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氷柱の一本

Do your best and go with the flow(人事を尽くして天命を待つ)は、主に一つの物事に関して使われるけれど。私の場合は人生の前半で人事、を尽くしてしまったのかもしれない。英語を話せるようになる、は高校生の時に自力で半年で叶えたのに、何かを定期的に書きたいと思っては未遂、で十数年たった。
無職になったこの3ヶ月、twitterでほぼ誰にも知らせず写真&短歌を地道に重ねたことが久々の人事、となったようで、やってきたflowがくどうれいんさんの小説「氷柱の声」。表立った被害は少なかったけれど大震災の経験から自分の何かが変わった人たちの物語。
1度目は部屋で小説として読み、2度目と3度目は外を歩きながら自分ごととして読んだ。
押されて私も、ここから書き始めてみる。私なりの、私だけの声で、私自身のために。

あの日、3月11日金曜日、栃木県。朝、福島は飯舘村の友からメールが来た。みんなが出てくる楽しい夢を見た、いい一日を、と。
仕事が急に休みになるという珍しいことが起き、ならば実家の仙台に金土日で行こうと思いついた。
形にするとしないでは人生が大きく変わる思いつきがある。
やっぱりやめた、を選んだ後の行動は、まるで予知していたかのようだった。いつもは2000円分しか入れないガソリンを満タンにし、自然食品店がある町まで行って買いだめし、温泉に寄ろうと思ったけれど大きな頭痛がして帰宅、地震が来る。あまりの揺れに、山の神さま、これは何ですか?と問い続ける。友人宅で見たテレビで、若林区で死者数百人とか燃える気仙沼とか、親族の誰とも連絡がつかない私に覚悟を迫る情報が続く。

私は宮城にいなかった。母が心臓を痛くして外でうずくまっているのは、通りがかりの中学生や先生が助けてくれた。判断力と行動力を兼ね備えたスーパーマンの弟が秋田からやってきて同僚を助け、父母を秋田に連れて行った。
エースポートそばの気仙沼の祖母の家がトイレだけを残して波に持っていかれ、町が波という武器で徹底的に打たれるのを高台の神社から叔母たちは見下ろしていた。サンドイッチマンはたまたまロケで気仙沼にいたのに、私にたまたまはなかった。
飯舘村は住めぬ場所となり、友人一家は牧場ごと北海道に引っ越した。

判断力に欠け行動力だけある私は、栃木の避難所でボランティアとして10時~22時、ひたすら動いた。生活場所の福島を急に離れなくてはならなくなった人たちが人ごとと思えなかった。多くの人と仲良くなり、ニーズに応え、イベントを何度か行い、子どもたちの勉強部屋を作った。地元の「ちゃんとした人」たちから「あの人いったい何の権限で」と言われているのを新聞記者さんから知った。いつも尻拭いしてくれる教育長があわてて権限をくれたが、退いた。
その後、宮城で復興支援に飛び込もうと役割を探し、東京での説明会にも参加したが不思議なほどに結びつかず、母に反対されたこともあって栃木に残り、数年後に今の夫と結婚する。

ifは過去に付けてもムダ、というのは知っているけれど。
あの金曜、思い付きを実行に移して仙台に行き、その後の数年を震災復興に心身丸ごと使った自分が、どこかに生きている。どちらかと言えば私らしいそっちの私は、判断力がないなりに、何かを成し遂げて満足してるんだろうか。
こっちの私は今、仕事もボランティアもやめ、社会や算数から距離がある森の中で音楽家の夫と、ひたすら自分の幸せを満たすという50年分の埋め合わせ作業をしている。

氷柱の声、2度目に閉じた時に泣けた。
れいんさん、私もその氷柱の一本です。あなたに訪れた「書いてみたい」のおかげで、もう一人いる自分を見つけ、新しいほうの自分として、書くことも始められそうです。書いてくださって本当にありがとう。

といつか誰かに言ってもらいたいから今は地道に、人事を重ねます。

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