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「これだけは譲れない」というお題。良きオーディエンスであること。


JBN制作ユニットの朝礼では毎回「お題」が出て、日替わりの当番がそれについて短い発表をします。毎日一緒に仕事をしているけれど、業務以外では知らないことが多く、「そんな趣味があったんだ」と同僚のパーソナリティを知る場でもあります。

前回のお題は「好きなお菓子」でした。そして、今回は「これだけは譲れないもの」。飛躍がすごい。笑

ぼくに当番が回ってきたので(明日です)、事前の覚書として書いておこうと思います。

ぼくのこれだけは譲れないもの

・面白いものが好き
・映画でも漫画でも演劇でも小説でもノンフィクションでも芸術でも料理でもジャンルは問わない
・誰が何と言おうと面白いものは面白い
・誰が何と言おうとつまらないものはつまらない
・オタク的な知識は全くないが、自分が「面白い!」と思ったものはすごく大切にする

…とここまで書いて分かりました。

ぼくの「どうしても譲れないもの」は面白いと思う自分の感覚です。「面白い」という発見でもあり、気づきとも言えるかもしれません。

他者にとってくだらないことでも、価値のないものでも、ありふれたことでも、ぼくが面白がれるのであれば、それは面白いのです。


世界で酷評されようが面白いものは面白い

例えば、いま上映中のジブリ最新作『アーヤと魔女』が世界中で酷評されているという記事がありました。

「『アーヤと魔女』は愛せないキャラクターだらけの、醜くて中途半端な映画だ」(「engadget」2月12日付)、「アニメの批評家たちはPixarとジブリのどちらがより才能あるアニメスタジオか長く討論してきた(略)。だが後者が初のフルCG映画を作った今はもう、比較にならない。『アーヤと魔女』はほぼあらゆる面で劣っている(略)」(「Variety」1月31日付)など、手厳しい評価が並ぶ。

評価は自由ですが、ぼくは全く反対の高評価です。
子ども向けアニメーション映画において、このさき十年のスタンダードを宮崎吾朗監督は生み出したと思います。袋小路に陥っていた子ども向けアニメーション映画の新しい道を『アーヤと魔女』で拓いたとも思っています。

これまでにない作品故に大人は見方が更新できていないだけで。子どもは素直に楽しめるはずです。それがすごい。お子さんがいる方は一緒にぜひ。面白いですよ。


タモリと伊集院光

他者にとってくだらないことでも、価値のないものでも、ありふれたことでも、ぼくが面白がれるのであれば、それは面白いのです。

この感覚にとてもマッチするのが『タモリ倶楽部』の面白がり方ですが、この話をすると長くなるので割愛します。また、伊集院光のラジオも同様です。これも長くなるので割愛します。

タモリ倶楽部も伊集院光のラジオも共通しているのは面白がれる能力がずば抜けていてることです。「面白がれる」はとても主体的な取り組みであると同時に、優れたオーディエンスであることが特徴です。

タモリと伊集院光の共通項はオーディエンスとしてずば抜けていることですが、この二人はもちろんプレイヤーとしてもずば抜けています。
盾と矛の両方をもつ傑物。それがタモリと伊集院光だと思います。

自分の譲れないことを書くはずがいつの間にかタモリと伊集院光になってしまいました。大好きなもので。話を戻します。


プレイヤーとオーディエンス

「プレイヤーとオーディエンス」この2つの視点がぼくの中にいつもあります。病気みたいなものです。
それについては以前、『美術・音楽の授業は「プレイできなかったしょんぼり」しか残らなかったけど、アートを楽しむのにそんなことは関係なかったこと』というnoteに書きました。

ちょっと長いですが一部抜粋します。

「絵を描く」「楽器を弾く」といったプレイすることにぼくは憧れがあるし、素晴らしいことだと思っています。

だけど、プレイするためには「描きたい」「弾きたい」という着火材が必要で、それは万人が持っているものではなくて。

事実、ぼくには「プレイしたい」という着火材がほぼなくて、それ故にプレイに価値を求められる学校の授業は馴染めなく、自分は美術とは関係を結べない人間なんだなとずーっとしょんぼり思っていました。

でも、そんなことは全然なくて。
プレイしない人にもアートはちゃんと開いていて。
人間くさい営みで。

「はやく言ってよ!」と三十代のぼくは二十年前に授業に向かってすごーく思いました。
絵画や音楽や演劇って面白いじゃん!って。
プレイしなくても全然楽しめるじゃん!って。

考えてみれば、大人になってもプレイする人より、しない人の方が全然多いですよね。
しかも、プレイする人は自分でどんどん動ける。
大人になっても自分なりに続けられる。

プレイしない人は大人になっても「プレイできなかったしょんぼり」を覚えているだけ。
ぼくがそうでした。

圧倒的に多い層に授業でそんな不能感を植え付けるより、美術史・音楽史で「理解の仕方・ポイント」を伝えてあげた方が、その後の人生で全然楽しめるじゃん!と三十代のぼくはすごーく思いました。体験的に。

プレイできなくても、よき観客でいることはできて、それは人生を豊かにしてくれる。

ということをぼくは三十代後半で学んだのでした。
しょぼん。十代で教えてよ。

はい。話が二転三転しましたが、つまり、ぼくの譲れないことは良きオーディエンスでありたいという気持ちかもしれません。たぶん。そうだと思う。


良きオーディエンスでありたい

傑物でないぼくはせめて良きオーディエンスでありたいと思っています。

良きオーディエンスについては、イラストレーター&スケッチジャーナリストの大角真子さんが描いてくれた『空想スケッチ』に端的にまとまっています。

大角真子さんの『空想スケッチ』はお客さんの話を聞きながらその場でスケッチにまとめていく作品です。「何かやりたいことがあったら話してみてください」と言われ、「やりたいことが1つもないのがコンプレックスで…」から始まったぼくの話をスケッチしてもらいました。10分ほどの内容が見事にまとめられていて驚きました。

スケッチのプロセスも含めて動画で観れますのでご覧ください。大角真子さんの『空想スケッチ』はとても面白いので、興味ある方はぜひオーダーのご相談をしてみてください。

長々と書きましたが、ぼくの「譲れないこと」は以上です。明日、朝礼で端的に話せるのかしら。


オーディエンスに関連するnote

企業の情報発信は受け手側(オーディエンス)がいてくれてこそ。


蛇足1

アートについては以前に個人的な覚書を書いたことがありますので、よかったらそちらをご覧ください。”アートはぼくたちが生きるリアルのひとつ外にあるからこそ、現実の重力を抜ける体験をさせてくれる。(地下では繋がっているのですが)”的なことを書いています。


蛇足2

最近「面白い!」と思ったものを並べます。どれもお薦めですのでぜひ。
特にいま上映している『子供はわかってあげない』と『マーヤと魔女』はぜひ!


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