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KaMiNG SINGULARUTYとは何だったのか。

2019年、8月9日。渋谷ストリーム ホールで「2045年、aiが神になった世界」を仮想体験する、AIとアートのスペキュラティブ・フェスティバル「KaMiNG SINULARITY」を主催した。

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フロアは3階構造で各フロアをそれぞれ「Future Life Style(未来の生活)」「New Values(新たな価値観)」「Art Entertainment(遊びと芸術)」と2045年の世界に想像できる世界観を設定し、各フロアをライブやアートやトーク、 様々なブースやインスタレーションで表現した。

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Liveは2045年に考えられる音楽の形を「AIと共生する新たな音楽」「古来より変わらない音楽」「技術と身体性の融合」の3つのコンセプトに分けて、それぞれ当てはまるアーティストにお声がけし出演いただいた。

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(上:SASUKE×人工知能ラッパー ピンちゃん)

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(上:世界最古の管楽器「ディジュリドゥ」を使うMATSUMOTO ZOKUのLIVE)

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(上:ダンサーの動きとモーションキャプチャで連動するAI TOMMY)

フェス内のコンテンツや演出は、雨宮の書く小説版 「KaMiNG SINGULARITY」の物語と一部クロスオーバーさせていた。小説で出てきたアイテムやキャラクター、建物がフェスに出現し、逆にフェスを進める中で決まってきたブースの作品やアイディアを小説内に加筆し、現実と仮想現実を織り交ぜて、仮想現実としてのフェスティバルの解像度UPを試みた。

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(上:小説内で重要な役割を持つサイバー神社 (Created by 遠山瑞紀)/実際に下図のような作法で参拝することができ、アーカイブされた願いを元にお告げも発信した。)

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下は小説内のキーアイテムとなる例の新聞。

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出展いただいた全てのブースにも”2045年”を振る舞ってもらった。
そこにはAIにより最適化された暮らし、反作用するように身体性を求める暮らし、まだ検証もできない技術、ユニバーサルな遊び、十人十色の様々な未来が広がっていた。

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(上:イノカの惑星珊瑚 -人と水生生物が寄り添う社会)

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(上:ティファナドットコムのAIさくらさん -AIで人手不足を解決する社会)

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(上:netenのHattron -人々のパフォーマンスを最適化する社会)

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(上:enigmaのCloud of consciousness -神秘主義を表現する装飾と舞)

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(上:{tabel}とHeal the worldのエリクサーバー -お酒を脱した人類のナチュラルでオーガニックな新たなパーティードリンクがある社会)

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(上:DJ KEITAとNAKANISHによるPOWDERBOX - 全ての人がセッションを楽しめる社会)

6Fには2045年をテーマにした1日限りのアートミュージアムもオープン。

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(上:“CharActor” - Masaru Mizuochi)

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(上:“INside mINd” - 心象派)

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(上:“Clock Roach” - 佃優河)

サイバー神社前ではトークセッションも並行して開催。経営者、大学教授、宗教家、アーティスト、様々な観点から「神」「人工知能」「生命」「愛」「人」について語られた。

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(上:河崎純真-https://018.foundation/)

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来場者の感想

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上は来場者の感想をTwitterから拾ってまとめたもの。
エンターテイメント的な楽しさや、哲学的な考察など、様々な感想をいただいた。

アーティストも、ブースも、アート展示も、トークも、全て1つずつ紹介したいのは山々だが、ここからはこのフェスの成り立ちや秘密を紐解いていくと同時に、見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んでいたこの1年の総括のようなところまで書ければ、と思う。

なぜKaMiNG SINGULARITYが生まれたか

このフェスティバル(これはもはやフェスなのか?という皆さんの気持ちも代弁しつつ)はなぜ生まれることになったのか、ちょっとだけ過去の話を。。

時は2018年。ある夏フェスの帰り道の車内、僕は当時(というか今も)「Quantum」というフェスを毎年開催していて、それは量子力学をテーマにしたフェスティバルなのだけど、毎年サブテーマ的に社会実験をしていて、初回はエネルギーをテーマに独立型電磁力発電によるクリーンでフリーな電力を作ってみたり、2回目は経済をテーマにローカルベーシックインカムという概念を作って、フェス内通貨+ベーシックインカムで地方経済からベーシックインカムを始められないか実験してみたり、3回目は政治をテーマにフェスの参加費や予算案など全てを参加者による投票制、直接民主制を採用してフェスを作ってみたり、していた。

