、何か、まがまがしさを覚えました。
【木澤】 この一文に人生観が現れてて味わい深いですね。
【江永】 道徳についても「生存にプラスだから存在している」(146頁)とバッサリいきますね。
【ひで】 そりゃディープラーニングみたいな研究をやっていたらこういう考えになってくるんじゃないですか? 大量のインプットデータとそれに対する答え(教師データ)を機械に食わせて、中の評価関数を作っていく。これって進化論とかなり類似関係に有りますから。

【ひで】「 現実の世界でもAIに自己保存っぽいものを実装するのは倫理的にダメ」みたいな話が出ているんですね(148頁)。
【暁】 AIが自己保存を優先しつつ人類を幸せにしようとすると、マクロスプラスみたいに洗脳ソングを垂れ流すことになってしまうんじゃないかなとか。バーチャルアイドルの先駆けみたいな話なので、VTuberが盛り上がってるいま見るのも面白いんですよね。

■ ヒューマンビッグデータ――矢野和男

【ひで】 インタビュー先の矢野さんは加速度センサーのついた腕輪をもう10年も付けながら過ごしてログを取っているって書いてありましたね。みなさんFitbit付けましょう。めっちゃいいですよこれ。睡眠時間も正確に測れますし。木澤さんはどうしてますか?
【木澤】 寝たいときに寝るのが一番いいんじゃないですか?
【暁】でも固定時間労働に支配されてると、寝たいときに寝れなくてほんとストレスなんですよね…
【江永】 ジョナサン・クレーリー『24/7 眠らない社会』(邦訳2015)という本もありましたが、寝たいときに寝れないというのは一つの社会問題である気がします。


【ひで】 ぼくはこの一章に対して強く共感しています。人間をセンサーで外的に測って、いい感じのアドバイスを加えてあげる機構って良いですね。
【暁】 社員が幸福な状態で働いた方が効率がいいという話でしたね。自分はここで、T型フォードのことを思い出しました。フォード社は社員の幸福度が高い方が仕事も上手く行くので、従業員の余暇とかもちゃんと取らせて管理してるらしいんです。んで、フォードが覇権を握って宗教化した世界を描いてるのが、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』。十字架ではなく、フォードのT型を信仰する(笑)みたいな感じの世界なんです。労働者に余暇を与えた方が自社の車使って遠出するしWin-Winという話もあって、日本企業は見習ってほしいですね。あと二人の間の閉じた恋愛関係は個人のメンタルにも全体の幸福にも良くないから乱交しよう、とか出てきてめちゃめちゃ面白いです。
【木澤】 あの小説はディストピアSFって言われてますけど、ウエルベックの『素粒子』の登場人物のように、あの小説の世界を一種のユートピアと受け取る人も現代では結構いたりしますよね。
【暁】 この章に書いてある、デバイスに「今日は新しい人と会いなさい」などと管理される幸福は、突きつめるとすばらしい新世界になるのではないかという感じでしたね。
【江永】 犯罪者がこのデバイスを使ったらどうなるんでしょう。
【ひで】 犯罪を心身ともに健康な状態で犯しまくる。
【木澤】 結果にコミットするわけですね。

【江永】 ナイーブかもしれませんが、自分としては、「ぼくの仕事である「文学」というのは、一種のメタゲームであり、常に常識や定義が変更されていくものです。それは「法則化」されることへの抵抗も含んでおり、ぼくはそこに魅力を感じています」(197頁)という記述はグッときました。パターンの裏をかくというか、決まった型を特異な(常軌を逸するような)仕方で用いることの、幸せというか、よろこびって、あるのだなと思って。
【ひで】 ぼくは幸福はパターンか可能なものだと思っているんですが、幸福を逸脱に求めるやり方もあるんですね。

■ BMI――西村幸男 

【暁】 p204、めろんさんは脳だけになりたいと言っていますが、自分も脳だけになりたいんですよね。僕はすぐ体調を崩すんですが、その度に身体の不健康が思考にまで影響するのが本当につらいので。
【江永】 ここの会話もすごみがありますね。「脳だけになって、体全部の機能を機械に取り替えれば生物の限界を超えられるかもしれない。西村さんはそういう欲望はないんですか?」。で、「全然ないです」……(204頁)。

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ウィキメディア・コモンズ 水槽の脳日本語版 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Brain_in_a_vat_(ja).png?uselang=ja

