【sample】THE CULT(※加筆修正前)

※2015年秋、文学フリマ大阪3にて発行した「THE CULT」の試し読みとなります。

※加筆修正したものを、2016年11月に開催された、そうさく畑 FINALにて発行しております。

※通信販売はBOOTH(http://garbs.booth.pm/)にて行っております

 我々は、少女を信仰する。
 我々は、決して少女に恋慕を抱いてはいけない。

「てがしびれてうごかないんだ」と彼は言う。
 目の前の男は、車いすに乗って、ゆがんだ唇を懸命に動かしていた。そこから発せられる空気の振動を、あまり高性能ではないICレコーダーが音として拾う。傍には大きな窓があり、太陽が覗いていた。
「なんで、自分が、生きて、いる、のか、わから、ない」

 すべてをわすれてしまおうとしたけれど、からだをうごかすたびにあのこうけいがめにうかんではなれない。

「そうですか」
ICレコーダーの持ち主が、ぼんやりと言った。その肩越しに見える青空の下。新緑でにぎわう公園では、ホームレスが寝っ転がっている。その横を、高タールの煙草を吹かす一人の男が通り過ぎていく。
男が息をする度に、白い煙が空へ昇っていくのを、ホームレスはじっと見ていた。

まるで、そこに誰かがいるかのように。



第一話「起」

(1)正常と異常の境目についての供述
 
花崎は、一昨年の春に教員として採用された地方公務員の一人だ。大学で教育学を学び、安定した道だと思い採用試験を受けたところ、たまたま通ってしまった。教師という職業は世間的に見てもイメージは良いような気がしたし、地方公務員で安定した収入もあるということで意気揚々と就職を決めた。それがそもそもの間違いであったわけだが。
 実際に就労してみると、教師と言うものはイメージだけでつくられた職業であり、実態はそれほどよいものではなかった。校務分掌、テスト作り、学級経営、親睦会行事、対人関係の複雑さ。生徒が登校している期間の昼休みはほぼ皆無で、優雅にランチだなんて遠い話だった。休憩時間とはいえない休憩時間を取り、夜遅くまで仕事をして、家に帰っては倒れこむように寝る生活。こんなはずではなかったのに、という言葉が毎晩毎晩頭をかすめていった。
 そのうちに、その言葉は飲酒欲へと変わっていった。最初はビール一缶だった。しかも一番小さいもの。それは徐々にロング缶になり、時に焼酎になり、日本酒になり、ワインに変わる。限界が来るたびに胃液と酒が混じったものを口から滝のように吐く。飲んでも飲んでも酔った気にならず、ひらすら飲み続ける日々。部屋はアルコールの匂いがこびりつき、嘔吐する場所は選ばれなくなっていた。たまに来る宅配業者が最初は女性だったのに、最近ではいかつい男しか来なくなった。
(こんなはずではなかったのに)
 けたたましい目覚ましの音で目を覚ましたのは午前五時のことだった。薄暗い部屋の中を這うように動きながら電気をつける。適当に吊ってあるワイシャツを着る。アイロンをかけていないのでくたくただ。今日も昨日同様、酔っているのか、酔っていないのか、正常なのか正常でないのか分からない頭の加減だ。視界は定まらず足元はおぼつく。いつものように玄関扉を開ければ、ぐしゃり、と玄関に捨ててあったビール缶が足で潰れた音がした。わずかに残っていた液体が吹き出し足を濡らす。そんなことは気にならない。否、気にできない。
(俺は正常だ)
 花崎は自分に言い聞かせるように足を進める。毎朝の恒例行事となった、祈りにも似た自己暗示。俺は正常。俺はおかしくない。おかしいのは今の職場。おかしいのは俺じゃない。心の中で独白を繰り返していた。そして彼は、いつものように駅にたどり着き、改札をくぐり、いつものように駅のホームに立っていた。そのはずだった。
それなのに。
気づいたら仰向けになっていた。視線の高さがおかしい。朝聞いた目覚ましよりも、けたたましい警報音が耳に鳴り響く。ざわめく周囲。自分を見下す人、人、人。自分が何をしているのか、どういう状況にいるのかわからなかった。
(俺はなにをしているんだ)
「大丈夫ですか?!」
制服を着た、駅の職員らしき男が花崎に近寄ってきて声をかける。
「ええ、大丈夫です、が」
「本当ですか、」
そこまで言った駅員は花崎の顔を見て口をつぐんだ。一瞬だけ顔がゆがむ。
「……外傷はないようですが、頭を打っているかもしれませんので、医務室へ行きましょう」
「いや、大丈夫です。僕、仕事に行かないと、」
医務室へなど行っていられない。花崎は職場に出勤しないといけないのだ。大丈夫です、をうわごとのように繰り返していると、駅員はとうとう頭をかかえた。周りの人間も心配と呆れが混じった顔でこちらを見ている。
「俺は正常だ。大丈夫だ、」
そう言うと、もう我慢ならない、という雰囲気の駅員が放った言葉に、花崎は閉口した。
「あなた、すごい、お酒の匂いがしますよ」