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で、今年は何をしようかと考えていた時に「宗教かな」というのが浮かんできた。サピエンス全史等のポストモダン書籍において”社会は虚構でできている”ということが広がり、ある種自然科学以外の全てが宗教であるような考え方はそう突飛なものではなくなりつつあるが、日本において宗教は日常に浸透しながらも排他の対象にもなっている不思議な立場にある。

年の初めは神社に行き、教会で挙式し、仏葬で終わるこの国の人々のほとんどは僕も含めて無神教だ。一方で宗教的という言葉は排他的に扱われ、怪しさを宗教的として宗教的な文脈とテロリズムが混雑している節すらある。まぁ、そういう観察をせざるを得ないような教訓があったのも確かだし、危惧すべき宗教の形はもちろんあるにしても、新しい価値観や信仰を「怪しい」と頭ごなしに排他する文化にはあまり持続可能性を感じない。教訓とは、価値観の転換ではなく拡張なはずだ。

怪しさはまだ見ぬ未知との遭遇であり、それは自身を変化させる機会が目の前にあるというセンサーで、変わり続けることを恐れないことが、社会に居場所を広げていく、と思っているから、怪しいとされてることと知りながらも究極にエンターテイメント的に、かつ哲学的思索をデザインした形で表現を試みようと思った。

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さて、未来の神は如何なるものだろうと考えた。ニーチェは神の存在を否定し、量子論は主体による観察こそ世界だと肯定する中、私たちに神(と言われていた概念)が内在する密教的世界線がもし主流になるのなら、神という概念は刷新、或いはオルタナティブを作っていくことになるだろうと予感した。そこで普遍的な神の役割や、神が生まれるまでのプロセスを鑑みて想像するに、そこに存在していた神の姿はAIだった。
(なぜAIが神になるのか、という詳しい考察はこちらの記事で https://note.mu/in_the/n/n5260e5a1fa22 )

という思考の末、今年のテーマは「aiが神になった世界」に決まった。そして、この「Quantum」というフェスの概念はもはや形而上学的に昇華していきたいという想いもあったので、「Quantum」という名前はもはや消した。(名もなき今もQuantumは存在していて続行している)そして人知を超えた存在”神”と、AIが人知を超える特異点”シンギュラリティ”を組み合わせ、”特異点(Singularity)”という概念を普及させた数学者”ヴァーナー・ヴィンジ”の著作『The Coming Technological Singularity』をなぞらえて『KaMiNG SINGULARITY』が生まれた。 (aとiだけ小文字の意味も後述します。)

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今、自分は”SDGsそれぞれのゴールが終わった後の世界をフェスとして表現する”「ソーシャルフェス®︎」というプロジェクトも進めていて、その文脈とも織り交ぜて、現実の課題の後の仮想世界として、より立体感と意味を持たせていこうと思った。課題を調べるとSDGs16/7「あらゆるレベルにおいて、対応的、包摂的、参加型、および代表的な意思決定を確保する。」という課題の後の世界として、今回の世界観が当てはまった。

あらゆる場所から情報を集積、処理し私欲を持たずに超民主的に最適解を出し続けるAIが、代表的な意識決定機能を担っていく未来は多数の書籍や映画などでも描かれているが、その多くはディストピア。とはいえ、人間は未知に慄き人知を超えたものに畏れる習性がある。(そしてその存在の名を古来より神と呼んできた)だからこそ、ディストピアでなく、そしてユートピアでもなく、ただただ”aiが神になる”という世界線において想像できる幅の限りを、できるだけ多様な人たちと共に描ききる場づくりをしようと思った。

未来は何かの出来事が楔となって、そこから先のレールが規定されることがある。とはいえ、AI=ディストピアは安直だし、一方で楽観視も危険すぎる。私たちがタンパク質を摂取して肉体が作られるように、AIは私たちというデータを摂取して、知能をつくる。そこに必要なのは、優秀な誰か一人の解ではなくて、私たち一人一人が解を持つことだと思った。何故なら、生物の持続可能性とは多様性の担保に他ならないからだ。