【ひで】 西村さんも醒めてるな〜
【暁】 確かに、脳だけになったら感じ方も今までとは違うんでしょうね。草薙素子みたいに「ネットは広大だわ…」とか言いながら以前の自分とは違う概念になったり、逆に『楽園追放』みたいにネットのメモリが足りなくて全然自由じゃなくなったりしそう。
【ひで】 メルロポンティみたいに、実存は身体性に支えられてるみたいな
【江永】 私はいま接客業めいたことをやっているんですけども、どうも人と話すことによって幸福を得る身体みたいなんですよね。
【暁】 僕もこうやって皆さんと話して、新しい刺激が入ってくるのは楽しいです。

【江永】 そういえば、マーク・フィッシャーって、左派加速主義と言ってしまっていいのですか?
【木澤】 スルニチェクがフィッシャーから影響を受けてますね。
【江永】 スルニチェクとかは、テクノロジーで社会主義を実現しようっていう感じじゃないですか。フィッシャーってそういう社会の話まで行かずに、資本主義リアリズム批判で止まっている気がしていました。
【木澤】 たしかにそうですね。ただ、絶筆となった『アシッド・コミュニズム』序文では、ある意味テクノロジーとしてのLSDが出てきますね。LSDで主体の認識を変容=加速させることで新しい共同体を実現させようという。これなんか左派加速主義ならぬアシッド加速主義ですよ!

【ひで】 この章ではエンハンスメントの話が出てましたよね。めっちゃ強い義足を付けて、健常者より早く走る話とか。
【木澤】 ある意味LSDを飲むのもエンハンスメントですからね
【暁】 僕も行動が脳の動きに追い付かないのをエンハンスメントするために、酒飲んでますね。
【ひで】 最近Twitterで流れてきていたんですけど、6本指の多指症の人って脳に別の領域があって、5本指の人より指をうまく使えるんですって。脳は可塑性が高いから身体が拡張されるとその使い方を取得することができる。だからこういうのって後天的にも取得可能なはずなので、ぼくももう一本指や腕がほしいな〜と

【木澤】 脳への刺激で鬱病が治るという議論 (222頁)、でもこれをやると麻薬中毒みたいになると。繰り返しになりますが、グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」ですよね。
【ひで】 これ麻薬と同じですよね。ポチッと押せば快楽物質が出るって麻薬と同じですから
【木澤】 それって何が悪いんですか? 単純に労働生産性が落ちるだけですよね
【江永】 報酬系を自分でいじれるようになると、報酬系の利用を前提とした教育制度とか、それで成り立っていた社会のもろもろが、すべて崩壊しそうですね。
【木澤】 社会はなくなってもいいんじゃないですか。
【江永】 たしかに、意思確認のプロセスがゼロの、都市とか組織とかが、つくれるのか、つくれたらどんな形になるのか、想像力をかきたてられます。フーコーのいう「自己のテクノロジー」って、いわば報酬系の自主管理(アウトノミア)の志向だったんでしょうか。
【ひで】 最近EMS(エレクトロニック・マッスル・シミュレータ)を買ったんですよね。筋肉に電気を与えて運動をしたのと同じこうかを与える装置です。でもアレって継続使用が難しいらしくて、なぜかというとリアルでやる運動みたいな達成感がないから。装置を付けると「ただ筋肉痛が起こって痛い」。報酬がないから続かないらしいです。
【暁】 僕もジムに通ってるんですが、「見た目を良くしたい」という正の願望では続かなくて、「ムカつくやつに目にもの見せてやりたい」という負の感情をエネルギーにした瞬間、ちゃんと続くようになったんですよね。あとは架空のご主人様に「筋トレで自分を痛めつけなさい」と調教されてると思い込んでやるのもいいですよ。

■ 幸福学――前野隆司

 【ひで】 受動的意識仮説についてはぼくも同じような立場を取るんですけど、自由意志を信じているアメリカ人には受け入れがたいんですね。一方でインド人はほぼ100%受け入れる。
【江永】 そうですね。この場だとスタンスの差はあれ、みんな概ねその仮説を受け入れる方向っぽくて、議論にならない。仮想敵になろうと思って、いま自己プログラミングを試みているんですけども、なかなか難しい。
【暁】 完全にこの場に世間一般の視点がなくなってて草です。まあそもそも「闇の自己啓発」に集まってる時点で、世間になじめない人の集まりとも言えるかもしれませんが。

