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本当の自分はどこにいる?

「本当の自分」なんてどこにもないと思っているけれど、「窮地に立たされたときの自分」はあると思う。それを本性と言ってもいいかもしれないけれど、ぼくは自分を全く信用していないので窮地に立ちたくない。本性なんて知りたくない。どうせ人を裏切るに決まっているのだ。100%我が身がかわいいタイプなので。

だから、戦前の日本のようなナショナリズムが濃い国になったら非常に困る。ぼくは基本的に自由を尊重する人間だけれど、相互監視の告げ口社会になったら速攻で口をつぐむ自信がある。きっと誰かを生贄に捧げる。自分を全く信用していなからこそ、「そんな社会になられたら困る」と心の底から思っています。

人は弱いと思っているし、自分の弱さには自信がある。痛みにも弱い。拷問されたらすぐ何でも吐く。だからぼくは一方的な「良きこと」や「美しさ」、「正しさ」や「あるべき論」がとても怖い。美しさは好きだし、良きことも好きだ。でも、それは誰かに押し付けられるものではない。一方的で硬直的な人にはできるだけ近寄りたくないし、そういう社会にならないように努めるのが自分のためでもある。

何でも自由に話せて、互いの自由が尊重される社会は目指すべき理想のように語られるけど、ぼくにとってはセーフティーネットに近い。それはキラキラと美しいものではなく、弱くて醜い人間(自分)が何とか人の姿を保っていられるための防止弁で。本当なんていらないから人でいたい。そう思っています。

「本当の自分」なんてなくても、「このために生きてきたんだ!」と思える瞬間は起こりうる。たとえそれが一日のことであっても、一夏のことであっても。自分ではなく誰がが与えてくれたことであっても。ぼくはそれをとても美しいことだと思うし、そういう人生を送ることができる社会であってほしい。

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