 教職公務員が二日酔いで駅のホームから転落したというニュースは、マスコミにとって格好の餌食となった。自宅には連日報道陣が押しかけ、勤務先も対応に追われた。カーテンを完全に締め切った部屋にうずくまり、鳴りやまないインターフォンの呼び鈴を聞く。お話だけでも、お話だけでも、花崎さん、お元気ですか、という、悲壮感を装いながら、隠しきれない興味をにじませる老若男女の声が、鉄製のドア越しに響く。外にでたくても出られず、宅配を利用しようにも恐怖から決算ボタンを押せない日々が続く内に、食料も底をつき、日用品も底をつこうとしていた。
(こんなはずではなかったのに)
 その言葉だけが頭を回る延長線。唯一光を放つ携帯電話の呼び出し音が鳴った。

『まさか出てくれるとは思わなかったよ。花崎先生、』
疲れ切った声で管理職は花崎の名前を呼んだ。先生、という敬称に酷く違和感を覚えた。先生って誰だ。誰のことを言っている。
 誰でしたっけ、という言葉が口をついて出そうになったが、寸でのところで押し留まった。電話口で沈黙を続ける花崎に、管理職がやんわりと語りかける。
『ところでな。教育委員会と面談をした結果だが、』
無意識に出ていた相槌に、話を聞き取れたと判断したのか、管理職はそのまま話を続ける。面談のスケジュールから、その経緯、面談の内容まで事細かに説明をするが、頭がぼんやりとして全く頭に入って来ない。叱咤激励を繰り返してくれた管理職の、悲しみにも似た声が頭をひびくだけだ。
『―――そういうことで、花崎先生、よい機会だと思って、しばらく休みなさい』
「……そうですか」
世間は彼を見放した。


(2)勧誘についての供述
 
××駅で非常ボタンが押されたため、電車が詰まっています―――その放送を聴いたのは、三江がめったに乗らない電車に乗っている時だった。どうしてめったにしないことをした時に限って、こんなことになるのか。三江は内心イライラしながら、車窓を見れば、歩いている人が次々と自分の乗っている電車を追い越して行くのが見えた。そんなことなら、一個前の駅で降りて歩けばよかった。どうしようもない後悔をしていると、電車は完全に止まってしまった。
 ため息をついて、携帯を取り出し電話をかける。最近、マネージャーとしてスケジュール管理をしている女性へ、遅れる旨連絡をしなければならなかったからだ。
三江は特にコレという仕事に就いているわけではなかった。ある時は飲食店で働き、ある時は深夜のコンビニにいた。一時期は日雇い労働者だったこともある。今はマネージャー兼秘書だ。今までで一番やりがいのある仕事だった。
「もしもし……幸田さんですか。三江です。電車が止まってしまいまして。……そうですね。午後の集会には間に合うかとは思うんですが。すみません」
電話の向こうで了解された旨の返事を聴くと、三江は電話を切った。
『線路に人が侵入したため、安全確認作業を行っています。そのため、この列車は運転を見合わせています。ご乗車の皆様には大変ご迷惑をおかけしています。繰り返します―――』
車内に響く無機質でこもった男性の声。反発する者もいれば、諦めてしまって化粧をし出す女性もいた。
(災難だ、)
あれまで半年を切っている。大事な時期だというのに。

