大人になれば 56『唐組『秘密の花園』・小沢健二『魔法的』・海よりもまだ深く』

月は人をドキドキさせる。
それが太陽との違い。

少なくともぼくは。
月光はぼくをふらふらと誘う。その気にさせる。
冷たくあしらう。照らす。そこにある。

月の光は太陽の反射だ。
それ自体は何も発さない。熱を持たず、命を生まない。ただ夜を照らす。偽物。レプリカ。擬い物の光。

ぼくは誘われてしまう。まるで夏の蛾がコンビニの誘引灯に集まってしまうように。そういえば、蛾は夜行性のはずなのに何故コンビニの光に集まるのだろう。気になって調べてみた。

【走光性:走光性は走性の一つで、生物が光刺激に反応して移動することである。走光性のうち、光のある方向に近づくような行動は『正の走光性』、光から離れるような行動は『負の走光性』などともいう。(略)
蛾などの夜行性の虫も正の走光性を持っているが、これは水平に飛行する為の指標として真上からの平行光(月明かり)を利用しているためであるとされる。火災、或いは人工光などによる照明は点光源のため、平行光に対する時と同様に光源方向に背(身体上面)を向けて飛行すると、本来の垂直方向への上昇力が光源に向けられるため、螺旋状に飛行して光源に衝突してしまう。(略)
人間は暗闇を怖れるため、『人間は正の走光性を持っている』ともいわれる。】(wikipedia)

走光性。人間は正の走光性を持っている。

五月二十日、唐組の『秘密の花園』を観た。
長野市城山公園の芝生に突如現れた紅テント。平日の夜の回だったので、就業時間と同時に公園に向かう。山の向こうに陽が沈もうとする街並み。夜を迎えようとする空。これから唐十郎の異界に行くんだと車を走らせながら、もぞもぞともそわそわともいった気持ちになる。

wikipediaは嘘つきだ。
人間は正の走光性を持っている。それはきっとその通りなのだろう。でも、これから唐十郎を観にいこうとするこのもぞもぞやそわそわは何なのか。
日中に潜む押入れの闇のような、秋祭りの裸電球の縁日のような。そこで待つのは夜の世界だ。

唐組『秘密の花園』は面白かった。いっぱい笑った。
昭和の戦後を背景に、演歌のような、喜劇のような、筋の有るような無いような、鋭い一言のような煙に巻くような。本当が嘘で嘘が本当のような。プラスチックのマリア像への偏執的なまでの信仰。そんな非日常にそわそわと集まる数百人の人びと。なんで彼らは集まるのだろう。ここには何があるんだろう。なんで唐十郎はいつも母親を探して途方にくれている夕暮れの迷子みたいなんだろうと思いながら、笑いながら観終わった。

観終わって紅テントを出ると、城山公園の広い空に大きな月が浮かんでいた。星は見えず、満月のような、満月にはほんの少し足りないような。本当の夜がいくぶんか怪しく、擬い物に見える、ような気もする。あの月は本当の月か?

五月二十六日、小沢健二のライブ『魔法的』を観た。
今までの曲が半分、新曲が半分のセットリスト。

小沢健二の歌詞の特徴は生の肯定だと思う。今までは歌われる景色に小沢健二がいた。そこにいる「ぼく」が空に放たれた風船や、光る海や、公園の春の土から「大きなもの」と「小さなもの」が等価でいることの不思議さを感じて、歌っていた。聴き手は「ぼく」を足がかりにして、その景色を共有し、手触りを得る。

今回の新曲も「大きなもの」と「小さなもの」が螺旋のように登場する構図は変わらないのだけど、大きくちがうのはそこに「ほく」がいないということだった。それは父親の視点とも言えるし(小沢健二は数年前に息子を得た)、もっといえば、自分がいなくなった後の世界、アフターワールドを思い描いているような。

そこにいるのは「ぼく」ではなく、その子どもや恋人で。新曲では彼らに対して世界の構図を描き、海の渡り方を示し、新大陸を予言していた。まだ観ていないけれど、映画の『マイ・ライフ』みたいだなと思った。

ぼくはいくつもの新曲を聴きながら、近い将来/遠い未来に航海に出る若者たちが無事に海を渡れるよう、強い波を越える術と勇気を持てるようにと願うような気持ちになった。彼らの舟に鳩がオリーブの枝をくわえてきてくれるようにと。

五月二十八日、是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』を観た。
ダメ男(阿部寛)を主人公とした壊れた家族のゆるやかな撤退戦の物語。もしくは流動する家族という人間関係の物語。
こぼれたミルクは戻らない。だけど、覆水は盆に返らなくとも生きていかなくてはいけない。見栄を張ったり、お金の都合をつけたり、嘘をついたりして。

ぼくは最近、なぜだか樹木希林に夢中なのだけど、この映画でも素晴らしかった。母・義母・祖母の樹木希林がダメ男の、その妻の、その息子の「何か」として描かれている。
崩壊する家族がそれでも前に進んでいこうとする姿は一歩まちがえればファンタジーなのだけど、ぎりぎりのところで「もしかしたら」と思いうる何かを樹木希林が成立させている。くだらないボヤキや、台所の立ち姿や、冷凍したカレーうどんや、すぐ息の切れる声や、夜の声のトーンや、立ち振る舞いが。

もしかしたら、ぼくたちは思った以上に生きていくのが下手なのかもしれない。
あやふやな未来。あやふやな世界。あやふやな家族。あやふやな自分。あやふやな本当。
それでもきっと生きていくし、だから足を運ぶのだろう。紅テントやライブや映画に。夜の蛾が月明かりを頼りに前に進むように。

20160530

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