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死を意識する

11月22日66日目。

田舎に住んでいると「死」を感じる場面に遭遇することが多い。

Uターンをしてから3年間ほど、遠別町の農村地帯にある地区の秋の収穫祭に参加させてもらっていた。何をする、というわけでもなく収穫を祝ってひたすら飲む、という会だ。10名前後で行われるその祭では、みんなが顔を真っ赤にしながらたわいもない(本当にたわいもないし時折下品)話を楽しんでいた。それから数年、日々の中で関わることが少なくなり、その後は顔を合わせる機会も少なくなってしまった。

今日、たまたま旭温泉でその祭の中心人物のおじさんとばったり再会。しかもサウナで。お互い全裸なのでまじまじと見ることは控えたけれど、数年前に見た時よりも肉が落ち、体が小さくなっている。ハキハキと大きな声で、ひとつひとつの単語を区切りながら話す口調は変わらないけれど、以前溢れ出していた言葉の覇気は弱くなっていた(サウナで追い込んでいた可能性もある)。

たった数年で、元気そうだったおじさんの身体的な衰えが見て取れたとき。ゆるやかに死に向かうことを意識する。

長くなったけれど、これは一例。

当時、似顔絵を描き始めた時に町の最高齢の方から順番に似顔絵を描かせてもらったのだけれど、今ご存命の方は、もういない。毎週のようにテレビ電話(この町では一戸にひとつテレビ電話がついている)でお悔やみの通知が流れてくる。地元の友達の、親の兄弟が亡くなったという話が口づてに伝えられる。

強烈に死を意識する必要はないと思うけれど、ここで生きていることで、死の意識が少しずつ大きくなっているような感覚がある。自分が生きて、向かう先でいつか訪れる死をどのように迎えるのか、たまに考えてみる機会をつくっても良いのかもしれない。

今日の一枚。5年前に参加した際に撮影した境内。

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ここで宴会が行われることがもうない、と思うと寂しく思ってしまうのは、無責任な感情なのかもしれないね。


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