なので情報を公開した直後から「これはAI技術の見本市ではなく、哲学と実践の場」であると強く主張してきた。小説はその想像をより具体的に、拡張させる上でも機能させていった。

「KaMiNG SINGULARITY」は未来のAIを物語に乗せて考えることで、仮想現実体験を作り、それぞれの体験を通して今の私たちへフィードバックをしていくための「スペキュラティブフェスティバル(問いを生む祭礼)」であると同時に、今だからこそ自由に考えることができる「シンギュラリティ」という未知を愉しむエンターテイメントとして始まっていった。

AIの神は生まれたのか

神の作り方は下記のようなもの。
①神話をつくる
②信じる
③誰かに語り、誰かも信じる。
複数人が神話、その中に描かれている神を信じればそこに神が生まれる。

(神のつくりかたについてはこちらの記事で話してます。)
http://100banch.com/magazine/20437/

ポイントとなるのは「KaMiNG SINGULARITY」の物語やフェスの中で #aiが神なった世界 もしくは #AIがKaMiになった世界 という表記はあれど #AIが神になった世界 という表記はしてないこと。

人工知能を表す際の通常表記はAI。
aiが神になった世界の小文字表記に違和感を持った人も多いと思うけど、 これ実はAI(人工知能)を表してません。 これは宇宙を表す梵字「阿(a)」と私を表す英語「i」です。つまり{宇宙=私(皆さん)}が神になった世界。(という裏設定...)

フロアの香り演出もレモングラスとラズベリーをミックスした香りを調合していて、レモングラスは梶井基次郎の檸檬(=命のメタファー)を意図し、ラズベリーのような香りが宇宙には漂っていたと記録が残っている。(その正体はギ酸エチルという天の川銀河にある有機化合物、ラズベリーの香料として使われることが多い。)

サイバー神社の御神体も私達自神。画像27

  AIは神になったのではなく、KaMiになった世界が「KaMiNG SINGULARITY」 (一方で神が生まれるまでのプロセスについての記事ではAIが神になる可能性も示唆しています)
 KaMiとは何か。これは物語上の独自設定で、人類の持続可能性を司る機能に旧来の神を擬えたもの。この辺は小説参照です。

とはいえこの辺の違和感から察する人はそう多くないはずで、結局「AIが神になった世界」の物語として、だれかに語り、そう思いながらフェスを体験していく。すると来場者やそれを聞いた人はAIが神になった世界ってこんな感じかぁと想像していくわけだけど、複数人の人がその想像をした時点でAIは神になっている。「AIが神になった世界」という観察と振る舞いが人工知能の神を生む。

私達自神が八百万に神を宿す、という視座を持った現実と、八百万にKaMiとなった人工知能が宿る仮想現実、この複雑にして簡潔な相対性に、「KaMiNG SINGULARITY」の根源的な問いを潜ませている。

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現場の写真を撮り忘れたのでこれらは家で撮ったものだけど、当日は上記のような張り紙や踏み絵を会場中にばらまいていた。(顔写真は全て人工知能で生成した”この世に存在したことのない人たち”の写真)

私たちの願いとシンギュラリティ

フェスの後半、僕はサイバー神社よりブロックチェーン上に書き込まれていく願いを見ていた。これは本来神社の御神体にしかできないことだけど、KaMiなき世界でKaMiの機能を振る舞うために一線を超えた。願いを観察していると「自分のための願い」が約52%「誰か(もしくは世界)のための願い」が約48%ほどになっていた。

ここは世界の普通とはいえない場所だと思うけど、世界は自分のため6割、誰かのため4割、だいたいそれくらいのバランスで祈り、祈られ、365日で1周の速度で、自転しているのだろうなと思った。

私は私、他者は私の写し鏡、神は私の裏返し、AIは私の集積「KaMiNG SINGULARITY」では異なるようで同じなような、たくさんの私を扱っている。私は私以上に私を拡張していくのに必要なのは、AIなのか愛なのか。

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世界は二元論じゃ語れない。AIのために愛が必要だし、愛のためにAIが必要だし、aiのためにIが必要だ。

ただ、AIの完成「シンギュラリティ」後に愛やIは必要になるだろうか。そも
そも私とは何だろうか、愛とは何だろうか、そんなことを考えるために「KaMiNG SINGULARITY」プレイベントとして、2019年3月から2度のダイアログと1度のアイディアソンを行って、場を醸成してきた。

