「わたしの写真を撮ってくれない?」

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イタリアの歌手 Minaのアルバムジャケットを1973年から担当しているMauro Ballettiさんへのインタビュー記事をみつけました。聞き手はMichele Neriという音楽評論家のようです。記事は2018年のもの。
やや長いのでインタビュー設問ごとに章分けしました。長かったり短かったり。(*)は訳注。
アルバム邦題など、詳しい方に教えていただき一部追加しました。

はじめに

ミラノ出身の写真家であり画家であるマウロ・バッレッティの広々とした白いロフトスタジオに足を踏み入れる(ミラノ南部にある19世紀末の質素な学校だったところで、すこし前に住居用に改装された)。銀河系のどこかになん十年も前から隠遁生活をしている、みんなが愛してやまない国民的アイコンがいる。これからぼくが対面するのは、その唯一にして公認の使者であり、スポークスマン(ビジュアルを通じてではあるが)。そんな感覚をもった。なぜって、バッレッティとミーナを結びつける数十年にもわたる関係を振り返ると、それは二重惑星、つまりお互いのまわりを回るふたつの天体のように見えるのだ。ふたつのうちのどちらからやってきているか見分けのつかないシグナル、つまり、音楽の歴史ともいえるレコード・ジャケットとして、もっともゴージャスかつ反逆的な周期を持つシグナルを放っているのだから。その数およそ100。ごくわずかな例外はあるが、その歌手がシーンから消えた年である1978年以降、レコード・ジャケットはミーナが現れる唯一の舞台となり、自身の美学とビジュアルメッセージをこの写真家に託してきたのだ。自身の顔をさらなるストーリーを記すスクリーンとして。

このふたりのコラボレーションは、たったひとりの人物に忠誠を誓う肖像画家なんてめったにいないのもあって、マン・レイとモンパルナスのキキを彷彿とさせるが、1972年にミーナのインスピレーションによって誕生した。ミーナが、タッソーニのCM撮影中に、まだ19歳のバッレッティに写真をとってくれないかと頼んだのだ(彼はカメラも持っていなかった)。そしてそのコラボレーションから、イタリア人のテイストのみならず、世界的レヴェルでのインパクトをもたらす作品の数々が生まれることになった。マウロ・バッレッティは時代に先んじ、そしてこの一連のロング・インタビューのなかで「彼女を知る前からあった恋愛関係」と定義する芸術家同士の連帯のなか、あたらしい美の基準をつくりあげたのだ 。「ミーナの思考を表現するためのイコノグラフィー」として。

大胆なまでの決断力

「はじめて彼女とあったとき」バッレッティは振り返る。「ミーナはわたしが絵を描いているのを知っていた。『わたしの写真を撮ってくれない?』ってね。ぼくなら出来るだろうってわかっていたんだ。それからほんの数ヶ月、1973年にはもう、ぼくたちの最初のジャケット『Frutta e Verdura(*直訳すると『果物と野菜』だけど日本盤『愛の火は消えて』)/Amanti di Valore』ができていた。葉巻をくわえているやつだよ。当時のベタ焼きをみても、ミスショットはなかったとわかる。でもほんとうに見るべきところはそこじゃないんだ。つまり、これぞという写真が撮れたとき、ミーナはそれがすぐわかるんだよ。それができる人は、なかなかいるもんじゃない。
彼女は、ライティングやフレーミングがちゃんと上手くいっているか、感じ取ることができる。求めてる価値がそこに現れているかってね。幸いなことに、わたしはその訓練が多少はできていた。絵に対する情熱や、父親といっしょに数年シネフォーラムにいた経験もあったから。でも、わたしが彼女のビジョンとしっかり同期できていたとはいえ、ジャケットにその名を記すのは彼女。だからいつだって選ぶのは彼女だけれど、イメージや映画、文学、演出といったほんものの造詣あっての選択だったね。創造力とはまさに一瞬のもの、彼女の選択のように。だからこうして葉巻がでてきたり、1975年のアルバム『La Mina(*日本盤『ミーナ』)』の大胆にブレがあるジャケットができるんだ。これはわたしのお気に入りのひとつだよ。彼女が歌っているあいだ、フィルムを回していた。もう一瞬で決まったよ、外野が口出す隙もなく、あるままにね。合理的な人だったらあのショットなんて選ばないよ。まったくクレイジーなひとだよ、筋書きがこれほど読めないとなればね。でもいつもこうだった。いつだってハズしたものを選ぶんだ、その時代の基準からハズしたものをね」