 夜になって自宅に戻り、テレビを付けてみると、どういうことか各局のニュース番組が今朝の転落事故で持ちきりだった。なんだ、いつもの転落事故では報道なんてされないじゃないか。不審に思いながらまじまじとニュースを見ていると、その転落した客が公務員で、しかも教師であったこと、そして、酒気帯びの可能性があることが示唆されていた。
『転落したのは、市内に勤務する中学教師で―――教育委員会は処分を検討しています。中学教師は仕事熱心で評判もよく、特に問題はなかったということです。中学教師の勤務する中学校では、本日、緊急の保護者会が開かれ―――』
その時、よくありがちなぼかしを入れた状態で、渦中の中学教師が勤務する中学校が映し出された。
(あれ?)
既視感があった。中学校の周辺住民、そして、中学教師の自宅周辺に住む人々へのインタビューを見るに、どうも知り合いが勤務している中学校、そして住んでいる家の周辺によく似ていた。以前に冷やかしで一度見に行かせてもらった。その時の記憶が鮮明によみがえる。
『―――このように、自宅のカーテンは堅く閉ざされており、インターホンへの応答もありませんでした。教員だけではなく、公務員全体の信頼を失いかねない今回の事案です。さて、今日はスタジオにゲストをお迎えしておりますので、その方々のお話を伺ってみましょう。では、心理学者の逢坂先生から。では先生、今回のこの事件ですが―――』
似ている。似すぎている。三江は仕事でフル回転させていたはずの頭をもう一度揺り起こし、その人物との記憶を探っていた。根はまじめ、無趣味、思い詰めるタイプの、それは大学時代の友人にほぼ当てはまる。根はまじめだから手をぬくことができない、無趣味だからストレスのはけ口がない、そして、正常な生活を送ることができない自分にイライラする―――。
「花崎……?」
この教師は日々のストレスに追われていた、そしてそれを吐き出すことができず、アルコール依存症に陥ってしまった―――朝から似たようなことを繰り返す心理学者は、腹話術師が動かす人形のように、表情筋をひとつも動かさなかった。

