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最終的な決定権は、全て自分自身にある。

昔からすごく苦手で、嫌だったこと。

それは、価値観を押し付けられたり、決め付けられたりすること。

お酒の席などで、先輩や上司が「昔はこうだった、ああだった」とか、武勇伝を話したり、自慢話を聞かされるのは百歩譲っていいんだけれど。

「だからお前はこうなんだ」とか「こうしなければならないんだ」と、あたかもその人の考えが全て正しい、みたいな論調の展開がすごく苦手だった。

もちろん上司だし、尊敬するところもたくさんあるけれども、勝手に枠組みを決められて、価値観を押し付けられることが、すんごく嫌だった。

若い頃は露骨に顔に出していたかも知れない。
先輩や上司に噛み付くことも結構あった。
「それ、自分は違うと思います」って言って。
(愛想笑いで受け流していればいいものの…)

今はだいぶ大人になってスルー力も高まったので、サラッと受け流しているけど。


なんでそんなに拒否反応を示していたのかなーと内省してみたところ、なんとなく気付いた。

決定権が自分に無い状態が嫌なんだと。


そう言ってしまうと、何でも自分の思い通りにコントロールがしたい独裁者みたいな人間と思われてしまいそうだけど…。
そこまで自己中で無いし、度を越したワガママでも無い。

なんと表現すればいいんだろう。

「全てを自分の思い通りに決めたい」といった感じではなく、他者から与えられたり、決められたりすることに対して、自分がそれを“する”(Do)という、腹をくくるプロセスやワンクッションをさせてほしい、といった感覚に近い。

ちゃんと自分ごととして捉えて、一度飲み込んで咀嚼したうえで、アクションを起こしたいという願望が強い、と言うとしっくりくるかな。

そういう考えを大事にしているので、「押し付けられる」、「決め付けられる」という行為をされると、すごく不快に感じてしまうのだろう。


人生は選択の連続で出来ている。

朝起きたらまずトイレに行くとか、歯を磨くとか、特に意識せずにしていることも選択のひとつなのだ。

会社で与えられた仕事や決められた任務も、「業務命令だ!」とトップダウンで降りて来たとしても、最終的に「やる」と決めて行動に移すかどうかの選択は、自分自身にある。

極論、「やーらない!」と放り投げることもできるのだ。

結局、最終的な決定権は自分自身にあるのだ。


世の中は評論家で溢れている。

ワイドショーでは、それぞれのポジショントークで、「あーでもない、こーでもない」と批評のオンパレードだ。

他責でいる以上、何も生み出されないし、何も進まない。変わらない。


自分の人生のオーナーは、まぎれもなく自分自身だ。

だからもう、当事者になることを避けて、ただただ決定されるのを待つ、ということはやめよう。

もう十分わかっているかも知れない。
決めるのは自分自身なのだから。

最終的な決定権は自分にあるのだから。

*INAZUMAN*



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