第13回

第13回 女子校出身者のパーソナリティ

 高校の3年間を女子校で過ごしたことは、私のパーソナリティに大きく影響を与えていると思う。男の視線がない場所で3年間を過ごすと、少なくとも「女」としての擬態は、綺麗にそぎ落とされるからだ。いつかそのことについて書きたいと思っていたけれど、これが意外と難しい。同じ女子校出身でも、他の人がどうだったのか比較することができないからだ。なので、一般論ではなく、私の個人的な経験から考えたことについて書いてみようと思う。ま、いつもそうなんだけど、個人差が激しそうなので先に言っておく。

 私は小・中と共学で、高校だけ私立の女子校へ行った。教室に女しかいない環境はあっという間に慣れてしまうので、それが特別だという意識は、在学中は特になかった。驚いたのは卒業してから。私は短大に進学したけれど、そこで出会う女の子たちを見て、女子校出身か共学出身か、私の目にはすぐに見分けがついてしまうのだ。同じ年頃の女の子がどれだけたくさんいても、その中から女子校出身者だけが、スポットライトを浴びたように違って見える。それは相手が私を見たときも同じで、お互い目が合ったとたん「女子校出身でしょ!」と言い合い、ひとしきり盛り上がる。それは卒業してはじめてわかる感覚だった。

 では一体なにが違うのか。決定的なのは、女子校出身者は存在がジェンダーレスであることだ。男の視線を通した「女」としてではなく、ただ女という性を持った「私」としてそこにいる。それは別に、ガサツだとか下品という意味ではなく、ただそこにいるだけで、もうまったく全然違うのだ。
 では逆に共学出身者はどうかというと、無自覚に「女らしく」存在している。そのことに本人たちは恐らく気付いていない。しかし女子校卒業直後の者には、それがありありと見えるのだ。
 象徴的に覚えているシーンがある。18歳といえば、まだ女としての自分に目覚めていない子もいて、くすんだ色のズボンにTシャツ姿で、化粧もせず日焼け止めもつけてなさそうな、そんな色気のないタイプの女の子が、ふと向かいから歩いてきたときだった。その手の振り方が、私にはシナを作っているように見えたのだ。その瞬間、うひゃあ! と思った。あんなことしちゃって、恥ずかしい。ダッセェ女だなとすら思った。歩くときの手の振り方、たったそれだけの部分に猛烈に「作られた女」を感じのだ。
 もちろんその子に、そんなつもりは微塵もなかっただろう。けれど、そのときの私には、“男の視線を通してしか自分でいることができない”存在に見えてひどく恰好悪く見えたのだ。それは、ぶりっ子のようなしたたかさではなく、ただ女が女に押し込められているだけの、行動が制限されたような姿だった。 

 セックスとジェンダーという言葉があるけれど、女子校に行くと、「女らしさ」がそぎ落とされ、性差としての「女」だけが残るように思う。なにが「性差」で何が「らしさ」か、私はそれまで共学だったこともり、その違いが自分自身で自覚しやすかったと思う。

 女子校に入学して、まず最初に驚いたことは、女子同士がむやみにつるまないことだった。共学の小・中学校時代は、休み時間になると友達同士で一つの席に集まって喋ったり、一緒にトイレに行ったりするのが普通だった。ところが女子校では、半分くらいの生徒が自分の席で顔を突っ伏して寝ていたりする。喋りたいときは喋り、一人でいたいときは一人でいる。その様子を見たとき、なるほど、女子同士でつるむことは、男を意識した行動だったのかと自覚した。たぶん共学だと、女が一人でいるだけで、そのことに大きな意味付けをされてしまうのだと思う。何かその人に性格的な問題があるのかもしれないとか、周りの人間が意地悪しているのかもしれないとか。男子にそう思われたくないので、ことあるごとに女同士で固まって、まともな女(=イイ女)であることをアピールをする。けれど、女子校には男がいないので、そんなアピールをする必要がない。むやみな仲良しごっこがないのである。
 私の通っていた高校はイジメもなかったけれど、それも同じ理由ではないかと思う。性格の悪い奴は嫌われていたけれど、イジメが起きるほどお互いに興味がないのだ。小・中学生だったらまた違うかもしれないが、高校生にもなると女子同士でそこまで相手に執着しない。男がいないぶん、女同士で嫉妬や憎しみも生まれないのだと思う。