 花崎が三江に呼び出されたのは小汚いラーメン屋だった。花崎と三江は大学時代からの友人で、花崎は堅実に就職したが、三江は「一か所に留まるのは何かが違う気がする」と言って、小さい出版社のライターになった。花崎は、最初は長くは続かないだろうと思っていた生き方だったが、三江はその後も、小遣い稼ぎのようなバイトを転々としながらライターを続けていたようだった。その仕事は多岐に及び、映画の批評、風俗の体験レポート、対談記事の編集まで行っていた。家に遊びに行けば、数えきれないゲラが床に散らばり、ノートパソコンは何台も点けっぱなしになっている有様だった。目に隈を作り、ふらふらと歩く三江を見た時は流石に、安いギャランティの仕事は請け負わなければいいのではないかと言ってしまったが、「書けと言われたんだから書くしかないだろ」と彼は自嘲気味に言った。
 そんな彼に、今は逆に気を掛けてもらうはめになろうとは。
「三江、」
「ああ、早かったな。ニュース見たよ。ご愁傷様」
食えば、と言いながら差し出された餃子とコーラの瓶。
「アルコール依存症は飲んだら終わりだからな」
笑いながら電子メモ帳に文字を叩きつける三江をにらむ。そうだ。自分はアルコール依存症。アルコール以外に依存できなかったたちの悪い輩。
「何の用事で?」
「暇してると思って」
「バカにすんなよ」
ふつうの病人には優しい公僕という社会の犬は、その信用性を保つために罪人には厳しくできている。謹慎処分になれば給料も減額される。花崎は今、念のためにとかけておいた保険金でなんとか食べている状態だった。
「おまえ、なんか趣味とかあんの?」
「……趣味?」
「そうそう、趣味。音楽、読書、アウトドア、風俗でもなんでもいい。ストレスを発散できるような趣味」
「ないな、そういえば」
元はといえばそれが発端だった。ストレスの吐き出し場もなくただただため込むだけの生活。気づけば一年が経ち二年が経った。ストレスが原因で暴飲暴食に走り体調をくずしたり、生活自体が破たんしてしまった人間は大勢いる。健康な時はバカにしていたが、今や自分もその人間のうちの一人になってしまった。
「そんな人間が集まってるんだ。俺の今の職場」
「はぁ」
言われてもピンとこない。趣味のない人間が集まる職場なんてきいたことがない。自己啓発や体力維持を謳って金を巻き上げるスポーツクラブかカルチャークラブでもやってるんだろうか。
「聴くからに怪しいな。それ」
「宗教なんだ」
「は?」
絶句していると、三江は電子メモ帳を畳み、低反発素材でできたスポンジ素材のケースにそれをつっこんだ。黒くて、中の布は赤かった。まるで人間の身体みたいだろ、と三江がぼそっと言ったのを、あえて花崎は無視をした。
「宗教みたいなもの、と言った方がいいな。一人の少女を偶像化し、その少女に心酔する輩の集まりだ。アイドルの熱狂的なファンと変わらない。ただ、我々には一つだけ掟がある」
「それは?」
「恋をしてはいけない」
「少女に?」
「そうだ。少女に恋をしてはいけない。恋慕を抱いてはいけない。心酔したり崇拝するのと恋をするのは違うんだ。この違いが何か分かるか」
「……は?」
言っている意味がよくわからない。
「心酔したり崇拝することは、相手に自分を支配してほしいという欲求の現れだと俺は考えているし、コウダもそう考えている。でもな。恋は相手を支配したい欲が出る。この差だ」
「……コウダ、って」
「そのグルーヴァーの代表だな。ヘンなやつだよ。見た目はいい方だし頭も回るが、はずれてはいけないねじがはずれている感じだな。どうだ。話すだけなら、おもしろいし暇つぶしにもなる。一回会ってみないかね」
薄く笑った三江は最後の餃子を食べきると、もう一生花崎が口にすることができない黄色い液体を飲み干した。


(3)Mについての供述
 
我々の仲間になりませんか、と細く高い声で彼女は言った。

 幸田、とだけその女は名乗った。見た目は二十歳に届かないくらい、髪の毛は顎で切りそろえられ、前髪は眉毛の上できっちりと真っ直ぐに切られているのが印象的だった。彼女と知り合ったのは、たまたま入った喫茶店だった。いくつかの長机とカウンター席で構成されたその喫茶店は、場合によっては嫌がおうにも相席にならざるを得ない。ちょうど三時のティータイムとやらで、その時に相席になったのが幸田だったのだ。年端もいかない小娘が真っ昼間から何をしているんだ、と説教したい気持ちに捕らわれながら、三江は煙草に火をつける。
「おじさん、何の仕事してるんですか?」
「え?」
「何の、お仕事をしているんですか?」
ふと見れば、女がこちらを向いて小首を傾げている。どきりとした。性的な意味ではない。何かを見すかされているような、そんな気がしたのだ。
「今は、雑誌にちょろちょろと書いて食ってるよ。まぁまぁ楽しい」
「へぇ。なんていうお名前で?」
女は読んでいた本を閉じると、三江に向き合って質問を続ける。
「名前を出して書けるライターなんて、ほぼほぼいないよ」
「じゃぁ私が読んでいる雑誌にもかいているかもしれないんですね」
ふふふ、と笑ってから、彼女は唐突に言った。
「ねぇ、おじさん、わたしのお友達になってくれないかしら?」
ごくり、と息をのんだ。わたしのお友達、とは何なのか。本能が危機を察知したのか、額に汗がにじむ。
「わたしのともだちと仲良くしてほしいの。それだけなの」
有無を言わさず握られた手を、握り返すことしか、その時の三江にはできなかった。

