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大人になれば 04『犬の骨・最初の秘密・見えないもの』

骨を拾った。
小学六年生のときだ。
もうすぐ冬が始まろうとする晩秋の夕方、裏庭の寺につながる野原を歩いていたら枯れた下草の間に転がる骨と出会ったのだ。

きっとあれは犬の頭蓋骨だったのだろう。
魚のように半分になった犬の頭蓋骨。下顎は失われ、眼窩がぽっかりと空いていて、歯がずらりと並んで、口先の犬歯が尖っていた。
不思議と汚いという気持ちは起きず、小六のぼくはそれを拾った。骨は乾燥していて、少し黄ばんでいた。まるでぼくの歯のように。ざらりとした手触りは古い陶器のようだった。

結局ぼくはそれをコートのポケットに入れ、何気なく家に戻った。夕飯時の我が家は母が台所に立ち(まだ土間だった)、兄と弟は居間の炬燵に入りながら子供番組を見ていて(足が付いていてチャンネルをガチャガチャ回すテレビ)、健在だった祖父と祖母は自室にいた。父親は覚えていない。

ぼくはポケットに両手を突っ込んだまま立ってテレビを少しだけ眺め、そのまま二階の子ども部屋に行った。(二階に上がる階段は引っかけてあるだけの梯子のような構造で、あるとき酔って大暴れした父が階段にいる子ども諸共それをぶんなげ弟が骨折した)

六畳の子ども部屋はぼくと兄の共同で、机が二つ並べてあった。ぼくは犬の骨を取り出し、紙袋に包み、勉強机の一番下の引き出しの一番奥にそれを入れた。それからぼくは階下に降りて家族と夕飯を食べた。
それがぼくの記憶に残っている最初の秘密だ。

ぼくにとって秘密とは手触りのあるものだった。
あの何かが嵌っているに相応しい眼窩の穴、その奥行。少し黄ばんで、何の匂いもしないのに何かが匂ってくるような目から鼻のライン。ぽっかりと口を開けているように見える上顎。取り外しできる犬歯。

ぼくはそれで何かが変わったわけではなかった。ふつうに暮らした。ただ、頭の片隅に机の一番下の引き出しにある骨が時折思い出される。その度に、「あそこには骨があるんだ」と思う。

たまに一人きりのときに骨を取り出し、椅子に座って犬の骨を触った。頭部を撫で、頬から口先へのナイフのような曲面をさすり、眼窩の穴を親指の腹でなぞり、犬歯を出したり嵌めたりした。とくにドキドキはしなかった。なんだかぽっかりとした気分で、その一連の動作をし、また紙袋に入れ、一番下の引き出しの一番奥にそれをしまった。

それからぼくはどうしていたんだろう。
いつしか骨を取り出さなくなった。そういえば骨を触ってないな、と思うけれど、それで取り出すこともなくなってきたと思う。ただ骨はそこにあった。

中学を卒業する肌寒い三月の終わり、春休みに入っていたぼくはふと思い立って骨を取り出し、まだ雪が残る裏庭に行き、かつてあっただろう場所にそれを戻した。ぼくは小六のときに秘密を得て、中三のときに秘密を捨てた。ただ、それだけの話。

二月から国立新美術館で予定されている展示会『イメージの力 — 国立民族学博物館コレクションにさぐる』の記事を読んだら、こんな話を書いてしまった。本当は宮崎駿について書こうと思っていたのに。

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この展示会ではパプアニューギニアの神像やアボリジニの樹皮画といった様々な民族美術が見られるらしくどの写真にも引力を感じたのだが、とりわけぼくはパラオ共和国の「トコベイ」人形に惹かれた。なんでだろう。目が離せなかった。

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トコベイみたいに魅かれるものに出会って何故だかわからないがじーっと見てしまうのは、人間の根源的な何かに「それ」が触れているからのような気がする。でも、何故そう感じるのかを言語化できない。変な例えだけど、靴下の匂いを嗅ぐと自分の中の何かが落ち着く感じに似ている。

そもそも人間の根源とは何かという問いには誰も答えられないのに、誰もが「それ」を自内に持っていることは知っている不思議さ。闇の存在を知っているのに、闇が深すぎてその奥が見えないような。だからトコベイを見ていると、淵のぎりぎりに立って眼下の闇をじーっと見ている行為にも思えてくる。わからないけど見たい。わからないから見たい。そんな風に。ぼくのあの骨のように。

執筆:2014年1月23日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。



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