リバ横_vintage

リバ邸横浜で管理人をした1年10ヶ月の記憶


横浜駅西口をでて、ハマボウルの前の川をまっすぐ進む

交差点を右折し、直進。ローソンについたら左折する。

目の前にこじんまりした商店街が広がるので

まっすぐ進んで左折。小道に入って42歩くらい歩いて左にある、赤い家。


もう、目を閉じても着けるのではというくらい馴染んだ15分の帰路

この距離に遠さを感じなくなったのはそう時間のかかることではなかった。


リバ邸横浜というシェアハウスを卒業した。


1年と10ヶ月前に、色々な人の力を借りてつくったこの家に

当初運んだ私物は、引っ越すとき倍くらいに増えていて

それは単に物理的な質量なだけでない気がした。


この家で起きたことはとてもまとめられない、なんせここから書くことはただの日常で、自分たちが当たり前にしている生活や文化の話だから。


当時、共同生活なんてまっぴらごめんな自分がいた。

それでもシェアハウスの管理人となったのは
多分ここがリバ邸だったからだと思う。

アジール(自由領域)なんですってここ。

それだけで「あぁ今つくらなくちゃ」って
直感してからは早かった。

代表の人や大家の人と会ったりして住人募集をかけて
40名くらいだっけ、すごい人数が集まった。

面接で選抜して、住人の輪郭が見えてきたところで
仕事とか、結婚とか、健康とか、色々な理由でキャンセルが相次いで

急いで住む人探したりとか、家賃はどれくらいで、共益費はどうするとか
人が住むのにどういったものが必要なんだっけとか、契約書の作成から何から何まで全部やってたあの時だけは忙しかった。

そしてなんとか人も間に合って、真夏に越してきたこの家はまっさらで

床と、壁と、天井だけで暮らしてたんじゃないかってくらい。

でも確かに、あの時からすでに豊かだった。


うちをつくってすぐに、手元にあったマスキングテープで壁を4つに区切って

人が繋がれる仕組みをつくってみた。

・なまえ 
・なにものか 
・自分のできること 
・求めているひと、こと、もの 
・連絡先

の5つをポストイットに書いて
4つのジャンルで区切った壁の好きな箇所に貼るっていうだけのものなのだけれど。

実際にいくつかマッチングはしたみたい。(モデルとカメラマンとか)



あとはミーティングもよくしてた。

「そもそもシェアハウスとは」とか「共同生活で大切なこととは」みたいな
面倒くさくなるようなテーマも議題にしながら、結構丁寧にミーティングしてた。


それからイベント。

色々なイベントをしたな。餃子食べたり、セミ食べたり、昼寝したり、作曲したり、海行ったり、ハロウィンしたり、クリスマスしたり、、。



自分が管理人としてやっていたことなんて正直それくらい。

足跡の視覚化と

根本から話し合える機会と

人の循環と繋がりの場づくり


羅列すると固くなるけど、言葉が持つ力の5分の1くらいはゆるい。

お金の管理とか、掃除のやり方とかその辺は苦手だから
全部お任せしてしまっていて

営業得意な人は、うちの家賃を交渉しに行って下げてくれたし
頭いい人は、一緒に契約書をつくってくれたし

ルールもないのに、みんながみんなできることをしてくれてたから
循環してきた家で、そんな強制力を持たないゆるい空気みたいなものは
、以前の住人が抜けた今でも漂っているから、不思議なものだ。


シェアハウスの住人という関係性は、なんとも面白いものだった。


学生時代、『パレード』という小説を読んだ。

それは都会のマンションの一室をルームシェアする5人の若者の群像劇で

そこではシェアハウスの関係性をパレードに例えていた。

パレードを先導するのは空気や、秩序で、それは実態の持たないものだ。
どんなに落ち込んでいても部屋に入ったらシェアハウス用の自分にならなくてはいけないし、シェアハウス用の自分を装う相手の表面より深いところは聞いてもいけない。

住人でいたければ先導する空気に応じた演技をして列になるしかない。そんな表面的な関係性の恐ろしさを描いた作品だった。


うちの場合はどうだったのだろうと振り返ると

表面的な関係性・・確かに空返事は行き交ってたし、過去何があったかなんて知らない。

空気・・いい空気感だよねーとお客さんに褒められることは多く、確かに独自の空気は流れていたのだと思う。

とはいえそこにパレードのような強制力があったのかと言われるとズレてくる。そこに流れていた空気はある種の「どうでもよさ」で、信頼と諦めが同居していた。

いつからかスーダラ節が流行歌となり、そんな歌が流れるパレードだから、とても人に魅せられたもんじゃない。それでも気づいたら、コミュニティのようなものはしっかりできあがっていた。

