知識の価値

価値という言葉が嫌いだ。

正確には「価値がある」という事が、だ。

" 物事の役に立つ性質・程度。…ねうち。効用。"  広辞苑より

何かしらの物事に役に立つ性質・程度を持たないと、基本的に価値が無いらしい。


では、知識の場合は?

誰もが持つ脳内の知識は、アウトプットして何かに使うことで初めて価値を持つということか。

今私が持つ知識は、どこの誰にどう裏付けられているものなのだろうか。アウトプットして使えるものなのか。アウトプットしていいものなのか。


最近、知識というものの価値が分からない。私が影響されやすいからかもしれない。

誰かが何かを伝える。おそらく伝えられた人は伝えた人が信用できる人であったならば、その話は知識として脳に刻まれるのではないか?その話が本当に合っているのか分からないままに。そうして伝えられきた知識は知識といえる代物か?本当に価値があるものか?

今こうして書いている記事だって何かに私が影響されたから書き始めたのであって、私は文献や資料など一切無くつらつらと文字を書き連ねている。特に確証も無く、己が伝えたいことを感覚的に文字に書き起こしているだけだ。中にはいつかの誰かの受け売りも含まれているのだろう。


正しく無い、正しいかどうか分からない知識に、価値があるとは思えない。では本当に正しい知識とは何のことを指している?私には分からない。


最近は、"価値のある行動"やら"意義のある解答"やらを求められる事が多い。何かとやること事成す事について大義名分が必要な時期なのかもしれない。それも大層な理由が。

そんな簡単にでっかいことが解明できたら人間こんな中途半端な進化はしとらんわ。



私は価値は無くとも、私は私の中にある知識・感情を形にしたいと思っている。基本的に、ただの人の感情に価値は無いのだし。それでは駄目なのか。

価値が無いものに、無理矢理価値を付加しなくてもいい。価値を探す・見出すなんて、綺麗な事は言いたくない。


私は「価値が無い」という事が好きなのだ。


だから、この雑多無雑作な記事には"価値が無い"。ふーんと聴き流してくれ。