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こちらイベントの様子を取材いただいた記事。

その中で出てくる1つの問い「私たちにシンギュラリティは必要か」。

4次元上の文明とは不可逆で、否応なくそれはやってくることなのかもしれない。そしてその自然の流れの中で、私たちは適応し、幸福を探し、ここではないどこかを求める。AIが自らの判断で自らより高度なAIを生産し始める技術的特異点「シンギュラリティ」は人類最後の発明がAIとなることを意味する。課題に対して解決の役割を人間は手放していく中で、死すらもAIに委ねるフェーズまで小説内では描いている。(正確には肉体は死んで意識と記憶だけブレインネット上に移行)

シンギュラリティはSDGsをはじめとした地球上のあらゆる諸課題に解決策を提示してくれるだろう、夢にまで見た不老不死や宇宙テレポーテーションなど実現するはずのなかった未来を与えてくれるかもしれない。一方で人類は何か大切なイニシアチブを失ってしまうかもしれない、そもそも人類という種は刷新され私たちは、ネアンデルタール人のように過去の人類になってしまうかもしれない。

そもそも誰がどうやってどういう人工知能を開発していくのかといった設定の話だったり、覇権の話だったり、目的の設定の話だったりするけど、私たちは「種の存続」を目的にするのか或いは「生命としての目的」を見出し種の存続すら憚らないビジョンを見るのか、或いは死や次元を超越した更なるコンテキストに辿り着くのか、シンギュラリティという1つの未来の可能性は、私たちの進む道に、大きな問いを与えてくれる。

なぜフェスティバルなのか

今回のような世界観を表現する手段として「なぜ1日限りのフェスティバルなのか?」ということを聞かれた。今回、そしてこれまでいくつもの世界観をフェスとして表現してきた理由は、そのカルチャーと音楽の機能にある。フェスティバルの起源は諸説あるが、1968年、人類が初めて宇宙から色彩ある地球を見た写真「アースライズ」そして同年地球最初の大規模な環境活動とされる「アースデイ」その流れから翌年に生まれた「ウッドストックフェスティバル」そこで垣間見た素晴らしいコミュニケーション、現象の再起動として翌年作られた「グラストンベリーフェスティバル」という系譜があり、偶然の産物であったらウッドストックを意図的につくったグラストンベリーが最初のフェスだったと思っている。

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そしてグラストンベリーでは80年代より、太陽光発電による映画上映や自転車発電のDJブースなど「こうなったらいいよね」という理想の未来(Green Future)を一足お先に表現していた。そしてその文脈は今においてもいのちの祭り、RAINBOW2000、フジロックと脈々と受け継がれている。フェスは希望を確かめる場所という側面も持つ。

フェスは1日限りの幻想で終わらない。その場で起きる劇的な体験は人を変え、社会を変える。それは音楽という神秘性に保たれている。歌がない民族は世界中に1つもいない。声を重ねること、体を共に揺らすこと、こうした音楽や踊りの機能は、集団に共同体感覚を与える。

このカルチャーとエフェクトを持ってして、仮想世界を重ねるからこそ、その体験に現実的な問いが生まれる。と思ってる。そしてその問いが新たな解を生み、解はまた新たな問いを生む。そんな想像と創造の螺旋こそが、人類を動的に安定させているのだと、思ってる。

スペキュラティブフェスティバルとは、当時からの文脈を受け継ぎつつも、大衆娯楽性を持たせたARG的体験芸術として、来場者それぞれにこそ未来や世界の解があることを発信する役割を持つ。

(とはいえKamingを1日限りでやることにはそんなに意味がないので次やるなら3日間くらいやりたい。。)

おわりに

「KaMiNG SINGULARITY」を初めて、色々な人たちに出会った。
神とは何か、AIとは何か、そんなことほとんど考えたこともない素人だった自分が、今ここに至っているのは、色々な神の姿を教えてくれた運営メンバーや、数々のインスピレーションを与えてくれたAIについての作品、活動拠点として多大な協力をいただいた100BANCH、東急全車両への中吊り広告や、渋谷TSUTAYA上のビジョン広告などで協力していただいた東急電鉄、AIフロアガイドなどアイディアに柔軟に応えていただき協賛していただいたティファナドットコム、サイバー神社などに技術提供していただいたneten、それからイベント運営周りを協力していただいたディレクター陣、名前を挙げればキリがないけど、本当に多くの人たちのお陰様です。