 おうち、と言われた場所は山奥にあった。最寄り駅という概念はないのか、と内心思いながら、三江は幸田の後ろに続く。
「あなたが、私のともだちとなかよくできると判断した理由が、知りたいですか?」
彼女はまたしても平坦な声で言う。
「別に。知ったところでどうこうなるわけでもないでしょう?」
「そうですね。そのとおりです」
内心イライラし始めていた。人を敬っているのか毛嫌いしているのかまったく分からない態度にも、先ほどから歩き続けて疲弊している足にも。
「……三江さんは、何も考えなくていいんですよ」
「はい?」
「三江さんは、何も考えなくていいんです。我々はただ一つの目的と規律によって動いている個々の意志の集合体です。あなたはそれに従えばいい。あなたがわたしの秘書として、取るべき行動を取れば、あなたは何も考えなくていい」
仕事に使う思考が大半を占める現代社会が嫌いなのです、と言いながら、彼女は数メートルはある鉄格子に手をかけた。
「一日は二十四時間しかないのに、我々はその内三分の一にあたる八時間という長い時間を、一つ、もしくは複数のことを考えながら生活をしないといけない。けれども、それに異論を唱える者はおかしなものと云われ続ける。それはおかしいことではないのですか」
「はぁ、」
「我々の仲間になった以上、規律を乱さない限りは最低限の生活と身の安全を保障しましょう。それが、我々があなたにできる最大限の報酬です」
ぎり、と嫌な音を立てながら年代物の木製扉が開く。一人の少女が住むにしては広すぎる敷地と建物は、最低限の家具と設備しか備えられていなかった。
「あなたは今日からここに住むといいです。ああ、ご自宅があるならここを書斎として使ってもいいかもしれませんね。少しほこりっぽいですが、掃除をすれば使えます。寝具のカバーは明日にでも注文しましょう。今日は来客用のを使ってください」
「……あなたは、勝手にいろいろときめるのが好きなんですね」
「違うわ」
少女は、窓を開け放して枕を外にだしながらはたく。枕は傷んでいるらしく、はたく度に中の羽毛が飛び散った。
「違うって、」
「ああ、もうこれはだめだわ、」
「質問に、」
「あなただから勝手にきめてるのよ」
「はぁ?」
どこにそんな確証があるというのか。三江は軽く引きながら彼女を見た。線の細いからだ。白い肌。輝く黒髪。そして、誰も信用していない、誰も愛していないというような、感情のこもっていない瞳。
「あなたはどこへも行かないわ」
だって、あなたはすがるものもすがりたいものもないもの。