1978年、転換のとき

ミーナの歴史のなかには「8」という数字がよく出てくる。1958年、ブッソラ(*多くの有名歌手がステージに立ったナイトクラブ)で初舞台。1968年、初のライブアルバム。1978年8月23日、シーンからの決定的な引退。1998年にはチェレンターノとの初めてのアルバム(『Mina Celentano』)。そして2018年には、キャリア60周年。ミーナ・マッズィーニ(2006年にはエウジェニオ・クァイーニと結婚してクァイーニ姓に)は78歳になった。(*イタリアは結婚して便宜上パートナー姓を名乗ることはあっても戸籍上の姓はかわらないが、ミーナのクァイーニ姓はスイスでの籍によるものらしい)
「1978年までの年は大変だったよ」バッレッティは語る。「彼女はあっちこっちにいたからね。わたしは彼女をおいかけては“ミーナ”の撮影をしていたんだ。それから、ひっこんだあと、彼女の現実的な姿を記録することはなくなったけれど、そのぶん考え抜かれ、しっかり準備をして、愛とリスペクトをもって共有される姿になったんだ。自分の責任については意識していなかったけれど。でももし狙いがあってたとすれば、それはわたしとミーナが人生のもっとも重要な点についておなじ価値感をもっていたからじゃないかな、ジャケットのためにいい写真が一枚撮れればオーケーってことじゃないんだ」

ふたりを結びつけているものは?

「おそらく、ふたりとも深いところでは孤独を愛するアイデンティティをもって生きているからじゃないかな。とりわけそこが共感できるんだ」

ミーナがアルバム・ジャケットに求めているものは?

「『なんだこれは!』だね。まずはじめに彼女自身が驚くほどでなくちゃ。衝撃を擬人化したものが彼女だから」

不意打ちする衝動を持つこと

ミーナのこうした美的選択眼があらゆることに影響をもたらす理由がひとつあるとすれば、それは彼女の持って生まれた性格にあるのだろう。戦略といったものではない、びっくりさせようという気質。つまり、先の予想がつくことから距離を置いたところで自己表現する喜びなのだ。場合によって、それはスキャンダラスと言われることかもしれないけれど。「たしかにね。80年代初期の2枚組アルバム『Salomè』は、彼女の顔にレオナルド・ダ・ヴィンチ風のヒゲをつけたんだ。頭おかしくなったんじゃないか?っていうやつもいたよ』バッレッティは続ける。「1987年の『Rane supreme』のジャケットではボディビルダーの写真を使ったことで、すごく騒がれたね。筋肉隆々のヌードの彼はうちの近くのジムで見つけたんだ。それから、マスクをした顔と合成した。スキャンダルを狙ったなんて、それだけはないよ。マドンナのヌードはまさにスキャンダル狙いだったろうけど。ミーナについては、わたしたちは驚くべきことをする、驚かせる、あくまでその範疇にいるんだ。わかっている人たちは、たとえ合成したり細工したり混ぜっ返しても、自分自身には忠実でいるものだよ」

顔、それは最高のパレット

バッレッティは解説する。「ミーナは自身の顔をつかった第一人者だ。ルイーズ・ブルックスのような前例者もいるけれど、でもブルックスが作り出した顔はひとつだけ。それかブリジッド・バルドーもね。でもミーナは一年のあいだに、すくなくとも20回はヘアスタイルやメイクをかえたものだよ。60年代のことだよ。それからニナ・ハーゲンがやってきた。あのメイクは多くのひとにインスピレーションを与えたよね。それからマドンナ。グレタ・ガルボからデートリッヒまで彼女に先んじたアイコンたちをそれはよく観察してた。あの頃、モードとはすなわち変革だった。それは外からやってきていたんだ。でもミーナはちがう。すべてはごく自然に彼女自身のなかから生まれたものだ。モードを含めてね。ミーナにとって初めての再生は1965年、眉毛をおとしたとき。その顔をゲームのなかに変革させる始まりで、以後それに情熱を注いだんだよ」

その顔の秘密はどこに?

「目だね。大きくて、とんでもなく知的なまなざし。ピカソやフェリーニ、カラス‥‥‥目は芸術に対する情熱を映すもの。この情熱がまなざしを通じて放たれるんだ、飼い慣らすことのできないパワーでもってね」

芸術的ハイブリッド

「彼女は古典への理解もあるおかげで、たくさんの実験的アートのためにその顔をパレットとして使わせてくれた。その顔は、彼女のヴォーカル能力とおなじぐらい唯一にして多面的なものだからね。それでピカソのような『Ti conosco mascherina』(1990年)、ボテロにインスパイアされたボディをもつ『Caterpillar』(1991年)、『Olio』(1999年)のジャケットには“モナリザ”を……」。アルバムジャケットをひとつ一つ並べて見てほしい(2、3年ごとにリリースされ、ジャンニ・ロンコとのコラボもある)。その時代をゆくスーパーヒロインという印象をうけるだろう。スパイスガールズを始めとするガールズグループもそうかもしれないが、スーパーパワーを持つものには、ミーナ的なところがある。多くのスターたちもフィジカルな次元を越えてスーパーヒューマンになるべく突き進んでいる。しかしミーナは、まさに天性のままに、最初にそれをやってのけたのだ。こうしたふたりの連帯あって制作されたハイブリッド作品の数々は、2016年Sky Art制作のドキュメンタリー番組で丹念に紹介されている────『Tra le immagine di Mina - L'arte di Mauro Balletti』(*ミーナのイメージのなかに - マウロ・バッレッティの芸術)。