 女子校に通い出して半年くらい経つと、自分の中にある「女はこうあるべき」ストッパーがどんどん外れていくのを自覚する。スカートに手を入れて足を掻いたり、服に手を突っ込んでブラの位置を直したりすることが、電車の中でも平気になってしまう。それまでの私は、人前で鼻をかむことすら恥ずかしくてできなかったのに、そんなのお茶の子さいさい。私はやらなかったけれど、スカートの下にジャージを履いて登下校する子もいた。ということは、そうした行動に品がないと感じるのは、男の視線を通した女の意識なのだと思う。
 クラスメイトには「女だけだからいいよね」という結束感を持ちたいがために、過剰に下品さをアピールするタイプもいて、わざとみんなの前でおならをしたり、教室中に響く音で鼻をかんだりする子もいたけれど、そうした生理的嫌悪感を与えるレベルの下品さは、女だけの空間であっても嫌われていた。だから女だけだから下品さが加速すると言えば、そうでもない。

 「綺麗になりたい」願望は、男がいなくてみんな凄まじく強い。充分痩せてるのに、さらに痩せようとしてダイエットしている子はいっぱいいたし、休み時間になると、毛抜きをしている子がたくさんいた。私はというと、高校時代が一番美容マニアだったんじゃないかと思うくらい、お肌の手入れに夢中だった。当時はガングロが流行っていて、イケてる子はだいたい肌を焼いていたけど、私は一人真っ白に美白して、冬でも日焼け止めを塗っていた。家では足の角質を磨いてツルツルにしていたし、表情筋を鍛える顔の体操を毎日やっていた。電車の窓ガラスに映る自分の顔を見すぎて、乗り過ごしてしまったことがあるくらいだ。女が「美しくなりたい」と思う気持ちは、男の視線を通した「女らしさ」ではなく、本能なのだと思う。

 共学では暗黙の了解で、男が上で、女が下になり、劣位の性としての女を自覚し、その中での立ち回りを考えてしまうと思うけど、女子校ではそれもない。女子同士では、弱い女をアピールするメリットはなく、自然と強さで勝負するようになる。わざと舌ったらずな喋り方で可愛い子ぶる子はいたけれど、それはただの幼児返りだった。
 ちなみに私の知る限り、クラスにレズビアンはいなかったけれど、それはもしかしたら珍しいことなのかもしれない。

 さて、そんなふうに「女らしさ」だけがザラザラと洗い落とされ、一歩外へ出ると、世の女の子たちがあまりにも作られた「女」であることに驚愕する。それは目の前に男がいるかどうかは関係なく、恐らく一人でポツンといるときだって「女」なのだろう。それほどに、共学で育つと男の視線が内面化されてしまうのだと思う。しかもまったくの無意識に。その違いに気づいたとき、私は女子校に行ってよかったと心底思った。男の視点でジャッジされることなく3年間を過ごしたことで、男だから、女だから、という前に「人」でいることができたからだ。その違いは大きい。
 もしも共学しか経験していなかったら、私は過剰適応しやすいタイプだから、喋り方、笑い方、話の内容、歩き方、立ち振る舞いなど、ありとあらゆる行動に、無意識に女としての制限がかかっていたように思う。女を演じることでしか、人との関わり方がわからなかった可能性を考えると恐ろしい。
 
 ちなみに今はもう相手を見ても、女子校出身かどうかの見分けはつかない。社会に出ると、それだけあっという間にジェンダーを身に着けてしまうということなのかもしれない。


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1980年、東京都生まれ。写真家、ノンフィクションライター。写真集に『やっぱ月帰るわ、私。』『理想の猫じゃない』『ふあふあの隙間①②③』、著書に『ノーモア立川明日香』(共著)、『のらねこ風俗嬢-なぜ彼女は旅して全国の風俗店で働くのか?』など。@kaworikawori

コメント1件

仕事しててもこの人女子高かなぁ、共学かなぁと思ったりします!
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