コミュニティっていう言葉もどこか違って、それを半分くらいゆるくしたくらいの、ふんわりした関係性の集まり。

でもそのゆるい集まりこそ、この家の肝だった。


「いつもの気のいい奴ら」がおよそ1年半でできてしまったのは驚くべきことで、それはむしろ、家を抜けたあとの方が実感できている。

いつもの気のいい奴らだなんて、家にいた時は面と向かって言えなくて
何かそれは家族にありがとうを言うのを少し照れくさく思ってしまうような、そんな感覚に近かったのかもしれない。

なんとなくできて、ルールもない、いつでも抜けられるし、干渉し合うこともないこのパレードは、きっといくつになっても続いていくのだろう。


話を戻すと、その後も本当に色々なことがあった。

リバ邸には「現代の駆け込み寺」というコンセプトがあって

家出をして駆け込んできた人や、DVにあって駆け込んできた人

やりたいことがわからなくて駆け込んできた人
インターンで地方から上京して泊まる家がなく駆け込んできた人

ふらっとお茶を飲みに駆け込んできた人

駆け込み動機の強度に拘らず、リバ邸、もしくは家入一真というキーワードにひっかかって、やってきた人たちとは、どこか同じ匂いがした。


新潟から来た変な学生と一緒に餃子パーティーをしたりとか

そこで初めて来たお客さんに餃子を全部つくらせたりとか(そんな彼がいまはうちに住んで管理人となりました)

勝手に経費でハンモック買って怒られたりとか

近くの古民家漫画喫茶の店長にテーブルをつくりにきてもらったりとか

初めて会った人の誕生日会をしたりとか

ラジオDJが1週間シェアハウス体験にきたりとか

夜な夜なスマブラに勤しむフリーランサー達に憧れたりとか

家出して自転車1つでうちに辿り着いた学生にご飯をつくったりとか

大阪からきた女子大生を1ヶ月泊めて、毎晩毎晩話を聞いたりとか

その子が成長していく姿を心から嬉しく思ったりとか

朝起きてリビングに行くと知らない人がたくさん寝てたりとか

みんなでラジオに出演したりとか

インフルエンザに集団感染したりとか

たくさんの人生相談を受けるうちに、自分のできることが分かってきたりとか

会社を辞めて旅に出て起業したりとか

出会いも別れも酸いも甘いもあって


夜な夜な会社の愚痴を聞きながら適当に空返事してたことも

ボロボロのおでん屋台で壮大な企みをニヤニヤしながら語ったことも

アイドルのライブ映像に食い入って踊る姿を後ろから見てたことも

夜中にキャンドルを灯して適当に音楽会してたことも

気まぐれに始まるパーティーやドライブも

雑な会話が飛び交うキッチンも

ルールを無視して適当に描かれたポストイットで埋め尽くされた壁も
翳る庭のドクダミ、梅の木、畑も、ベランダから見える景色さえも

全て愛おしい日々だったと思える。


会社を辞めて独立できたのも、ここがあれば別にお金なくなっても楽しく過ごせると思ったことは大きな理由だし、何よりここの住人がリビングにふらふら集まって、当たり前に自由に過ごしている姿は、ほとんど自分の理想だった。


それでもやめた理由は3つ。


1つは長くいすぎたこと。

トップ(この場合管理人)が変わらない組織は大抵長く続かない。

変化し続けてこその持続可能性で、リバ邸は続いていかなくちゃいけないと

思った。


2つめは豊か過ぎたこと。

もう自分が何かやらなくても勝手にまわっていく文化ができていたし

生活インフラが完璧に整っていた。あそこで生活をしていくのはとても簡単だったのが理由。

今はボロボロの古民家を家を直しながら4人で暮らしているのだけれど

何もなくて、全然豊かじゃないからこそ、豊かにしていく過程を経験できる。

自分だけがよければそれでいいとは思ってないから
その過程をしっかり身につけたいと思った。


3つめは変わりたかったこと。

スポーツを変えたり、仕事を変えても

新スポーツ、新仕事とはならないけど

生活を変えると新がつく。

新生活とはそれほど劇的なものなんだと思う。

一緒に住む人、街、住居、物、全部変えて

劇的な変化を生み出したかったのは今年するある計画のため。


以上をもって自分は家を変えた。

やっとつくれた理想の場所を手放すことを

何度も躊躇ったし
今後も後悔することがあるかもしれない。

それでもあの家での生活は、思い出せば時間軸を超えて

ふと口角が緩む感覚を与えてくれるだろう。


リバ邸横浜での生活は


なんでもないただの共同生活でもあり

人生を凝縮して詰め込んだ今までにない濃い時間でもあった。


大切な友人たちができた、大切な体験を味わえた。

ここをつくって、本当に良かった。

リバ邸横浜を通して出会えた皆さんへ

今後ともよろしくー。


リバ邸横浜 元管理人 あめみー










「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。