【木澤】 ちなみに闇の自己啓発って「暗黒啓蒙から取ってるんですか?
【江永】 字面的には、そうですね。ダーク・セルフ・エンライトメントがあってもいいのではないか、と。
【ひで】 常に犯罪のことを考えたりとかね
【江永】 ダークと付けなくても、巷の自己啓発本の中には労働基準法違反といった反社会的行為を連想させる内容が散見される気もします。そういうのはダークというか、単に蔓延している違法行為の看過なのではないかとも思いますが。個人的には、自己啓発言説群の覇権的な価値観に抗いながら、いかにして自己を啓発していくのか、という問題意識が下地にありました。
【暁】 いつも闇のライフハックみたいなのを頂けてありがたいですね。

【木澤】 263頁の「幸せプログラミング」ってワードの強度やばいですね。
【暁】 幸せワークショップもすごいですね
【ひで】 272頁でちゃんと全体主義に繋がらないかってツッコミが入っている。本ではこれは大きな物語のようなものって言ってますけど、大きな物語じゃなくないですか?たしかに幸福になるかもしれないけど、中身は空虚な気がする

■ まとめ

【江永】 本の最初から最後まで、自由意志はないかも、みたい話をしてましたね
【ひで】 人間と機械の境目を探ろうとすると、機械だって人間の身体の延長だし、人間だって機械みたいなものだよって話になっちゃうと思うんですよね。だからこういう議論になるのも仕方ない。
【ひで】 コミュニケーションというか人類補完計画の方向性の話はあまり出てませんでしたね
【江永】 介入して操作するのが個人の身体の水準になりがちである印象を受けました。
【ひで】 大きな物語という単語を出すんであれば、テクノロジーによって社会がどう変わっていくのかという話をしなきゃいけないと思ったんですけど、あんまり出てませんでしたね。

【木澤】 先ほども言った、意識は常に0.5秒遅れてるという話、そして3Dプリンタが権利上すべての物質を複製できるようになるという話。物質にはリアリティがない、アウラがない。世界は常に0.5秒遅れている仮現の世界。リアルなのは脳の神経伝達物質と、ブロックチェーン上に記録されてる暗号通貨のデータだけ。
【江永】 世界とか現実というのがなくなるだけではなくて、いろいろな重み付けが根本的に変わってしまいそうですね。
【ひで】 リアルなのは神経伝達物質と、インターネット上のビットコインとかのデータだけ。[※江永注記:発言のダブり? 文字データの増殖? ]
【木澤】 結局、脳内の神経伝達物質などの唯物論的ファクター以外信じられなくなるとインテレクチュアル・ダークウェブの人たち(男女平等とかを否定する人たち)みたいになっていくのっかもしれないなと思いました。
【江永】 インテレクチュアル・ダークウェブの論者たちって、自然法則と法律の区別が融けてしまったような感じで、人間なら等しく人権があるのが自然な事実だとみなす相手を仮想敵にしているんでしょうけど、もしも人権が実は人工の製品でしかないとしても、それを廃棄する理由にはならないですよね。人権は不合理な迷信だという物言いに陥りがちな印象があります。不合理であることが自明に有害だという立場になってしまっている。
【木澤】 たとえ虚構でも使えるものだったらバンバン使っていっていいじゃん、ということですね。
【ひで】 この本でも「心があるということにしてもいいなじゃない」って形で終わっていますしね。
【江永】 理論に合わない実践を否定するのではなく、実践に合わせて理論を練り上げる。というのが大切なのだろうなと思いました。迷信だからとか、非効率だからとかで思考停止して、やたらに排除するのではなく、それの使い途や活かし方を少なくとも一旦は考えるべきなのでしょう。それが「心」であれ「自然権」であれ。
【暁】 確かに、欧米では宗教から実用的な要素だけ抽出したマインドフルネスが持て囃されてますが、日本ではそういう取り組みってあまりないような…。掘り下げたら楽しそうですが。

【暁】 この本は「心があってもなくてもいいじゃない」という感じのスタンスだったので、「心がない、人間じゃない」と責められてきた自分としてはちょっと救われた気がしました。結局、心の存在は証明できないけど、その人が求めるような「心の動き」を見せることで自分は敵ではないということを証明するしかないのかなと。あと僕は生まれてきたくなかったし、いつ死んでもいいと思ってるのですが、皆さんが「苦しみは薬でどうにかなる」とか「社会に自分の思想というウイルスを撒き散らすぞ!」とか言ってるのを見て、今回「闇の自己啓発」された感じがあったのも良かったです。

■終わりに

 ロボットの話から、幸福とは何か、そもそも人に心はあるのかなどなど、複雑なテーマになっていきましたね。次回読書会は、再び木澤さんの著作『ニックランドと新反動主義』と、『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』の、二本立ての予定です。お楽しみに!

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