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2020年コロナの旅28日目:旧友アドリアンと塩の洞窟

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朋あり遠方より来る云々というのが昔から言ってあるように、旧友との再会は実に嬉しいものである。

5年ほど前に私はウィーン大学というところに交換留学をしていた。ドイツ語など当時全くできなかったのでほとんど一から当地で学んだ。そのクラスには以下のような人々がいた。

筋骨隆々たる炭酸嫌いなルーマニア人のクリス

朗らかな中国の好々爺、ウェンウェン

麗しき中国の才女、ナウナウ

布袋尊のような福々しい韓国人ジェイル

マフィアにしか見えないクロアチア人(名前は思い出せない)

ドバイの金持ちアリ

善良で知的なイラク人オスマン

穏やかなイラン人サラ

穏やかで妖艶なイラン人マハタブ

クリリンのTシャツを来たイケオジトルコ人エゼンチュ

美しいエメラルドのような目をしたトルコ人のおっさんハッサン

毛の濃いトルコ人エムラ

眼鏡のコロンビア人女性ルシア

アルバニア人のシングルマザー、エグゾナ

クラスのマドンナ的存在のブラジル人レナータ

そして今回の話に関わる男、ポーランド人のアドリアン

このクラスで半年過ごし、クラスメイトたちとは随分仲良くなって数人とは今でもよく連絡を取っている。中でもアドリアンは私と同じく旅好きなようで、よく各地を旅している様を私もSNSで見ていたし、私の旅行の様子に関してもよくコメントしてくれていた。

そんな彼にポーランドに行くと言うと、彼は家に遊びに来いと言ってくれた。ちょうど良く彼はクラクフ近郊に住んでおり、車で迎えに来てくれると言う。彼は私の宿に10時に迎えに来る。

パウに別れを告げて宿へ急ぐ。チェックアウトを済ませてロビー兼ダイニングキッチンで待っていると直にアドリアンの車が到着した。数年ぶりの再開。世界中に頼りになる友がいるのはありがたい。

抱擁して一通り挨拶すると、早速車に乗り込んだ。今日の最初の目的地はヴィエリチカ岩塩坑だ。


ヴィエリチカはクラクフから南東に車で30分ほど言ったところにある。かなり辺鄙なところだ。地上に新しく作られたと思しき観光客を捌くためのモダンな建物とその周りの荒涼としたさまは滋賀のクラブハリエを思い出させる。

入場口まで来て私はその入場料にちょっとしり込みしてしまった。64ズロチだから2000円近い計算だ。

「やっぱり君の家に遊びに行こうか。ちょっと高いし、君はもう見たことあるんでしょ?」

アドリアンに正直に気持ちを伝えた。すると彼は

「気にすることはない。俺が払うよ。今まで旅先でいろんな人に助けてもらったから、今回は俺がコウスケを助けよう。」

と言って入場料を払ってくれた。私の頭には「善きサマリア人」という言葉が浮かんでいた。アドリアンとその家族は敬虔なカトリックである。

岩塩坑は見どころの多い観光地であったが、私が最も好きだったのは最初の何十階も階段を下りて坑道に至る道だった。異世界への侵入に、旋回しながら降下していくのはうってつけの方法に思われた。

果てしない下降

地下深くに作られた坑道の各所に荘厳な教会や彫像が作られている。世界遺産に指定されているのも納得の巧緻さである。そして壁でも床でもひっかいて舐めると確かに塩だ。黒、赤、白と様々な色の塩を削っては舐めつつ、2時間ほどで見学を終えた。地上に戻る時にはエレベーターを使った。

これも全部塩
床もひっかいて舐めると塩

地上に戻る直前にアドリアンが土産物屋で買ったネックレスをくれた。小瓶に色とりどりの塩が入ったものがペンダントになっている。見た目は日用するにはやや奇抜すぎるが、その気持ちがうれしく、重ねてお礼を言う。

二人車に乗り込んでクラクフ近郊の田園地帯を行く。開墾された広大な土地。冬だからかひどく荒涼としている。空も曇りがちで、夕日が顔をのぞかせたり雲の向こうに隠れたり。そんな風景の中、地平線までまっすぐに伸びるアスファルトの道を我々は疾駆する。

家に行く前にレストランによって腹ごしらえすることにした。漬物とシチュー。非常に美味であったし、そんなに高くもなかった。せっかくだから奢らせてもらおうと思ったが、ここでもごちそうになってしまった。


「君は善きサマリア人だね。」

アドリアンに言うと、彼ははにかんで

「こういう時はお互い様だよ。」

といった。


そこからまた20分ほど車を走らせて私たちはアドリアンのご家族の家に着いた。広い畑を持つ農家である。着いた時には誰もいなかったが、しばらくするとお母さんが仕事から帰ってきた。お互いに通じる言語を知らず、アドリアンに翻訳してもらう。ヨーロッパの田舎町に行くと、我々の親世代の人々は極めて人種差別的だったりする(特にラテン諸国)という話を聞くので、とても感じの良い婦人で安心した。お父さんとお兄さんはしばらく不在とのことで、1泊だけお兄さんの部屋に泊めてもらうことにした。

お兄さんは軍人で、各種の弾丸が箪笥の上に飾ってあった。

ずっと泊ってよいと言ってくれたが、クラクフにはもう用はないように思った。パウやコメディショーに後ろ髪をひかれないでもなかったが、私は最終的にはトルコ、ジョージアに行かねばならない。シェンゲン圏内にいられるのは3か月のみ。あまり猶予はないのだ。近くにあの悪名高きアウシュヴィッツもあり、旅人の間ではクラクフを訪れたらそこに足を運ばねばならないような風潮がある。しかし私は、カジミェシュ地区でビッグトムのツアーを受けた時点でかなり克明にナチス迫害の像が浮かんでいた。「シンドラーのリスト」や「ヒトラーの贋札」といった映画でもアウシュヴィッツの光景は描かれているし、今更実物の髪の毛や何かを見たところで私の心に何か変化が起こるとも思えなかったのだ。それにヨーロッパの人々の狭隘な善への志向は自分でも嫌というほど感じてきており、それがユダヤ人に向いて恐ろしいことが起こったことには何の不思議もない。日本人だってふとしたきっかけで迫害されてもおかしくはない。


夕方五時半ごろにはお母さんが晩御飯を作ってくれた。さっきシチューを食べたばかりで空腹というほどでもなかったが、せっかくなのでごちそうになる。

豚肉の煮たのと、フライドポテト、ニンジンのグラッセ、サラダ、スパゲッティのスープ。素朴だが、おふくろの味という感じがした。特に旅行中野菜は不足しがちなので、サラダはありがたかった。

食後にお母さんが焼いたセルニックをつまませてもらった。南ポーランドの古いお菓子で、チーズケーキの源流ともいわれている。これが目ん玉飛び出るほどうまく、お腹いっぱいなのが残念だった。言葉が通じないなりにお母さんにいかに彼女のセルニックがおいしいか伝えると、まだあるから明日食べなさいと言ってくれた、らしい。

衝撃的なうまさのセルニック
ちなみに街のチェーン店で食べたセルニック。これはこれでうまいがおふくろの味には到底及ばない。

久しぶりに一人きりの部屋で大きなベッドの上に横たわると疲れが消えていく。ここでは荷物を漁られる心配もない。明日のセルニックを楽しみにしつつ安らかに就寝。


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