メモ(少女・ゾンビ・加速主義)

2000字程度のメモ。「1.スケッチ」と「0.スケッチの前に」からなる。

1.スケッチ

 粗く手短にまとめる。――労働=消費の担い手の形象としての少女‐ゾンビは再検討されねばならない。飽くなき消費と疲れ知らずの労働。少女‐ゾンビの担い手は、まさに両者の紛然として見分けがたくなる領域に住まわされている(TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』[2011]、『ゾンビランドサガ』[2018]などを想起せよ。「私の戦場はここじゃない」と呟いて時を繰り返す暁美ほむらと、アタリが出ないからと席替えをするパチンコ廃人との同じさを想起せよ)。だから、疎外された労働者の怪物性を言祝ぐのはアイドルやVtuberなどの魔法少女性を言祝ぐのに似ている。この意味では、加速主義と百合嗜好は似ている。――自分以外の何らかの者たちが享楽を独占していると思い込み、しかもそこにある享楽は無限大のエネルギーだと見込みをつけている。――さながら、H・G・ウェルズ『タイムマシン』[1895]の語り手のように、イーロイたちの交歓めく百合物語に尊みを覚え、モーロックたちの狂宴めく暴虐物語に恐れを覚える、ヴィクトリア朝的な現代の末人たち。

 少女‐ゾンビの形象を言祝ぐ物語は批判的に検討されなければならない。「尊み」や「サイコ」の過大視は、根性論の端緒である。適切な仕方で統御をすれば無際限に労働してくれる無限大のエネルギーの源泉として、人類の愛憎や生死や狂気や悪意や病理や自由意志を措定するしぐさは、いずれも、現状で行使されている搾取とあまりにも親和的である。――要するに、生存と労働を二分した上で同一視する無分別に陥っている。――加速主義者の論の難点は、おそらく、人類が、資本主義が求める労働者に見合うほどには、十分に一途に、欲深くはいられないという、その使えなさだろう(だから、特異点に期待するわけだ)。――かつ同時に、革命の担い手としても道具としても、十分に一途に、欲深くはいられない。人類は、役畜としては使えない。――人類は、公共の福祉に資する(それが、現状での野合への益を指すのであれ、ユートピアでの連帯への益を指すのであれ)益獣とみなすには、あまりに野放図でだらしなく、不純な力の混合した継ぎ接ぎの物体であり、――少女にもゾンビにも少女-ゾンビにも成りきれず、しかし無能にも有能にもなり、ときには能率の測り方が異なるところへと逃走しさえもする、害獣とも呼びがたい、利害の基準さえ再設定するように強いる、不可解で凡庸な獣の一種であるのだ。

 だが、不可解で凡庸な獣の身体、その不純な力によるゲームのリセットを肯定すると言いつつ、自分から見て思い通りにいったりいかなかったりするように思える出来事に一喜一憂するうちに、いつしか、見世物に文句を付けつつパンを口にするだけで、何かした気になる。そんな風になっていくのかもしれない。――加速主義者であれ、あるいは、その批判者であれ。

0.スケッチの前に

 少女、ゾンビ、加速主義。これらのいずれの記号にしても、学知がやがて包摂するはずだ(あるいは、もう包摂している)。よい文脈とわるい文脈、よい解釈とわるい解釈、よい意味とわるい意味。これらを取捨選択し、いつの日にか、学知はしかじかの記号たち、その各々に、相応する地位を認めるだろう。それらのしかるべき関連付けを済ませることだろう。学知は個々の身体に依存しない。ある身体の制作した記号は保存されて、保存されたその記号に曝された別の身体が、それらを、不精確に複製する。つまりまた別の記号を生産する。ここでの個々の身体は、しかじかの学知の継承と発展、要するに、しかじかの学知の終わらないバージョンアップのために作動する、替えのきく部品である。――これが学知の理念である。だから、「巨人の肩の上に乗る」というよく知られた比喩に、以下のような二次創作を付け加えよう。――この巨人は腐り落ちていく自らの身体を補うため、いつでも新鮮な身体が肩の上に乗ってくるのを待ち構えている。――学知は、それ自らの生き残りと持続可能な発展とのために、ホモ・サピエンスの身体などを使用している、巨大装置である。

 批評は、そうではなく、個々の身体のためにある。ただし、個々の身体の生き残りのためにではない。個々の身体が、よりよい制作に向かうために、よりわるい制作を逃れるために、批評は使用される。批評は記号を生産する技術を提供する。批評は、その技術を実演で示す。ある息遣いや喉遣いが、たとえ楽譜を欠いていても、楽曲を聴きながら歌いながら学ばれるように、ある字の置き方と並べ方、ある文の書き方、ある記号を生産する、身振りや知覚、思考の型。それらが批評という実演から学ばれる。批評は、技術を、あるものに身に付けさせる。だが、そうであるならば、そこにもまた一体の巨人がいるに過ぎないのではないか。批評は、ある物語の物語り方を物語る物語に、過ぎないのではないか。批評の、その批評的たるゆえんと称されてきた部分は、つまり個々のスタイルは、コピペすべき文章またはバージョンアップすべき体系に紛れ込んだ夾雑物、巨人に寄生する余計者、あるいは、そういった雑多なバグたちの痕跡に過ぎないのではないか。消されるべき個々の逸脱、埋め合わされるべき未熟に過ぎないのではないか。一面では、確かに、そのように映る。しかし他面には全く別の相貌がある。概念が自らの複製を増殖させるためにのみあるわけではないように、また、物語が自らの複製を増殖させるためにのみあるわけでもないように、批評もまた、自らの複製を増殖させるためにのみあるわけではない。

 だからもし、対象の品質保証以上の何かとして、批評があるとすればそれは、いまこれを読む、その身体宛ての舞踏譜になっている。そのはずだ。――あなたがよい踊りを踊るように、よい制作をするように、そして、そのために、これがあるように。

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