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大人になれば 05『檻の猿・まっすぐな言葉・大聖堂』

自慢じゃないが、友人が少ない。

浪人・大学は暗黒時代だった。いま思うとあれは自分で檻に入って、そこから一歩も出ないでさみしがっている猿のようだ。鍵なんてかかっていないのに。

大学四年のとき、ぼくに「とてもうれしい、どうもありがとう」と言ってくれたのはゼミの同級生だった。

テントをかついで沖縄を一カ月歩いてまわった夏休み明け。西表島に散らばる星の形をした砂を詰めた小さなビンを同じゼミの女子にあげたのだ。

その子のことが好きというよりも「沖縄に一人旅にいった俺」ということをアピールしたかったのではないか。そもそも世をすねているのにおみやげを用意する時点で狂っている。恥ずかしいことすんな。そこになおれ。

その友人は小さなビンに入った砂を少し黙ったまま見つめていた。それから顔をあげて「とてもうれしい、どうもありがとう」とぼくに言った。とてもまっすぐな言葉だった。

ぼくは驚いて、それからすこし感動してしまった。
それは言葉に過ぎないけれど力を持っていた。その子の言った「ありがとう」は彼女の「うれしい」気持ちを100%ぼくに伝えるものだったからだ

彼女の喜んでいる気持ちが全てぼくに伝わってきた。
ぼくもうれしくなった。本当に。

それからぼくはできるだけよろこびの声を口に出すようにした。
「うれしい」「たのしい」「どうもありがとう」。

その大きさ小ささに関わりなく、ぼくの気持ちを伝えようと思い始めた。小さな声でごまかさないで、その人を見てまっすぐな言葉で 。あの子のように。

ぼくの心理学の知識はナマケモノの排泄方法と同じくらい皆無に等しいけれど、経験から確信していることがある。(調べたらナマケモノは排泄時にわざわざ木を降りて穴を掘って排便し、その後は落ち葉などをかぶせるらしい。すごいな)

ぼくをぼくとしている自我は嘘をつきやすい。その目的は見栄であったり自己防衛であったり。いろいろだ。自我は心の核を傷つけないよう鎧のように守り続ける。だんだんそれが本当のぼくのように思えてくる。

最初、ぼくは「ありがとう」となかなか言えなかった。卑小な自我が邪魔をした。でも、ぼくが欲しいものはぼくを守るためにむやみに束縛する自我なんかじゃなくて、うれしい気持ちを伝えるための「ありがとう」という言葉だったから、そんな鎧は丸めて捨てた。気分がよかった。

それから二十年近くたって、先週四十歳になった。
四十歳になっても相変わらず猿みたいだ。でも、どうやら檻からは出れたみたいだし、二十年前のあの子のようにぼくなりの「ありがとう」が言えるようになった。すこしだけ。

四十歳の記念に大好きな本を紹介します。
レイモンド・カーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』
友人のいなかった大学時代、ぼくはこの短編集を何度も何度も読んでいた。ここには何かがあるのに、その何かは決して掴めない。でも読むたびに何かがいつもそこで待っていてくれる。古い友人のように。

この本に収録されている短編『大聖堂』は本当に短いものです。たぶん五十ページない。でも、ぼくはこの短編を読むたびに主人公の最後の一言に心がふるえる。なんでもない言葉なのに。

今回は引用しません。
よかったら読んでみてください。

執筆:2014年2月6日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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