二話

第2回 理想の猫とは

 去年末に私は、『理想の猫じゃない』というタイトルの写真集を出版した。このタイトルは、ある事件の犯人のセリフから取ったものだ。その意味は写真集のあとがきにも書いたけれど、今回は別の視点からこの事件について私が感じたことを書いてみたい。

 2017年10月、北九州で当時高校の臨時教職員をしていた男が飼い猫を次々に殺し、燃えるゴミとして捨てていたため動物愛護法違反容疑で書類送検された。犯行動機について男は「理想の猫じゃないから殺した」と主張、「呼んだらすぐにやってきて、体を触らせて、きちんとトイレをするのが理想の猫だ」と供述した。男は次々と猫を飼っていたが、いずれも理想の猫ではなく、殴ったり踏みつけたりして計20匹を殺している。騒ぎを聞いた近隣住民の通報で警察がかけつけると、まさに猫の死体をゴミ袋に詰めているところだったという。 

 このニュースを見たとき、私は「理想の猫じゃない」というセリフから読み取れる様々な情報に、言葉では言い表しようのない奇妙な衝撃を受けた。

 私も猫を飼っていたのでわかるが、猫は「猫嫌いになつく」と言われるほど、かまわれるのが嫌いな生き物だ。猫はそっけないし、触ろうとすると逃げるし、名前を呼んでも尻尾だけで返事したりする。つまり男の言う「呼んだらすぐにやってきて、体を触らせる」猫は猫の性質ではない。むしろそれを求めるなら犬を飼えばいい。単純なことだ。しかし彼は存在しない猫を執拗に追い求めた。つまり「存在しない」ことに意味があるのだろうと私は思った。 

 おもしろいのは、犯人が学校の先生というところだ。学校とは、まさに「理想の猫」を強制する場所ではないか。学力を基準に優劣をつけ、集団に馴染まないものははじきだす。私の世代は発達障害という言葉はなかったけれど、時代によっては病名がつけられ、服薬治療をさせられるケースもあっただろう。しかも人間は心が伴わなくても「理想の猫」に擬態することができる。「理想の猫」でなければ価値がないとされるから、みんな必死で「理想の猫」になろうとする。その結果、ストレスで精神不安定になろうとも、いじめが誘発されようとも、ほかの選択肢は基本的に与えられない。それくらい「理想の猫」は、絶対的な正義なのだ。もちろん、この「理想」の部分は多種多様で、時代、文化、地域、国、性別、年齢などによっても変わってくる。問題なのは、それが自分にとっての「理想」ではなく、外から強制される「理想」であるということだ。

 そして犯人は同じことを「猫」にやってしまった。自分より力の弱い小動物を、理不尽な理由で殺した犯人に、世間は激怒した。猫に理想を求めるなんて、愚かしい、狂っていると。当然の反応だ。けれど私には、その世間の反応こそが、実は犯人が求めていたことではないのかという気がしてきたのだ。

 犯人は学校の先生である。「理想の猫」が間違っていることを自覚してしまうと、自分の人生を全否定することになってしまう。それを回避するため「理想の猫」は正しいと思い込もうとするうち、歪んだ形で本音を表現してしまったのではないか。そして自分の行動を非難されることで、「やっぱりこれは罪深いことなんだ」と確認していたのではないか。もちろん無意識に。でなければ、猫の断末魔を近隣住民に聞かせて通報させ、「理想の猫じゃないから殺した」という、滑稽かつ、確実に非難されるセリフをわざわざ供述しないだろうと思うのだ。

 「理想の猫」は猫界には存在しない。でも本当は、人間界にも存在しない。できるのは擬態だけ。そして擬態できなければ、存在を否定され死に追い込まれることは、私も経験上知っている。

 つまりこれは、社会への問いかけではないか。などと想像を膨らませていると、「理想の猫じゃない」というセリフが、より一層、意味深く感じるのだった。

 もちろんこれは憶測で、自分の見てきた社会を勝手にオーバーラップさせて、話を飛躍させてみただけだ。事件からインスピレーションを得た創作物と言ってもいい。けれど、人間の行動には必ず意味があると私は思っている。意識に上らないことでならなおさらだ。

 さて、そんなことを言うとまるで犯人を擁護してるように見えるかもしれないが、それとこれとは話が別だ。猫を殺すような異常者とは私は知り合いになりたくないし、もしも近所に住んでいたら怖すぎる。「哺乳類を殺せる人間は、間違いなく人も殺せる」という説があるぐらいだから、危険人物であることは間違いない。
 


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