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大人になれば 20『秋の目標・インフレーション理論・ピナ・バウシュ』

秋なんです。
稲刈りしたから。

どれだけ夏の気配が残っていようと、稲刈りしたらもう秋です。どんなサマーボーイでもはぜかけの景色には敵わない。サマーボーイってなんだ。

そういえばこの『大人になれば』も秋と一緒に連載二十回を迎えていました。なんと。仕事以外の文章でこんなに続いたことは我が人生で一度もないんじゃないだろうか。負け戦ばかりだったからなあ。すごいな、ネオンホール。

今回は二十回を記念して即興的に思ったままに書いてみます。いつもは五回以上書き直しているのだけど。憧れのインプロビゼーション。書き直しなしの一発勝負。
むずかしいんだぞ、かえるくん。

今年の秋の目標は七輪で秋刀魚を食べることと、むずかしい本を読むこと。

七輪で秋刀魚はもう十年以上の野望なので、そろそろ実現したい。ジュージューいわしたい。参加する人はマイ七輪を持ってくること。あと、マイ団扇。秋刀魚を焼くときに団扇でパタパタするのは炭を燃やすためではなく、燻しすぎないように煙を飛ばすためなのです。漫画『築地魚河岸三代目』に書いてあった。パタパタ。

むずかしい本はたぶん今なら読めるから。宇宙とか物理とか生命とか人体とか宗教とかその辺りのこと。脚本をもっと書きたいと思うようになってから、宇宙や物理の話を読みたくて仕方がない。
先日ネットで見つけた佐藤勝彦という東大教授の『物質の生い立ち 素粒子、原子、宇宙』講義テキストなんてほぼ分からないなりにやっぱり面白い。

宇宙や物理の話を読んでいると、ぼくたちは無限的な空間の無限的な死の過程の中にいるんじゃないかと思ってしまう。
インフレーション理論は「無と有の間をゆらいでいる状態」から突如宇宙が始まったとしていて。それは確かに創生の始まりではあるけれど、ぼくには「無と有のゆらぎ」の死でもあるように思える。
無と有のバランスが崩れ、熱と質量を世界に生み出し、宇宙が始まった。その過程がすべて「無と有のゆらぎの死」であるのならば、生命とは死を豊かな土壌にして生まれるものなんじゃないだろうかと。

世界は無限的に巨大なクジラの死体なのかもしれない。

この世界はそもそも「死」の過程であり、「生」は死という苗床から生まれるうたかたなんじゃないだろうか。生があって死があるのではなく、死があって生があるんじゃないか。

そういえば友人とおしゃべりをしている中で、友人が自分の悩みを「怪物」と称してぼくは少なからずびっくりしたのだけど、もしかしたらぼくたちは相対という広大な海を身一つで流れている漂流者なんだろうか。
人の心もまた宇宙と同じ広大さを持つとして、宇宙も怪物も自分ですらも相対化するのが自分の心で。いったいぼくたちは何を確たるものとしてその荒野を進めばいいのだろうか。相対化できないものを闇と呼ぶのだろうか。宇宙の話からこの辺まで何がなんだか全然わかんないでしょうが、もう止まらないで書いているので気にしないように。今回はほぼリアルタイム・あたまのなか。ノンブレーキライティングです。ノーブレーキ、ノーライフ。うそ。消したい。

さあ、これからどうするんだ。どうやって終わらせるんだ、ヒデシ。こんなに書いちゃったからもう引き返せないぞ。

大丈夫。ピナ・バウシュがいる。よかった。

彼女の作品はまったく知らなかったのだけど、先日初めて『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』のDVDを観て圧倒された。いや、圧倒とはちょっとちがう。圧倒よりもっと奥に届くもので。もっと日常とつながっているもので。もっとぼくとつながっているもので。

ぼくは放っておくと、宇宙って何だろう、人の心って何だろうって止めどなく考えてしまうのだけど、ピナ・バウシュのような人と出会うと「ああ、ここにいるじゃないか」と思う。何が「いる」なのか自分でもよく分からないのだけど。

観終わって、秋の夜を並んで帰っていくときの気分を今でも覚えている。体の中が何かで満たされている感じがして。めずらしく口数少なくてくてく歩いた。あの、しゃべる必要がない感じ。歩いているだけで十分な感じ。歩いている自分の体を感じたい感じ。

ヴィム・ヴェンダースの映像も構成も素晴らしかったけれど、なんていうか、ピナ・バウシュという人物にほんの少しだけ触れられた気持ちがして嬉しかった。「この人がいてくれてよかった」と思える人がいるのだ、この世界には。たまに。


執筆:2014年9月25日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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