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大人になれば 13『六月の田圃・古今和歌集 仮名序・名なしの0』

六月ですね。
なんと。

六月になったら田圃に水が張られ、夜になるとカエルの大合唱が響くようになった。まるで夏だ。歴史的な大雪で長野中がパニックになったのはつい最近な気がするのだけど気のせいか、カエルよ。

水が張られた六月の田圃は空と風景をよく映す。空が二つあるような日もあって。春から続いている朝の散歩をしながら、五月とはまるでちがう景色に驚いたり見とれたりしている。

田に植えられた十センチ足らずの苗がもっと青々と育ったら、この水鏡は見えなくなる。それはまたちがう景色だ。夏の、生き生きとした草熱れの世界。青空。入道雲。夕立。夏休み。

毎朝散歩していると、昨日の連続にある今日が確かにちがう。ほんの少しだけど、昨日とはちがう世界。この世界で止まっているものはない。いつも、動いている。人も自然も世界も命も。それを見ているぼくも。

いつものぼくだったら、「世界ってそうなんだなー」と一人で納得しているのだけど、最近のぼくは何だかちょっと変わってきた。
「世界は動態なのだ」と誰もが知っていることを、もう一度ぼくの言葉にして誰かに話したくなる。書きたくなるのだ。

なんだこれは。

誰もが知っていることを、何でわざわざ自分の言葉で言いたいんだろう。この気持ちって何なんだろうと考えていたときに、『古今和歌集 仮名序』のこの一節を思い出した。

「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。 花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」

みんな、千年も前から「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせる」だったのだ。「つけて」が何ともいい。

でも、そういうことなんだろうか。

そういえば、先日初めてネオンホールの『名もなきオープンマイク 名なしの0』に行ったのです。ちょっと用があって。
ステージに上がって自由に朗読、詩、歌を発するというこの定期イベント。ぼくのような閉鎖的な人間には敷居が高い内容だと思っていたのだけど、実際行ってみてどうだったか?敷居はぜんぜん高くありませんでした。じっさい。というか、よかった。

特に心に響いたのは「行う」ということの純粋性でした。
家族と一緒に来た十歳くらいの少女。彼女が教科書の物語を暗唱するシーンでは、まっすぐに暗唱に向かい合っている姿にハッとした。そこには余計なものが何もなくて。シンプルでまっすぐな集中があって。

朗読する、暗誦する、歌を歌う、楽器を奏でる。何かを表現するときに、行為そのものが持つ力をぼくはもう少し知りたくなった。
あまりそういうことを思う人間ではなかったのに。はずかしいぞ。赤面ライティング。
どうもこの六月は我ながら変な感じです。

執筆:2014年6月13日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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