 彼女はうつろな目で云うと、薄く笑った。


(4)リーダーKについての供述

「いったい、どこなんだよ、ここは!」
先ほどから何度尋ねても、三江は山道を淡々と歩くだけで返事をしようとしなかった。ちっ、とと心の中で舌打ちをしながら、花崎は三江の後ろを着いて行くのがやっとになっている自分の身体を呪った。暫く引きこもっている間に、こんなにも体力が落ちているとは。もちろん、それはそれ以前の不摂生も引き金となっているのだろうが。
「……だいじょうぶか?」
「なん、とか、」
ぜぇぜぇと息をしながら、利き手で木の幹を掴む。
「そこだ、あとちょっと耐えろ」
そう言いながら指さした先にあったのは、古びた洋館だった。壁一面が蔦で覆われており、外壁はくすんで元は何色だったかさえ分からない。周りは樹木で覆われており、かろうじて日光が差し込むくらいである。
「……うつ病になりそうだな」
「お前に言われたかねぇよ」
三江は失笑しながら花崎の方を見た。
「……お待ちかねだ」
ぼそりと呟いた、友人の観た先、そこに女性が経っていた。青白い肌、切りそろえられた髪、そして、何も光を映してないような、眼。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」
使者、とも言うべき真黒な一枚布でできた服。首から吊られた逆さ十字。
「こん、にちは……」
声を絞り出すのがやっとだった。独特のオーラ。下手なことを言えば、自分は今すぐ殺されてしまうのではないかと言うような眼差し。
「怖がらなくてもいいんですよ。我々は、その辺のボランティア団体とは違いますので」
「は、はぁ……」
勾配があるせいもあるが、段々と足が遅くなってきた。何か結界が張られているような、そんな気もする。
「三江、先に入ってお茶を出す準備をしてください」
「わかった」
独りにするな、と言いたいが、女の視線に遮られて言葉が出ない。頭が段々と痛くなってくる。少し前から出ていたパニック発作の症状だった。
「苦しいですか?……置いて行かれるのは」
何の意味を持つのかわからない女の言葉を聴きながら、花崎は意識を失った。

 次に目を覚ましたのは、ベッドの上だった。ぼんやりとした視界の中で、二人の男女がこちらを見ていた。
「倒れるだなんてなぁ」
うちわで三江は花崎をパタパタと仰ぎながら、笑って言う。脱水かね、いやパニックか、と呑気に言う三江を横目で見ながら、彼の反対側にいた女性に目を向ける。自分を迎えた時のように、やはり光のない目でこちらを見ていた。
「花崎さん、」
「はい、」
返事をしながら、改めて花崎は部屋を見回した。異様な雰囲気だった。真っ黒な壁、真っ黒な天井、真っ黒な床。そして、そこに鎮座する純白の質素な椅子と小さ目のテーブル。無駄な装飾が一切省かれたそれは、一目で高級なものだと分かるほどのオーラを放っていた。
「我々の仲間になりませんか」
その中で、司祭のような恰好をした女にそう聞かれれた花崎は、条件反射的に首を縦に振った。


(5)団体の行事に関する調書より
 
”ただし、決して少女に恋慕を抱いてはいけない。”
 それが何を意味するのか、おそらく団員はだれも理解をしていなかった。

「週一回の礼拝と、月に一回の集会がある。参加は自由」
本部からの帰り道、タールの高い煙草を含みながら三江は淡々と言う。礼拝は本部の教会に集まって礼拝をする。集会はレクレーションが主だった。礼拝のあとはだいたい自然と集まったグループで飯を食べにいったり、レクレーションの後は飲みに行ったりしているようだった。
「大学のサークルみたいなノリなんだな」
「まー、最初ってそんなもんなんじゃないの」
「で、その……どんな人がいるんだ。その、メンバーっていうか、構成員というか」
「うーん、いろいろだよ。シングルマザーとか。奥さん亡くしちゃったおじいちゃんとか。そういう人。ぐだぐだ訊く前に、試しに行ってみたらどうかね」
百聞は一見に如かずだよ、と三江は言うと、火の不始末は山火事の元だね、と笑いながら煙草を携帯灰皿に仕舞った。

