帰宅 1

 良いライブだった。僕は5分遅れで恵比寿駅の下りホームに滑り込んできた埼京線の電車に乗り込み、扉のそばに見つけた空席に腰を下ろす。直前で取り出したiPhoneを手に、先ほど終演した来日アーティストによるライブの曲順を頭で整理する。ほんの数十分前の興奮をできるだけ長く持続させるため、会場で一生懸命目と耳で受け取った情報を丁寧に脳内で再現していた。同時に心地よい疲労感が胸や足に染み出してくるのを感じていた。
 アメリカ・ピッツバーグから来日していた彼らは、先月からアジア7カ国をスケジュールに組んだ長期のライブツアーを始めており、日本でも、7年ぶりの来日ということで話題性のあるインディー・ロックバンドだった。20歳の頃に、大学の軽音サークルの先輩に教えてもらって以来、新譜が出れば必ずその日に買って聴くほどには好きなアーティストだった。当時彼らの音楽についてあれこれ批評し合った先輩たちは、今回のツアーに足を運んだだろうか。先輩たちとは、彼らの卒業後徐々に連絡の頻度も減ってしまい、SNSでお互いの投稿に反応を示すくらいになっていたのだが、そのSNSも半年前に僕はアカウントを消してしまった。
 降車駅の一つ前である大崎駅への到着がアナウンスされる。ドアへ近づくふたりの男女が、今日の公演の物販にあった限定Tシャツを着ていることに気づいた。長年の付き合いが醸す安定感のある距離感を彼らの間に感じた。僕が座る座席の前を通り過ぎる際に、少しだけ会話が聞き取れたが、どうやら今日のライブとは関係のない話であるようだった。僕は彼らが車外へ出ていくのを傍目で見送った後、iphoneを音楽ストリーミング・サービスのアプリをタップし、今日のセットリストを再現したプレイリストの作成に取り掛かった。
 去年にでた新譜が主軸となりライブ構成が組まれていた。僕は発売当時から今日に至るまで何度も通して聴き込んでいたので、さくさくと演奏順に曲を選び、正しくリストに放り込んでいくことができた。スーパーマーケットであらかじめ当たりをつけておいた食材をさっさとカゴに詰めていくような、半ば自動的な感じすらあった。しかし、7曲目のスロー・バラードを終えたあとに始まった曲がどうしてもよく思い出せない。というよりも、会場で聞いていた当時もイントロからサビに至るまで全く聞き覚えがなかったような気がする。降車駅に着くまでの間、かなり真剣に本当に聞き覚えがなかったのかどうか、脳内にイントロのギター・フレーズやサビのコーラスの雰囲気を再現してみたが、やはり曲名に心当たりはないようだった。そうこうしているうちに降車駅への到着がアナウンスされたので、電車の速度が落ち着くのを待って立ち上がった。
 スマホを尻ポケットに突っ込み、数人とともに車外へ出ると、どうやらポツポツと雨が降り始めていることがわかった。折り畳み傘やレインポンチョを持ち合わせていなかったので、駅前のセブン・イレブンでビニール傘を買ってさすかとも考えたが、そのための600円ほどがどうにも惜しい。傘は家に帰ればすでに2本あるわけだし、そもそもこのいっ時のためだけに使われるには、600円は躊躇われる金額だった。僕の経済状況はここ何年もの間余裕などなく、昨日だってカード引き落としに間に合わせるための30000円をネットキャッシングで都合したばかりだった。結局、濡れて帰ることを覚悟して改札を抜けた。外はやはり小雨が無軌道に舞っており、駅構内でそれをやり過ごそうとしている人も何人か見かけられた。彼らは全員が揃って各々のスマホを見つめ、忙しなく親指で突いているものがいれば、横向きに持ってただ静止しているものもいた。僕も、どうせ濡れるのならばと少し待ってみることにして、スマホを取り出した。それとほとんど同時に雨が止むのを待っていた人たちのうちの一人が、外に出て行ったのが視界の隅に入った。 顔は見えなかったが、黒髪のボブカットで身長はおそらく150センチに届かないくらいの小柄、所有主に負けず劣らず小さな、一体どのようなものが選び抜かれてそこにしまわれているのか気になってしまうほどコンパクトなショルダー・バッグを下げた女の子だった。  

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