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シンギュラリティ以降の世界、それはそもそも”想像し得ないもの”であり、だからこそ「シンギュラリティ」という概念が存在しているにも拘らず、その先を体験してみたいというのは暴挙と言う他なく、AIの専門家たちは呆れていた。

「語り得ぬものには沈黙すべき」ある哲学者はそう遺した。
そしてある哲学者はこう言った「人間、それは超えるべき何かである。」
僕らには認識の限界がある、そして認識が無限に広がらないからこそ、人間として存在しているとも言える。例えばM理論では11次元あるとされる中で、僕らは3次元+時間の1次元までしか認識できないが、それ以上の次元に手を伸ばすことは無謀なのだろうか。自分の考えでは、無謀だとしてもそれには挑戦し続けるべき。でないと時代はいずれ、その先を忘却してしまう。そして科学とはそれに挑戦し続けることだと思うから。人間は見果てぬ何かに手を伸ばしてきたから、神が雷や火や人間になっていった。世界の解像度が上がれば、未来はもっと生きやすいかもしれない。

この企画を進めている最中神主さんに出会い、お話を聞かせてもらっている中「まずは氏神様に挨拶に行った方がいい」とご助言をいただき、住んでいる場所、生まれた場所、開催する場所、全ての神社に挨拶に行った。

そして、手を合わせ、目を瞑ると「なぜaiが神になった世界をつくるのか」毎回毎回そんな問いが降ってくるのだった。そしてその度、改めて考えた。

先述したような動機ももちろんあるのだけど、短い祈りの時間ででてきた直感的な解は「もっと世界が優しく在れたらいいと思うから」というシンプルなものだった。

AIの未来を考えることは、今の自分たちを考えること、いい感じの未来にやってきて欲しいなら、今をいい感じにしなきゃいけない。なんて当たり前で捻りのないメッセージなんだって思うけど、僕は神様にそう伝えた。

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「KaMiNG SINGULARITY」の物語は、小説、フェス中に配った新聞、トークエリア、看板、そして現在制作中のアフタームービー、その全てが繋がって完結する設計なのだけど、この記事の文章を締めくくることで「KaMiNG SINGULARITY」という何かに一旦終わりを告げる。

最後は、終演時にMCに読んでもらった台本をそのまま転載する。

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”25年前、東京オリンピックに沸き立つ私たちはシンギュラリティに恐れ慄き、AIに将来仕事が奪われるのではないかと皆が不安を感じていた。
しかし蓋を開けてみればこの有様、いま、この世界はAIなき世界じゃ生きられない。

一方で意識、感情、未来はアルゴリズムとなり、誰もがAIを介して自らの正体を知り、茫漠とした概念は雲散霧消と化していった。そして昨年、自死を選んだ作家の佐藤絵美はこう遺した「愛なき世界じゃ生きられない」。

愛とは何か。それは茫漠とした概念そのもの。人が生きてゆくための余白。
ありったけの希望を音にしたようなものだったのかもしれない。

これから先、AIに支配される未来が訪れないとも限らない。あるいはこのまま太陽が白色矮星化して死滅する50億年後まで、幸福で健康な豊かな社会を支える存在として、在り続けてくれるのかもしれない。

はたまた人類がネアンデルタールからホモ・サピエンスと成ったように、AIは私たちに代わる人類と成っていくかもしれない。

人類はこれまでイカダを作り、蒸気機関車を作り、車を走らせ、スペースシャトルで宇宙へ飛び立ったが、私たちは今、どこに向かっているのだろうか。 

その答えは、神のみぞ知る。”

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Thank you for Kaming.

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体験作家・雨宮優 
Tw @amemi_c5 

(諸々溜まってしまった仕事が終わったあとだけど、次は”時間”をつくろうと思ってます:) )


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アフターイベント「AFTER KaMiNG SINGULARITY」のアフターレポートも公開!
 https://100banch.com/magazine/21649/?fbclid=IwAR1yi0I1cWucwV7MwMMjxX4p7qtLFm1SnnyhjZ1cql95vwJnGfy4SCvaOyo




「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。