 参加をしてみれば確かに、団体のレクレーションはサークルの集会に似ていた。週に一回の礼拝後は、決まった人と昼食を食べに行き、そのまま飲みに行くことも珍しくなかった。ただし、花崎はアルコールを摂取することはなかったが。
「花崎さんは、どうしてここに入ったの?」
「え?」
「三江さんが連れてきたっていうから、どんな人かと思ったんだけど、まともでびっくりしちゃって」
そうしわがれた老人は言うと、再び目の前にあるアテに向き合った。
「人の事情に深入りしちゃだめですよ、米田さん」
その横から、若い男の声が入る。確か、油井という名前だった。ホームレスで家がないらしい。三江は本部に泊まってもいいと言っているらしいが、野良猫みたいで心地がいい、という理由でホームレス生活を続けている。
「そうだな、うん、そうだ」
赤らんだ顔でそう言うと、納得したようにうなずいた。
「そういえば、今度のレクレーション何なんでしょうね」
油井が言う。
「レクレーション?」
「そう、レクレーション。何だ毎回ゲームだ、ピクニックだやらされるんだよなぁ」
「不満そうに言う割には毎回米田さん楽しそうじゃないですか」
「いや、まぁ、食わず嫌い……だったのかもしんねぇな!」
がはは、と笑う米田を見ながら、花崎はそうですか、と呟くことしかできなかった。この年代の人の、この酔い方にはこうしているのが一番だ。教員として働いていた時、学んだことの一つだった。
 その内、米田がトイレに立った時、油井がぼそっと呟いた。
「花崎さんって、あれでしょ?ちょっと前にニュースに出てた人でしょ、」
「……あ、え、っと……」
今それを言うか。変な汗が額を伝って落ちる。
「あ、米田さんは気づいてないから大丈夫ですよ。あの人、あんまり頭よくないし、」
そう言いながら、油井はビールを注ぎ足す。
「三江さんが連れてきたっていうから、なんでだろうってずっと考えてたんです。三江さん、あんまり勧誘には熱心じゃないんですよね。増えることに越したことはないけど、無理やり増やすのもどうか、みたいな考えの方で。……そんな人が連れてきた人でしょう?だからよっぽど訳ありなんじゃないかと思って。ちょっと調べてみたんです」」
そう言って、油井は遠くを見つめながら言った。
「米田さん、うちらの団体で一番在籍年数が長いグループにいるじゃないですか。だからちょっと偉そうにしちゃうこともあるんですけど、概ねいい人ですよ」
「へぇ。大体何年くらいいらっしゃるんですか、米田さんは」
「十年……そうだ、ちょうど十年ですね。設立当初からいたから、」
そういう俺もですけど、と油井は言うと、ちょうど米田がトイレから戻ってきた。
「おう、何の話してたんだい、二人でこそこそと!」
「雑談ですよ、雑談、」
そろそろお開きにしましょう、そういうと、米田はあっさり、そうだな、と言って、鞄から財布を取り出した。

 そうこうしている間に、月に一回のレクレーションの日はやってきた。
「はい、今日のレクレーションは山歩きです。とは言っても、このあたりにある山はそんなに高い山ではありませんので、そんなにつらくはないと思いますが―――」
団員の目の前に立った三江はいつもと違う感じがした。場所が礼拝堂ではなく、その前にある広場だということもあるのかもしれない。
「―――ということで、以上で説明は終わります。くれぐれも無理のないように。けが人、急病人が出ましたらすぐに本部へ連絡をお願いします。それでは、今から始めます」
その声と共に、班ごとにぞろぞろと移動を始めた。ルートが何通りかあって、それぞれが重ならないようになっている仕組みだ。コースは三江と、由良、という女性スタッフが二人で考えるらしい。
「何を考えてるんだか、」
ぼそっと呟いたが誰も聴いていなかったようで、突込みはされなかった。そもそも、この中の何人が彼の本業を知っているのだろう。もやもや考えながら班の後ろを歩いて行くと、ふとしたことに気がついた。
「そういえば、今日米田さん見ませんね」
「あ、そういえば、」
同じ班だった油井ははっとした顔で花崎の方を見た。
「こういう行事、あの人欠かしたことなかったんですけどね」
「欠席の連絡はいってるんですか?」
「行事参加も強制じゃないからね。欠席の連絡も要らないんですよ。あったとしても本部どまりだと思いますし」
あっさりと言い放つ油井に、そういうものなのか、と一人思いながら、暫く林道を歩いていた時だった。
 人が死んでいるぞ、と誰かが言った。
「は、」と声を出すよりも早く、眼がその姿をとらえていた。枯葉にうずもれるようにして倒れている、今日欠席していた小太りの初老の男。

 米田が、死んでいた。

(※続きは冊子版でお読みください。)