テクノロジーへの情熱

撮影そして撮った画像の加工についても、ふたりは技術が躍進する数十年を歩んできた。バッレッティがVHSビデオからの1カットと18世紀の印刷をミックスさせた『Canarino mannaro』(1994年)のジャケットは、超現実的クロスオーバーをつくって時代に先駆けていた。それも手仕事でテクノロジーは使っていなかった。「ジャケットをデジタル画像でつくったのは私たちが最初なんだ。『Sorelle Lumière』(1992年)はMacを使って、30MBの画像を保存するのに7分もかかってたから、よくカフェまでコーヒーを飲みに行っていたよ。そして2001年、ビデオ『Mina in studio』をオンライン配信して、当時のインターネット回線が落ちまくってしまった。わたしは写真家としては懐古主義ではないけれど、ミーナはちがう、ほんとうに前だけを見ているんだ。ずっと過去を振り返ってはリバイバルになりがちなイタリア音楽界にあって、ものすごく稀なことだよ」

ミーナの新しいものに対するこうした情熱はどこから生まれている?

「おそらくは頭の回転が早いんだね、記憶もいいし、レオナルド・ダ・ヴィンチのような脳、知ることや知的なものに繋がりたいという欲求があるんだ。技術を用いても、これだけは変わらない───スピード。『テイクワン、OK!』なんだ」

暗室からアバターへ

今年(*2018年)のサンレモ音楽祭に、ミーナは3Dホログラムのアバターとして「出演」した。これもバッレッティの作品で、アルバム『Piccolino』(2011年)のジャケットに登場していたジャンニ・ロンコ(*ミーナのジャケットでイラストを担当)が描いたものだった。
「わたし自身、その出来上がりにはたまげたよ。なにしろミーナ本人ぬきでぜんぶ作り上げることができるとは思ってなかったから。だけどやってみると、あのまなざし────衝撃、悲しみ、驚きの感動が蘇ったんだ。わたしが企画を立てて、それからアバターはローマにあるスタジオで作ってもらった。あれほどまでに生き生きと心かき乱す目ができるなんて、マジックだよ。はじめに資料を揃えていて、映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』が参考になると思ったんだ。そしてわたしの写真から、技術者は骨格やモデリングを作り出したけれど、それでも唇の動きを再現できていたとすれば、それはわたしは実際にどう動くか知っていたからなんだ。3Dスタジオのモデルに、舌や口がどう動くか、どのように開いて、どのように閉じるかを説明したよ。わたしの知識は、ミーナのフィジカルなモルフォロジーであり、でもまたメンタルにおいてのモルフォロジーでもあったからね。いまやアバターは出来上がって、思ったとおりに動かせるんだ」
技術によって生まれたハイブリッドの“生命力”は、今年リリースされたアルバム「Maeba」のカバーでも、その心ざわつかせる姿を見せている。

不在についてどう語るか

ミーナの魔法を言い表すのに、バッレッティはその影響力が本人のまわりをただよう雰囲気の粒子にまであるからと語っている。それにユーモアと探求も必要だと。チェレンターノとの2016年のアルバム「Le migliori」は、1920年代に精神病院に入院していた女性患者たちの写真にインスピレーションを得たもので、撮影はストリートスタイルの米写真家アリ・セス・コーエンが担当した。

シングル曲「Volevo scriverti da tanto」のビデオは文字づかいで実験的テクニックをみせてくれた。そして今後は?

「また違った見方もしていくよ、そして人間味のあるイコノグラフィーとして本人そのものを素材に知恵を絞っていくという事実は変わらない。おそらくまた新たなカラー、そしてまだ誰も手をつけていないマテリアルを見出していくと思う」

もし最初の出会いに戻るなら?


「予見のようなものはあったんだ、生まれる前からあるテレパシーのようなね。きっとどれほど君のことを知っていたかという気持ちを新たにすることと思うよ」

ミーナがあなたの写真を撮ったことは?

「数回あるね。目のつけどころがいいんだ。ああ、でもどこにあるかわからないな」そう言ってバッレッティは部屋を見回した。壁はパステルや墨で描かれたデッサンであふれ、その大きな紙の合間に、ミーナの顔があちこちで隠れるように貼り出されている。

二重星というイメージについては?

「ミーナは太陽。わたしは小さな星。太陽の彼女は小さな星を、愛情を込めて見ていると思っているよ。そしてその星を使うのが太陽なんだ」

今号の表紙について


(*このインタビューが掲載されている雑誌の表紙のこと)
この表紙の写真を用意するために、バッレッティは彼のいうところの「フランケンシュタイン」を作り出したのだと言う。
「ミーナの未発表写真にはじまって、アーウィン・ブルーメンフェルドが撮った口紅、ほくろ、アイライナーだけの素晴らしい写真にオマージュを捧げたいと思ってね。ベル・エポックのポスターを彷彿とさせる素晴らしいポートレートだから(編注:1950年Vogue USAの表紙になっている)。だから『フランケンシュタイン』をすることにしたんだ。たとえば、この写真にぴったりの口元はあの写真にあるから、というように、気づけば美容整形みたいなことをね。ここの鼻をとるのは、ステファノ・アンセルモの助けを借りた。ずっと一緒に仕事をしているメイクアップ・アーティストなんだ。もちろんこの画像もミーナのOKをとってのことだよ」